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蜃気楼的世界観5
剥製の廊下を駆け戻り、エレベーターに乗りこむ。コクアは迷わず一階へのボタンを叩くように押した。次には焦れったそうに「閉」を連打する。
「クソッ。早く動いてくれよ。時間ねえんだから」
ゆっくり閉まるドアにも文句を垂れる。
「あの……」
「話は後だ。まだ油断できねえ」
言葉の通り、クーガもコクアも緊張を解かずにいる。私は思い直して「助けてくれてありがとう」の言葉を飲みこんだ。
エレベーター庫内についたスピーカーから、不安をあおる不協和音の警報が響きだす。
「侵入者。侵入者。貴族ノ皆サマハ速ヤカニ避難シテクダサイ。兵ハ至急、侵入者ヲ排除セヨ。繰リ返ス――」
「来るね」
「ああ」
空気が張りつめる。その数秒後、二十階でエレベーターが減速し、止まった。
開いていく扉の向こうに、剣と槍を構えた機械の兵士たちがひしめき合っている。
「突撃!」
上官らしき兵士の指示が飛び、兵士たちが一気にエレベーターへなだれ込もうとした。
クーガの方が速かった。
クーガの両手に明るい青色の炎が燃える。炎は広がりながら徐々に形を変え、ツタが絡まったような意匠の円月輪が現れた。それを縦に持ち、扉の隙間から兵士たちに向かって投げる。恐ろしく勢いのついた武器は真鍮製の鎧を砕きながら飛び、一気に三列後ろにいた兵士までを無力化した。
私は驚きで息を呑む。クーガも魔法が使えるのだ。
人間ならば致命傷に相当するだろう傷を負った兵士は、金属の部品を撒き散らして分解する。もう動かない。
「おりゃああ!」
間髪入れずにコクアも廊下へ飛び出し、他の兵士たちをなぎ倒した。クーガの円月輪は意思を持つかのように空中を自在に飛び、クーガが伸ばした手に戻ってくる。私を振り返った。
「スズネも下りて」
「う、うん」
言われるままエレベーターを下りる。見ればエレベーターを包囲していた兵士たちは、全員動かなくなっていた。
「階段とかないのかな」
「多分、こっちだ」
クーガとコクアが前を走り、当たりをつけながら次々と廊下の角を曲がっていく。この階は貴族たちの居住スペースなのか、廊下には高級ホテルを思わせる毛足の長い絨毯が敷かれ、左右には豪華なオークの扉が並んでいた。
階段は窓に面した通路に設置されていた。三階ぶん下ると視界が開け、庭園を見下ろす回廊の一番上に出る。見晴らしが良いから、一階までの階段は迷わず見つけることができた。けたたましい警報が回廊に反響して、耳を塞ぎたくなる騒音を立てつづけている。自分たちの足音さえかき消されそうで、迫っているかもしれない追っ手の気配はまったく分からなかった。
階段を下りて、下りて、下りて、下りる。下りるごとに庭園の緑が近くなる。外に出られる。
もうすぐ一階だという時になって、クーガが突然足を止めた。
「うわっ! どうした、クーガ」
「暁」
コクアがぶつかりそうになって大声を上げるけれど、クーガは上の空だった。前方に視線を釘づけたまま呆然としている。
私とコクアがクーガの視線を追うと、階段を下りたところに一人の少女の姿があった。足音に気づいたのか、気だるそうに目を上げる。
目と目が合った。
「スズネ!」
コクアの声が頭を揺らす。眩んだ視界が戻ってきて、気がつくと、私は階段に座りこんでいた。駆け寄ったコクアの手を借りて、恐る恐る立ち上がろうとする。
「大丈夫か?」
「……うん……」
両足は体の支え方を忘れたように頼りなく、私は叱咤するようにスカートの上から脚をきつく掴む。その間も女の子の様子を窺わずにはいられなかった。
意識がねじれて境界を失うような、今味わった感覚はなんだったんだろう。
押し寄せる既視感。私には分かる。この子と会うのは初めてじゃない。けれど、この子に見覚えがない。
