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蜃気楼的世界観9

 他愛のないおしゃべりをしながら、森の香りがするお茶をのんびり飲む。痛んでいた足もすっかり元通りのようになって、私は篤いお礼とともにマザーに布巾を返した。

 ふと、聞きたいと思っていたことを思い出す。

「クーガ」

「なんだい?」

「どうして私をここへ呼んだの? ディーバで気がつく前、私がどこで何をしていたか分かる? 何も思い出せないの」

「うーん……」

 クーガも考え深げな顔をする。クーガの返答が芳しくなくても、私はがっかりしたりしなかった。もともと、「聞いても分からないかもしれない」と思いながら尋ねたのだ。

「……ごめん、スズネ。もう僕もはっきりとは覚えていないんだ。事実の断片だけが――君を呼ばなくちゃと思ったこと、どうにかして君に呼びかけたこと、君が来ると言ってくれたことは、確かだと分かる」

「じゃあ、私たち同じくらいのことしか覚えてないみたいだね」

 マザーが口を挟んだ。

「ここで過ごすうちに思い出せるかもしれないわ。伝説の人には影を追放する力があるの。それならスズネと一緒に過ごすほど、影の影響から逃れやすくなって、忘れてしまったことが浮かびあがってくるかもしれない」

 ここで過ごすって、どのくらい? 長い時間がかかるかもしれないことが、私には気がかりだった。

「マザー。そんなに時間をかけて良いんでしょうか。私、もといた場所に家族がいるんです。心配されて……探されているかも、しれなくて」

 話すほど口調がぎこちなくなる。心が言葉をせきとめるみたいに。

 マザーは私を見抜いていた。

「スズネ。もとの場所に帰りたいと、心から思っている?」

 思っていなかった。ショックを受けるほど明白にそう思った。とっさに返事できない。

 ひどく居心地が悪かった。自分が悪い人間のような気がする。実際そうなのかもしれない。見ず知らずの世界で気がついたら、「帰りたい」と思うのが自然なんじゃないの? それが、ついさっきまでお母さんのことを思い出しもしないで。そのうえ今、私はお母さんに心配をかけているかもしれないことを自覚している。それなのに申し訳なさも、早く帰らなきゃという焦燥も湧いてこない。

 帰ることをちらとでも考えた瞬間、感情の波立ちが完全に凪いで、私は遠くから自分を眺めているような錯覚にとらわれる。どうして帰らなきゃと思えないんだろう。思わなきゃ。思うことが自然なはずなのに……。

 自分で自分が分からない。

 マザーはより分けた草花を、手際よく紐で縛っていく。

「それなら、強くそう思える時まで待ってみるのも良いんじゃないかしら。物事の感じかたに正解も間違いもないのよ。きっと自分で納得できる時がきたら、自然と帰りたいと思えるものだわ」

