見出し画像

新しい生き方:ひとりでふらりと出かけること

締切を終えて燃えつきていたとある朝。Twitterのライムラインで「面白いインド映画がある」という情報を見つけた。

劇中歌がアカデミー賞を獲っていて、「そうはならんやろ」という展開が3時間ぶっ通しで続き、「10分に1回は名シーンが生」まれ、「ナートゥ」という踊りをご存知になれるらしい。

実はインドやネパールのあたりが大好きな私は、非常に心を惹かれた。
しかし、今日は貴重な休日。当初の予定では一歩も家から出ないはずだったのに……。

調べてみると、私が行ける範囲でその映画が上映されている。最寄りではない映画館だけれど、遠足だと思えば1日で行って帰ってこれる場所だ。

……。

私は午後上映のチケットをネットで買った。



瞬発力というか、フットワークの軽さというか。
「思いついたらふらりと出かける」ような身軽さが、私には欠けている。

それは予定外の出来事に弱い私の特性とともに、これまで、飼っていた犬をひとりで留守番させておくのをかわいそうに思っていたからだ。

念のため言い添えておくと、うちの犬はちゃんと留守番ができる。私が買い物や仕事に行く時はひとりで静かに家にいてくれた。重要なのは私の気持ちだった。

私が外で何かを楽しんでいるあいだ、犬は家で黙々と眠ったり、誰か帰ってくるのを待っていたりしている……と思うと落ち着かなかったのだ。
犬本人が留守番についてどう考えていたかは、残念ながら分からないけれど。

加えて私自身の癖みたいなものもある。

犬と暮らしはじめた時、私はまだ小学生で、近所には「ひとりでふらりと出かける」ような場所も少なければ、小学生のひとり歩きが奨励されてもいなかった。
私の外出とは、親に「○○に行きたい」とリクエストし、承認されれば車を出してもらって一緒に行くというものだった。

つまり行動範囲は狭く「行く気になった」と「出かける」のあいだが広かった。


だが状況は変わっている。犬は亡くなり、私は犬と暮らすあいだに「ひとりでふらりと出かける」ができる状況になった。止まっているのは私の感覚だけだ。

私が無為に、あるいは寂しさにとらわれて家の中でくさくさしているのも、犬はあまり喜ばないだろう……等々考えて、埃をかぶっていたような瞬発力を発揮してみることにしたのである。


乗り慣れない電車に乗って、降り慣れない駅で降りた。

自分で映画のチケットを引き換えた。

おいしそうなホットドッグを買った。

初めてひとりで映画を観た。すごい映画だった。

帰りに、気になっていた服屋に入ってみた。
食べてみたかったクロワッサンを買った。

家に着いてみて「楽しい1日だったな」と思った。


ひとりで身軽に出かけることに慣れた女性は、子どもと暮らしはじめることによって生じる好奇の目や不自由さに、不可逆な変化を感じるという。
それはきっと、一度知り体験した「街を歩きまわる自由、何者でもない群衆のひとり」という在り方が、子連れになると妨げられるからだ。

一方の私は、犬と暮らしていたことで出かけづらさが生じた部分もあるが、そもそも「ひとりで身軽に出かける」習慣そのものがなかった。突然、好き勝手に出かけて何時間も帰らない自由を得てしまい、急激に大人になった感じがしてしまう。

けれどもこれに慣れたいと思う。

私が外を歩いている時、犬もまた私の横を歩いたり、どこかへ飛び出していく感じがすることがある。
きっと私が自由に出かける時、犬もまた自由にどこかへ出かけているのだろう。





参考文献:レスリー・カーン著『フェミニスト・シティ』(晶文社)


Jessie

読んでくださりありがとうございます。良い記事だな、役に立ったなと思ったら、ぜひサポートしていただけると喜びます。 いただいたサポートは書き続けていくための軍資金等として大切に使わせていただきます。