彼女は一目で管理派と分かる格好をしていた。白いシャツに茶色い革のコルセットを締め、腿の辺りで留められた緋色のスカートを履いている。長い茶髪にクーガと同じ紫色の目をしているが、右目は赤い義眼だった。よく見れば彼女は人間らしく見えるが、左腕と右脚はあからさまに真鍮で出来ている。義肢・義足というよりも、体をゆっくりと機械に浸食されている途中のような、不本意な融合にも見えた。
「暁」
再びクーガが呼びかけた。
「――暁。本当に暁だ」
確かめるように何度も何度も。しかし暁と呼ばれた少女は答えない。ただゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。クーガも引き寄せられるように階段を下りていく。
「暁。嗚呼、無事だったんだね。良かった。本当に良かった。ここは危険だ、一緒に森へ行こ……」
二人の距離が触れあいそうなほどまで近づく。次の瞬間、クーガは弾かれたように飛びのいていた。
暁の両手から黒と白の炎が立ちのぼり、細長く伸びる。両手に炎と同じ色をした剣が握られたのだ。
赤い義眼が光を放つ。暁は食いしばるような怒りを滲ませていた。
「久しぶりだな、クーガ。偽善者ごっこには満足か? よく悪びれもせずそんなことが言えるものだ。正直に認めたらどうだ。今私と顔を合わせるその瞬間まで、私のことを忘れていたと」
クーガの動揺が私にまで伝わった。けれど私には分かる。忘却はクーガの本意ではなかったのだと。
「暁。聞いてくれ、僕は」
「死ね! 共生派!」
暁が地面を蹴る。
圧倒的に速い。一飛びでクーガの懐に入りこんだ。振り下ろされた剣を、クーガはぎりぎりのところでなんとか避ける。剣が階段の手すりに触れると鉄とガラスでできた柵は熱く溶け出し、辺りに独特の臭いを放った。
暁は止まらない。クーガは私とコクアを庇って一人階段を下り、暁の攻撃をかわし続ける。
「暁、聞いてくれ! 僕にも何が起こってるか分からないんだ! 君のことを大事に想ってる。ずっと変わらない。でも、でもそれならどうして」
「決まっている。お前にとって、私はその程度の存在ということだ。『異変』の彼方に忘れ去れる、取るに足らない程度の存在!」
剣先から黒い炎が放たれ、清潔な床と花壇を砕きながら一直線にクーガへと向かった。クーガはなんとかそれも避けるけれど、次に着地した場所にももう炎が迫っている。動きを読まれていた。
頭の芯が痺れてまた目が眩みそうになる。私は目の前で起こる何もかもが受け容れられない。
だって二人は、敵対する必要なんてなかったはずなのに。二人が親しかった頃があったことを知っているのに、暁はそれを忘れてしまった? なぜこんなことになっているの。誰が何を間違えたの。
それ以前に。
どうして私は二人のことを知っているの?
クーガは右に飛んで炎を避ける。暁はそれを読んで進路の先に回りこんだ。
「お前には想像もできんだろうな。私がどれほどお前を待ったか! だがお前は来なかった。それが答えだ。私を忘れ去ったという答え! 今さら否定しても遅い。滅びてしまえ、共生派もろとも死んでしまえ!」
至近距離で繰り出される攻撃をかわし続ける。クーガの額には汗が滲みはじめていた。
私は叫びたい。やめて。これ以上争わないで。二人はこんな関係じゃなかったのに。
けれど口が動かない。声が出ない。一瞬麻痺し、今度は怒涛のように流れこんできた知覚を考えようとして、頭ばかりが追いつけない速さで回り続ける。言いたいことが、捉えなければならない混乱が次々に押し寄せて、何を口に出せば良いのかも選べない。困惑ばかりが積み重なる。
コクアの大声が私を引き戻した。
「何してる! 戦えクーガ!」
「駄目だ、できない!」
攻撃が止んだ一瞬の隙に叫びかえす。クーガは迷うように手を軽く握ったけれど、円月輪を出すことはない。
目をきつく閉じてかぶりを振った。
「できない。駄目だ。暁と戦うなんて、僕にはできない」
「ならば、おとなしく死ね!」
「それもできない!」
暁が向かってくる。クーガは叫ぶように答えた。
「君は『異変』の影響を受けているんだ。影に意識を曇らされてしまっているんだ! きっと、それでそんな姿に。元に戻す方法を探すよ。チャンスを――僕たちと一緒に来てくれ!」
「今さら遅い!」