「ただいまー。マザー、追加の薬草を……」

 戸口の布が持ち上げられて、快活な声の女の人が顔をのぞかせた。ラピスラズリ色の目がざっと私たちを見回し、「あっ。来客中ね」と声を少し低くする。

「コナ。ちょうど良かったわ」

 気を利かせて出て行こうとした女の人を、マザーが手招きして呼び止める。

「スズネが来てくれたのよ。あれを持ってきてくれない?」

「ああ! あれね。ちょっと待ってて!」

 白い歯を見せて笑うと、カラフルなはぎ合わせのロングスカートを翻して姿を消す。足音が戻って来たかと思うと、小脇に布の包みを抱えて家に飛びこんできた。

「スズネ。はい、これ!」

 私のそばに座ると、包みを両手でずいと差し出してくる。なんだろう。コナさんの勢いに押されながら受け取った。

 包まれていたのは新しい服一式だった。茶色いサンダルまで折りたたまれて入っている。

 コナさんは得意げに胸を張った。

「スズネが来てくれるって分かってから、みんなで作ってたの。その格好もかわいいけど、きっとここでは動きづらいと思うから。使ってくれたら嬉しいな」

 そう言って、また歯を見せて笑う。眩しい顔、という表現がこんなに似合う人が本当にいるんだ……私は妙なところで感心してしまった。

「あ……ありがとうございます」

「コナ。スズネがびっくりしてるよ」

 見かねたクーガが割って入ってきた。

「ごめんね、スズネ。コナは僕のいとこなんだ。ちょっと押しが強いけど、悪気はないんだよ」

「あっ。うん」

 慌てて頷く。良い人なんだろうな、というのはにじみ出る雰囲気から感じ取っていた。

「さあ、着てみて、着てみて!」

 コナさんに促されるまま、重いブレザーのボタンを外す。マザーがそれとなくクーガとコクアを外へ追い出した。

 渡された服を広げてみる。淡い黄緑色のノースリーブパーカーと白っぽいスカート、ピンク色に染められたレギンスという組み合わせだった。茶色いサンダルは足首で留めるタイプで、走り回っても脱げないようにできている。

 袖を通すと軽くて、涼しくて、今まで制服を着ていたのが信じられないくらい。そして驚くべきことに、完璧にサイズが合っている。ただひとつの難点があるとすれば、パーカーのフードと長い髪が喧嘩することくらいだ。私はヘアゴムを持ち歩いていないので、このまま背中に流しておくほかない。身に着けた明るい色彩を見ているうちに、私も共生派の一員として受け入れられたような、温かい気持ちが湧いてくる。

 脱いだ制服を畳んで、布の包みで包んでおく。改めて触れた制服の布地はごわついていて、ここでは暑苦しく場違いな感じがした。重い制服をマザーの家の壁際に置かせてもらったのを眺めると、自分が重苦しい気持ちを文字通り脱ぎ捨てて、今までよりもう少し明るく振る舞えそうな気さえしてくる。

「どうかな?」

「うん! 似合う似合う」

 着替えた私を見て、コナさんとマザーは満足そうに頷いた。

「ただ、スズネ。ちょっと髪ジャマじゃない?」

 コナさんが私の長い髪をちょっとつまむ。「うん。ちょっとね」素直に認めた。

「もし良かったら、後で切ってあげる。まあ、とりあえず二人にも見せてきなよ。いつまでも待たせとくのもね」

「ありがとう」

 促されるまま広場へ出る。いつの間にか、空はすっかり夕闇の色。広場のあちこちで、次々にかがり火が焚かれている。まるでお祭りが始まる直前の景色のようで、無性にわくわくさせられた。

「クーガ。コクア。見て見て」

 マザーの家の前で待っていた二人に、新しい服を見せてみる。口々に「似合う」と言ってもらえるのは、照れ臭いけれど嫌ではない。

そうして私たちも夕食の準備を始めた。

 石を組んで作られたかまどに火を入れて、平たい石の上で野草を焼いたりスープを作ったりできる。木の実はそのままでも美味しいし、乾燥させたトウモロコシを蓋つきの陶器で熱すると、ポップコーンに似たものも作れた。

 広場に満ちる明るいざわめきと、不規則に揺れる炎の音。だんだん見える星が増えていく空の下で、炎を囲んでとる夕食は驚くほど開放的だった。

 かまどの火に集まる私たちのそばを、時々ほかの人たちが通り過ぎていく。共生派の人たちは全員が知り合いらしく、子どもがおかずをねだりに来たり、コナさんの友達が立ち話に来たりした。ふと広場を見回すと、私たちのように夕食をとっている人もいれば、その気配もなくのんびり寝転がっている人、走り回る子どもたちもいる。

「食事の時間帯とか、みんな自由なの?」

「そうだよ」

 コナさんが頷いた。

「おなかがすいた時に、自分が食べたいぶんだけ食べれば良いの。時間を合わせちゃうと、窮屈に感じることもあるじゃん? 誰かと交流したい人は、ああやって広場をうろうろすれば良いんだし」

