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僕はもう誰にも監視されていない

バイトが終わって帰宅すると、疲れきって何もできなくなるのが悩みのひとつだった。

バイトは別に長時間なわけでも、ブラックな環境でもない。
一緒に働いているのは良い人たちで、「よく僕がこんなところに入れたな……」と驚くこともざらである。


それなのに、なぜ僕は疲れきってしまうのだろう。

帰宅後まず2~3時間レベルの昼寝を挟まないと、疲れきって何もできない。

最初は単に疲れやすいだけだと思っていたが、近ごろ、別の理由に思い当たるようになった。
そしてその理由のもと対策を試行錯誤していったら、ここ1週間くらいは疲労が大幅に軽減され、昼寝なしで1日中活動し続けることができる、または30分程度の昼寝ですっきりと目覚められるようになった。

僕がやったことといえば「僕はもう誰にも監視されていない。自分のペースで、自分が思うようにやっていいんだ」と自分に言い聞かせることだ。


バイト中、あるいは家で何かの作業中。僕は自分がなにがしかの脳内批判を繰り広げていることに気づいた。

「今これをやっていたら、○○の違い/間違い/そのほかの理由で怒られるのではないか」

「○○だと思ったので、今これをやっているんです。次にそっちをやろうと思ってました」

頭の中で無数に批判と弁解のシミュレーションを繰り返し、、いつ見られたとしても「がんばっている、サボっていない」ことが伝わるように手を動かし続け、「きちんと順序立てて考え、理由があって今の作業に勤しんでいる、真面目に頑張っている」ポーズを取り続けていたのだ。

ちなみに実際に「なんで今それやってるの⁉ 先にこっちでしょ!」などと詰め寄られたことは、ない。

単にそう言われるような気がするだけ。もしも実際に言われた時にびっくりして泣きださないように、思いつく限りのパターンをシミュレーションして弁解を準備しているだけだ。

弁解したところで投げつけられた叱責は消えないしパニックはすぐには収まらないけれど、せめて「考え無し」の烙印からは逃れることができると思った。


僕はどうしてこんなことをしているのだろう。

思えばこのシミュレーションを始めてからおよそ20年が経とうとしている。元を辿ればある出来事に思い至った。


それは食事中の出来事。

テーブルマナーの中に「空いている方の手はテーブルの上に出しておくとよい」というのがあるらしい。

武器を隠し持っているわけではないことの表明になるのだそうだ。

僕は左利きで、箸やスプーンを使っている時は右手が空く。
そしてその右手をだらりとテーブルの下に下ろしておくのが癖になってしまっていた。

「右手」

手を出しておくのを忘れると、素早く父親からの注意が飛んでくる。

僕は右手を卓上に出す。けれども肘から上を漫然と置いておくのに疲れて、しばらくすると腕は重力に従って再びテーブルの下へ。

「右手」

食事中に何回も、何回も。

食べはじめた時は気をつけておこうと思って出しておくのだけれど、ちゃんとしている時は何も言われない。(注意されないだけでも平和で御の字だと思っていた)

けれども当時の僕の集中力が食事中ずっと続くはずもなく、気がつくと右手はテーブルの下に下りていて、また注意が飛んでくるのだった。


「僕は見られている。ダメな振る舞いをしたらすぐに怒られる」


僕はそういう価値観を身につけていったように思う。



小学校低学年の頃、親から「登下校中、近所の人にあいさつをするように」と言われた。

あいさつのお陰で助かったこともあったから大切な習慣だなとは思うが、僕にとってはこのあいさつも曲者だった。

「道行く人に挨拶しながら登下校する」というのは実は高度なスキルが求められる行動だと思う。
声をかける距離が遠すぎれば、相手に向かって言ったと認識されず無視されてしまうし、あまりにもすれ違いざまだと距離が近すぎて言い終える頃には振り返る格好になってしまう。

僕は適切な距離感と声の大きさと、気づいてもらいやすくするために会釈が有効だということを会得するのに多大なる努力を要した。

気を張っているのに疲れて、あいさつを休んで黙々と歩こうと考えたこともあったが、できなかった。

「やりなさい」と言われたことをサボったら、今にも宅地の曲がり角の向こうから親が出てきて僕を叱るのではないか――そんな妄想に憑りつかれていたのだ。

だって親は僕が油断している時にこそ僕を見ているのだから。
「誰も見ていないから」などという理由でサボるなんてきっと罠だ。

そんなふうに思っていた。


いつからか僕のこの価値観は拡大され、家に家人が在宅の時、犬との散歩中、バイト中……等々、いつでも誰かに見られている気がするようになってきた。

怒られなくて済むように、自分が外からどう見えているかを常に気にし、「自然に振る舞っているポーズ」でいることに注意を向ける。


机に向かっているポーズ

犬の散歩をしている礼儀正しい一般市民のポーズ

真面目にバイトに勤しむ人のポーズ……。


僕の一挙手一投足には必ず「これから何かをやろう」という理由があり、聞かれた時には常にそれを明らかにできるよう言葉を用意しておかなければならない気がしてくる。もう怒られないように。


ずっとそのようにしてきていたのだ。




上のような思考と記憶に気づいたので、最初に書いた声かけを自分に対してすることにした。

「僕はもう誰にも監視されていない。自分のペースで、自分が思うようにやっていいんだ」

実際、僕が今身を置いている環境はそれが事実であることを証明している。
誰からも何も言われたことはない。バイト先の叱責はすべて、僕が僕にする脳内批判が職場の誰かの声で再生されているだけのことだ。


効果は2、3日で表れだした。


まず背中のあたりが軽くなった。こういうのを「憑き物が落ちたような」と表現するのだろうか。
肩や胸のあたりも自然に脱力していき、息が吸いやすくなった。(僕は10年ほど前から慢性的な息苦しさに悩まされている)

背中にかかっていた力が抜けると、意識しなくても背筋が伸びて姿勢が良くなるようになった。
いつも「猫背にならないように」と意識していたのに、今は特に気にしていなくても背筋が自然とまっすぐになっている。

そして前述のように、昼寝の時間が減った。

脳内批判はそれほどまでに気力を消耗させる防御策だったのだろう。帰宅後も体力は余っており、活動したり、仮眠だけで済むようになったりした。


「僕はもう誰にも監視されていない。自分のペースで、自分が思うようにやっていいんだ」

言い聞かせ始めた最初は疑う気持ちもあった。何せ20年近く持ってきた信念なのだ。

だが上の言葉が真であることは環境が証明している。

そして実際に脳内批判をやめ、「自分のペース」を守って作業するようになると、本当に周りから何も言われないことが体験的に理解できるようになっていった。

「きっと何も言われない」が「本当に何も言われない」に変わっていった。しかも作業ペースはむしろ少し早くなったくらいだ。

僕は誰にも監視されていなかった。周りは僕が活動していても、休んでいても、僕のペースを尊重してくれるらしい。

昼寝に消えていた時間で、もっと小説が書けるだろう。本が読めるだろう。

こうやって少しずつトラウマから脱却していければいいと思った。




直也

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