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「応援」とはそもそも何か。「応援」の流れの中の應援團【『応援の人類学』読後感想】

三高應援團が本に載った!

とっても嬉しいお知らせ!

私の母校、仙台三高の應援團が取り上げられている本が発売されました!

その名も、丹波典夫氏編著『応援の人類学』(青弓社)。

この本の中の『第6章 時代を映す鏡としての應援團――ある戦後新設高校の事例から』を執筆された小河久志さんは、三高OBでもあるそう。

自分が関わった団体が本に載り、詳しく研究されているのを読むのは、なんだか照れ臭いようで、また客観的に見る機会を与えられたようで、とても新鮮に思いました。

まるで、知らない高校の話みたい(笑)。

幅広い「応援」という行為

本には三高應援團のことだけでなく、「応援」というジャンルに属するありとあらゆる事例と側面が取り上げられており、興味深いです。

「応援」というジャンルは高校・大学応援団、そしてスポーツ応援のためだけにあるわけではなく、

島に伝わる歌や踊り
伝統的祭りのお囃子
アイドルへの声援
なども、「応援」に含まれる行為だとされていました。

目から鱗。そんな見方ができると考えたこともありませんでした。

しかも第一章から順を追って読んでいくと、「誰かを応援する」「声を出すことで空間・状況に影響を与えようとする」「みんなで盛り上がる」という行動が、決して近代に生まれたものではないことが分かってきます。

風間計博氏の『第1章 共感と感情的高揚からみる応援・支援――キリバス人・バナバ人の歌と踊りの事例に基づいて』は、この本の中で特に好きな章のひとつです。

時代を映す「三高應援團」
変わらないものなんてない

三高應援團には守られてきた伝統があり、私は先輩からそれを教わり、後輩に伝えました。

伝統、硬派、変わらないもの。

應援團に対して抱いてきた印象が、章題の『時代を映す鏡』という時点で裏切られる。

え、どういうこと?

読み進めていくと、應援團の伝統の「移り変わり」とでも呼ぶべきものが見えてきました。

應援團が介在する行事はそのままでも、共学化以前と今とでは、細かいやり方が変わっている面もあります。

また、時代と共にすたれてしまった演舞や歌の存在。

最大の変化は、女子も入団できるようになったことかも(当事者)。

應援團が永遠に設立当初の姿を守ることは、そもそも不可能なのかもしれません。

変わって良いものと、変わらないもの

しかし三高應援團の事例を読んでいるうちに、あることに気づきました。

行事のやり方や共学化、女子の参入などの変化は、「外側の変化」とでも呼ぶべきものではないでしょうか。

應援團には、おそらくずっと変わっていないものもありました。

それは、精神面での教えです。

先輩に忠義を尽くすとか、礼儀正しい振る舞いとか、時間を守るとか。

幹部の態度からにじみ出るもの。

それらは應援團の「核」と言えるのでは?

それこそが、應援團の「伝統」なのでは?

守り抜かれている「核」の外側で、行事のあり方や学校のあり方が、ゆるやかに変わったり、変わらなかったりしている。

同心円を描くようなイメージが、私の中に広がりました。

周りがどんなに変化しても、精神性が受け継がれれば、應援團は應援團なのではないかな。

もっと早く読めていたら

『応援の人類学』は、2020年12月に刊行された本です。

「もっと早く読めていたら……」などと望むのはお門違いかもしれませんが、もし私が現役の時に読んでいたら、また違ったことを考えたのかな、何か心境に変化が生まれていたかもな、などと考えずにはいられませんでした。

当時の私は日々の練習と、スポーツのルールを覚えて応援することに精一杯で(野球のスコアボードの見方も知らなかった)、「應援團」という組織の中にどっぷり浸かっていたから、「研究対象として、客観的に見る」という視点を持つべくもなく。

当時の私にとって「応援」とは自校の部活を応援させていただくことであり、お祭りのお囃子やアイドルへの声援を、同じ流れの中にあるものと連想することもできていませんでした。