 指さした先には、さっきおかずを分けた十代前半くらいの子たちがいる。今は別のグループに混ざっておしゃべりしていた。

「話したい時は話しに来て、ひとりがいい時はひとりで過ごす。自分のペースを尊重することをみんな知っているから、無理矢理出てこようとしたりしないんだ。ゆるく繋がっておけば、それで良いの。繋がってさえいれば、いざって時に助け合えるから」

「へえ……」

 馴染みのない考え方に目を見張る。いつもべったり一緒にいなくても、みんなと仲良くしなきゃと気負わなくても、人との繋がりって本当に成立するのかな。

 気づけば手元の皿は空になり、ほどよい満腹感に包まれている。

「ごちそうさま」

 みんなで丁寧に両手を合わせた。

「よし! 散髪するぞ!」

 コナさんが気合いをみなぎらせて立ち上がった。

 

 

*

 

 

 夜はますます深くなり、頭上に広がる星はプラネタリウムのように数えきれないほどひろがる。かがり火の中に浮かびあがる広場の景色は昼間にも増して幻想的だった。

 夕食の片づけを終えると、コナさんはマザーの家から小さな椅子を借りてくる。それを広場の隅に置くと、私に座るよう手で示した。

「せっかくだからさ。思いきり短くしてみない? 長い髪ももちろん綺麗だけど、スズネはショートも似合うと思うんだ」

「コナさんに任せるよ」

「よし。腕の見せどころ!」

 袖をまくるジェスチャーをして見せる。その手には大ぶりのハサミが握られていた。

 古びて、錆びの浮いたハサミは、『異変』に遭って慌てて逃げだしたコナさんが、気づかずポケットに入れて持ってきたものだという。

「あたし、服作ったりするのが好きでさ。たぶん『異変』が起きた時も、何か作ってたんじゃないかな。よく覚えてないんだけど。それで、そのまま逃げてきたみたいな。今じゃ、こんなに高度な刃物は頑張っても作れないから。みんなの貴重品なんだ」

「そっか」

 髪の毛先がハサミに触れて、擦れるように切れていく。その微かな振動を地肌で感じる。心地良い。シャキシャキ響く音の合間に、私たちは思いついたことをぽつぽつ喋った。

 周りの景色をぼんやり眺める。

 広場の外側のほうでは、また別のグループが遅めの夕食をとっている。そして真ん中には子どもたちの歓声がはじけていた。彼らに誘われて、クーガとコクアは一緒に走りまわっている。あの感じだと、鬼ごっこをしているんだろうか。

 遊び回る子どもたちは、四、五歳から小学校低学年くらいの年齢層に見える。十数人はいるのに、ケンカも仲間外れも起きなくてすごいと思った。

「……良いね、共生派って」

 ぽつり。感想がそのまま声に出る。

「ん? 急にしみじみして、どうした?」

 シャキリ。ハサミが一瞬止まって、また進む。不規則で単一的な音が理性の検閲を緩くする。

「すごく落ち着いていて、自由な感じ。ここにいると穏やかでいられて……自分は自分で良いんだな、って思えるの。みんながそれぞれ自分のことを大事にしてるからかな」

 広場に座ってノア=ラーアウの暮らしを眺めていると、義務が義務に見えなくなってきて驚かされる。夜の見張りに出る人やフクロウたちは、使命感に満ちて楽しそうですらあった。ここには、嫌々なにかをするという概念そのものがない。動きたい時に動いて、休みたい時に休む。それが上手く、自分のやるべきことと噛み合っている。だから誰も義務に感じない。

