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【近況エッセイ】英語学習と犬のこと

今年の目標を書く機会があり「イギリス英語を話せるようになる」と書いてしまったからには、より本格的に始めねばなるまい。


そう思い、ずっと机上のホルダーに挿してあったテキストを開いた。

ゆうに3、4ヶ月ぶりである。


いろいろな理由があり、僕たちは小中高で習う「アメリカ英語」ではなく「イギリス英語」を扱える人間になりたいと考えている。

遠い老後があるとしたら、それまでにIELTS7か8を取って、スコットランドに移住し穏やかな老後を過ごしてみたいなどと夢想する。

そのために、あるいはあわよくばそれまでに何度も彼の地を訪れたいがために、僕たちはイギリス英語を学ぶのだ。

単語の表記、発音、アクセントなど、アメリカ英語との相違は多々あるらしい。
……と、いうのは、エリザベス2世の表紙が印象的な雑誌で聞いてより強く実感したことだ。

当然ながら、そして改めて痛感したことは、「言語を学ぶ」というのはなにもリーディングだけができれば良いわけではなく、語彙が頭の中に溜まっても発音が分からなければ正しく出力できないし、相手の話を聞き取れなければ返答のしようもないし……。

さらに僕たちにとって致命的なことには、新たな人々と話すのなら、コミュニケーション力とユーモアのセンスがある程度必要ということだ。


閑話休題。


そもそもなぜ "English Grammar in Use" を開くのが数ヶ月ぶりになったかの話をしようと思ってこれを書きはじめたのだった。


決して安い買い物ではなかったため、買うからにはきちんとやり通そう、1日1ユニットと決めていた。
しかし数か月間、お休みしてしまった。
というか、なんとなく開くのがためらわれた。


亡くなった犬のことが思い出された。


1日1ユニットを守って勉強していた数ヶ月前。

亜麻が夜にテキストを開いて勉強していた時、ふと犬の体の変化に気づいたのだった。翌朝まで様子見して良いものか不安になり、夜間病院に駆けこむことになった。

その時は大事には至らなかったのだが、以来「英語の勉強を始めると悪いことが起こる気がする」という根拠はない気分によって、このテキストを開くことがためらわれていたのだった。


頭では、英語学習と心配な出来事の間に関連がないことは分かっている。

それでも人間とは不思議な生き物で、当時の状況に紐づいた印象を長く引きずってしまうものらしい。



犬が亡くなってから3ヶ月ほどが過ぎた。

寂しさの感じ方やこころのうごきは少しずつ変化しながら続いている。
その変化の一環か、「そろそろテキストを開いて文法の勉強を再開しよう」という気持ちになった。

昨日から、また1日1ユニット。

久しぶりにやったページはちょうど苦手な文法で、成績はボロボロだった。
が、心配事はなにも起こらなかった。ちいさなジンクスの崩壊。


同時に「こうやって何かを打破していくことを『生きていく』というのだろうか」などと考えた。

大切な誰かが亡くなってしまう。

僕は輪廻転生を信じているので、「誰か」が消滅してしまうとは考えない。が、体をなくして姿を変えること、見えなくなることは寂しい。

誰かの「生きる」時間が終わると、その誰かが「止まって」しまったように感じられる。

けれども残された人々の「生きる」時間は続くので、「止まった」誰かとの距離がどんどん空いて行ってしまう気がする。

さながら「見えなくなる」ことと「時間的距離が離れていく」ことの、二重の別離が生じるように思われる。

人は誰かと離れたくないと思うがために、故人の部屋をそのままにしておいたり、大切にしていたものを身につけ続けたり、生涯喪服を着続けたりするのかもしれない。


故人に影響されて止めたことをまた再開するのは、さながら止まっていた時計の針を進めるような思い切りが必要になることだ。
僕たちが再びテキストを開いたことで、時計の針が進みはじめてしまった。

遠ざかっていくようで寂しいけれど、かといって止まったままでいるのも犬が喜ばない気がする。だから再開することにした。


いろんな思いが乗っかるからには、きっとテキストをやり切りたいと思う。




サムネイルの画像はPixabayからお借りしています


Jessie

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