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文章を知るほど、国語の問題が馬鹿らしく見える
最近、「物語の構造」について考えさせられる本をいくつか読みました。
作り手はどんなことを考えて、キャラクターにこの行動をとらせるのか。
なぜこういう展開にするのか。
なぜ、ここでこういうセリフをしゃべらせたのか。
セリフという観点ひとつとっても奥が深くて、圧倒されるほど。
ひとつのことを言い表すのにも、いろいろな言葉の選択肢がありますよね。
なぜ、たくさんの中からその言い回しを選んだのか。
含みのあるセリフ、地の文を書く時、そこから読み取れることは人の数だけあります。
ところが物語や文章の奥深さを知るほどに、釈然としなくなっていくことがあります。
国語の問題についてです。
多くの人に経験があるかもしれませんが……。テストにこんな問題が出た記憶はありませんでしょうか。
「傍線部1について、この時の著者の意図を答えなさい」
下に3つか4つの選択肢が並んでいます。
この系統の問題に最初に違和感を覚えたのは、実は高校生の頃。
同じ文章を読んでも、人によって受け取るものは全く違う。
その人の過去、経験、ものの受け取り方によって変わるものなのに、4分の1に集約できる「正解」ってなんだろう。
人の期待する答えに自分を沿わせなければならない小さな苛立ち。
当時感じたそんな違和が、再び戻って来たのです。
今振り返っても、やっぱり……いや、ますますおかしい。
「このように感じなければならない」と、感じ方を規定するかのよう。
私は国語の点数が全体的に高かったのですが、それを自慢に思っていた当時を思うと虚しくなります。
「国語が得意だ」という自意識は、私にとって大事なものです。
けれど同時に、虚しい。
「作者の意図」の問題に正解できるということは、他人の期待する姿を演じるのが上手いだけだから。
作者の意図は、作者にしか分からないはず。
それを、問題を作る人が考えて、「正解」と「不正解」に分けてしまうなんて。
物の見方を「こうあるべき」に規定するための問題。
今さらのように納得できる。
何を感じなければならないか。自分の感情ではなく。
どのように「正しく」回答しなければならないか。
そう考えながら読んでいたから、教科書の小説は色あせていったのだと。
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