もし当時、この本を読むことができて、同じところに感動できていたら。

自分の身に着けた態度や演舞がまた違ったものに見えて、活動に別の面白さを見つけていたかもしれません。惜しい。惜しすぎる。

とはいえ、時間は戻せないので、これからの糧にしていこう! という決意にかえます(^_-)-☆

もしもこの本がもっと早く書かれており、私が在学中に読んでいたら、また違った視点で応援に向き合えただろうな、とも思いました。

自分が関わっている間は三高應援團のことしか見えない・見ないので、「応援」という広い視野を手に入れていたら……と、「もしも」を考えずにはいられませんでした。

もちろん、今読んでも当時を振り返る形で、別の面白さを感じました。

情報化による、管理された応援

『第7章 集合的応援での統制と管理――日本のプロ野球私設応援団の管理をめぐる変遷から』

『第8章 バンクーバー暴動とは何だったのか――北米プロスポーツリーグのファンダムをめぐって』

この2章も、興味深かった章のひとつ。

私設応援団は管理の下で応援している!

特に、私はどこのプロチームも応援してないので、私設応援団の活動をテレビ中継でしか見たことがありません。まったく未知の世界。

だから、「プロチームには私設応援団という、ファンが自主的に組織する応援団がいて、熱心に応援しているんだな」くらいの認識でした。

ところが特に第7章を読んだことによって、漠然とした印象が根底から変わってしまったのです!

私設応援団がしっかり活動できるようになるまでに、これほどたくさんの試行錯誤と規制、対策があったとは。

情報化の進展を「スポーツ」という観点から見ているようでもあり、知らない世界にわくわくしました。

声を合わせることが、心を鎮めることに繋がる?

もうひとつ印象的だったのは、決められた応援歌や掛け声で「声を合わせて応援する」ことの効果。

これまでの私の勝手なイメージでは、「声を合わせた方が一体感が生まれるし、お祭りみたいでなんだか楽しい。だから応援歌とかがあるのかな」でした。

読み終えてみると……浅い(笑)。

広島市民球場に応援団の連合組織ができた七七年からは観客が起こす騒動は少なくなっていて、特に群衆が集団で暴徒化することはなくなった。私設応援団による組織的な応援が、観客の逸脱的な行動を抑制しているのかもしれない。(206ページより)

「声を合わせて応援する」ことに、まさかこんな効果があったとは。

確かに、戦況が思わしくなくてイライラした人がいたとしても、みんなで応援歌を歌う必要があれば、愚痴を言う暇なんてありませんね。口はひとつしかありませんから。

もしかしたら歌っているうちに楽しくもなってきて、何を愚痴りたかったかすら忘れてしまうのかも……。応援て、すごい!

暴れたのは何者か?

第8章で取り上げられているバンクーバー暴動のことを、私は本書で初めて知りました。

そんなことがあったのか。人って、集団になるとなんでもできちゃうからな。

……と思う脳裏に浮かぶのは、渋谷のハロウィンで車がひっくり返されていく時の映像。

第8章を読むうちに、物事の裏側というか、正体を見極めることの面白さと大切さについて考えるようになりました。

詳しいことはぜひ本文を読んで欲しいのですが、「実際に暴れたのは誰?」という問いは、一見スルーしてしまいそうなところに着目している感じがして、「そんなところまで研究していくのか」と、研究者の細やかさを感じました。

また、第8章のおかげで世の中を見る目が変わり、「どうして人が暴動を起こすのか」「暴動を起こす集団は、どういう人たちで構成されていそうか」など、「暴動が起きた」という事実をもっと深く探求してみたい、考えてみたいという思考がそなわりました。

専門書? いえいえ面白い読み物です!

「○○の人類学」とか、「○○学」という書名の本て、いかにも「専門書」「その道の人が読むもの」みたいなイメージがあって、とっつきにくいイメージがありませんか? 私はありました。

『応援の人類学』を読んで、そのイメージは綺麗に払拭!

確かに書いてある内容はフィールドワークに基づく論文調で、いろんな方が研究をまとめた成果です。

けれど、専門用語が頻出するわけでもなく、特殊な言い回しを使う時には「この論文中で使うこの言葉は、こういう定義を表すものだよ」とことわってあります。

日本語で書かれているわけだし、めっちゃ楽しく読めました!

ちょっとでも「面白そうだな」「新しい視点で世界を見られるようになりたいな」などと思う人は、迷わず手に取ってみることをおすすめします。

あと、三高生はこれ読むと共通の話題として盛り上がれるかも(^^)


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