 コナさんは数歩はなれて、散髪の経過を眺めながら言う。

「そんなに珍しいことかなあ。ずっとここにいると、今のやり方が自然になっちゃうからね。管理派はこことそんなに違ってるの?」

「うん。そうだよ」

 コナさんは再びハサミを取った。

 ハサミの音に導かれる。

「息苦しかったよ。空気も悪かったし、それ以上に……生きづらいと思った。あそこにいたら生きづらい。休む時間もほとんどないまま働き続けなきゃいけない……自分の手の届かない幸せを支えるために。それともあの人たちにも、いつか手が届くかもしれないと思わされる、別の形の幸せがあるのかな」

 鬼役の女の子がコクアに飛びついて捕まえる。コクアは派手な叫び声を上げて倒れこむ。まわりに集まった子どもたちが笑っている。

 それが眩しかった。

「今すぐ幸せになってはいけないのかな。あの人たちも――私も。追いかけるだけなんて、いつまでも手に入らないなんて、虚しい。バンプールの人たちを見ていると、努力させられることは本当に意味があるのか……。私たちはなんのために頑張ってきたのか、分からなくなるよ。

 努力しなきゃ。そう思い続けてきたことは覚えてる。でも、何を頑張ってきたんだろう、頑張らなくちゃいけないんだろうね」

 相反する思考が私の中でせめぎあう。まるで管理派と共生派みたいに。それが波のように、定期的に繰り返す。

 本当にこれで良いのか。

 暁に問いかけられたことを思い出す。どこだか分からないところ――景色を描こうとするほど消えていくけれど――そこで話し合ったこと。

 暁は私にチャンスをくれた。忘れたものを取り戻すチャンス。ディーバを救うチャンス。

 だったら今は、それに向かって頑張らないと。これに向き合っているうちに、私の中に起こる矛盾が、勝手に解決してくれていたら良いのに。

「よし! できた!」

 気づけば散髪は終わっていた。コナさんの達成感に溢れる声が私の意識を引き上げる。手元に鏡になるようなものはなかったけれど、コナさんの満足げな顔を見れば、きっと良い出来なんだろうと思う。

 少し頭を動かすと、あまりの軽さに頭ががくんと後ろに倒れそうになった。なんて軽さ! 手に触れた髪はすっかり短くなって、うなじが見えるくらいの長さになっている。

「どうかな? スズネに似合うと思う髪型にしてみた」

「ありがとう。軽すぎて、まだ慣れないけど……」

 短い髪が新鮮で、しきりと触ってしまう。立ち上がって椅子の方を振り向いた。ばさばさ切られた私の髪が土の上で山になっている。あんなにたくさんの髪を私は支えていたの? 重さに慣れて当たり前だ。夜風が身軽になったばかりの首元を撫でて、思わず身震いする。

 服といい、髪といい。ノア=ラーアウに来てからどんどん身軽にさせられている。

 悪い気はしなかったけれど、立て続けに起こる急な変化について行ききれない感じもしていた。それとも、変わっていくことにひるんでいるだけかな。

 切った髪は、燃やして灰にすると肥料に使えるという。私たちは落ちた髪の毛を集めて、再び起こした火にくべた。

 燃えていく。今まで私の一部だったもの。伸ばし続けていた髪。古い部分。もう戻ってこない、戻すこともできない事実を目の当たりにすると、心がついてこなかったとしても、前に進むしかないと思えてくる。だって下がりようがないのだから。

 私はディーバに呼ばれてきてしまった。帰り方も、帰りたいのかどうかも分からない。影を追放することを期待されている。

 それは、影と戦えということなのかな……。

「スズネ。ずいぶんさっぱりしたね」

 声をかけられて顔を上げる。クーガとコクアが鬼ごっこから戻ってきていた。息を切らして汗だくなのに、躍動の余韻で目がきらきらしている。

「うん。コナさんにお任せしたんだ」

「良いんじゃない」

「ずいぶん印象変わったな。でも似合うと思うぞ」

 服に土がつくのも構わず、コクアは地面に寝転がる。

「あー! 疲れた!」

「でも、楽しそうだったね」

「ああ、めちゃくちゃ楽しかった」

 みんなで燃える火を見つめた。

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