目も眩むほどの閃光。視界が白に奪われた瞬間、体が内側から裂けるような激痛が私を襲った。体の感覚が遠のく――いや、力が抜けただけ? 上も下も分からない。ただただ衝撃に気圧されている。
目の中に庭園の景色が戻ってきた時、私はたくましい腕に肩を支えられているのに気づいた。私は床に倒れていて、それをコクアが抱き起している。
「あれ……?」
「スズネ、しっかりしろ」
コクアの茶色い目が私を覗きこむ。それを知覚すると、さっき感じた痛みがどこにも残っていないことに思い至った。そもそも私は痛みを感じていなかった。確かに衝撃を受けて倒れたはずなのに、あの痛みは何だったのだろう……。
離れたところからクーガのうめき声。はっとしてそちらを見やった。
実際に痛みを受けたのはクーガの方だった。離れていても分かる。クーガの服は熱い電撃を受けて焼け焦げ、一時的に麻痺したようになっている体には上手く力が入らない。
暁がクーガを無感情な目で見下ろしている。私たちは瞬時に悟った。
クーガにとどめをさそうとしている。
「やめて!」「やめろ!」
私とコクアの声が重なった。
コクアが短弓を構えて矢を放つ。まっすぐ暁に飛んで行ったはずの矢はしかし、こちらを見もしない暁の剣によって容易く払われた。
苛立ちの混ざった眼差しが私たちを焼く。
「邪魔をするな。まずはこいつからだ」
「それをやめろって言ってるんだよ!」
「煩いぞ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、暁はもう私たちの前に立っていた。
再び閃光が視界を白に染める。すぐそばで人が倒れる気配。視力が戻ってくると、コクアはすぐそばに倒れて気を失っていた。
「コクア!」
触れた体は腫れあがって熱い。触れる事さえためらいそうになる。思い切って肩を揺らしたけれど、反応がなかった。
まさか……。
「コクア! 死なないで! 嫌だ! 目を覚ましてよ!」
返事はない。最悪の可能性がひたひたと私の意識に迫ってこようとする。
認めたくない。
「嫌だ。嫌だ……」
「無駄なあがきを」
すすり泣く私を見下ろす、暁の声は冷めていた。
「よもや、伝説の人がこれほど愚かな人間だったとはな。素直に私たちに従っていれば、彼らは傷つかずに済んだ。何もかもお前のせいだ」
「私の……」
そうだ。私のせいだ。いつも私が悪いんだ。ただ期待に応えていれば良いのに、自分で考えてしまうからいけないんだ。もっともっと頑張らなきゃいけなかったのに、頑張りきれなかったから。
剣が振り上げられる。
「考えを変えたか? 私たちに協力すると? どちらにしろ今更遅い。お前は『失敗』したのだ。都合の良い方針転換は認めない。お前にも終わらぬ痛みを与えてやる。永遠に悔やんで苦しめ」
失敗。重い言葉が私に突き刺さる。
私は失敗してしまったの? 取り返せない失敗を。間違ってはいけない、成功し続けなきゃいけない努力が全部無駄になってしまった。私はなんて愚かなんだろう。
あそこでフィーリオスの手を握っていれば良かったのに。
あるいは引き留められた時、戻っていれば良かったのに。クーガについていこうとすることが、自分で考えようとしたことが間違いだったんだ。
ここまで気をつけてきたのに、また間違ってしまった。もう終わりだ。挽回のチャンスはもうない。
でも……それで良いのかもしれない。
私は失敗してしまった。私は駄目な人間だ。また期待に応えることができなかった。それならもう、終わった方が良い。
何度も何度も自分を責めて、もう疲れきっているんだもの。
うなだれた。
「……いいよ、もう」
涙も枯れ果てて、私は乾ききっていた。私の中には何もない。いや、最初からそうだったのかもしれない。
私には虚ろに眠ることが合っている……。
「――本当にこれで良いのか?」
「え?」
暁の声色が一瞬、変わる。驚いて目を上げた時、また深い紫色の目と目が合う。
意識が遠のいた。
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