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鱗滝さんの素顔が示されない理由から思うこと

こんにちは。Jessie -ジェシー- です。

アニメ版の「大正コソコソ噂話」で知ったのですが、鱗滝さんがずっと天狗のお面をつけているのには理由があるそうですね。

なんでも地顔が優しすぎて威厳が出ないからだとか。

確かに優しい顔でしばかれて「判断が遅い!」と一喝されても、迫力に欠けるかも……?

いや、語りたいのはそこではなく(笑)。

徹底して隠される鱗滝さんの顔

アニメでも原作のマンガでも、鱗滝さんの素顔は完璧に隠されています。
その徹底ぶりはコミック版最終話の現代パートにおいても。

鱗滝さんの子孫または生まれ変わりの人が、縁側で元鳴り柱の「じいちゃん」と将棋を打っているシーンが1コマあります。(炭彦がお庭を駆け抜けていきますね)

ここでは鱗滝さんと同じ柄の羽織を着た人物は炭彦の方を向いており、横顔のシルエットすら読み取ることができないように描かれています。

我々に与えられているのは「地顔が優しい」という情報だけ。

「鱗滝さん」について想像してみる

思いついたことがあります。

鱗滝さんの顔は、読者にとって分からないままで良いのではないかと。

鱗滝さん本人の顔よりも大切なのは、鱗滝さんの生き方・在り方の方だと思うようになりました。

鱗滝さんは炭治郎と禰豆子を気にかけ、世話を焼き、まるで第二の親であるかのように愛情を注いでくれます。
作中で禰豆子を気遣い、関わった数々の人たちの中で、最終決戦の時に鱗滝さんが彼女のそばにいたのは親的な立ち位置だったからではないでしょうか。

熱が出て、介抱するだけ・見守るだけなら蝶屋敷の面々にもできるはずなので。仮に凶暴化しても人を呼びに行けるはずなので。


読者は主に主人公たちに共感する傾向がありますし、作り手も共感できることを意識して物語を構成していくと考えられます。

すると炭治郎に共感する読者たちにとって、鱗滝さんは疑似的な師匠・親ともなるのです。

鱗滝さんの素顔が明かされていない理由はここにあると思いました。

顔が分からず、炭治郎たちに向ける愛情と気遣いという態度だけで生き様を示す鱗滝さんは、その素顔を読者の想像にあえてゆだねることが可能です。

読者が考える「(主人公に共感する)自分を気遣ってくれ、愛情を注ぎ見守ってくれる誰か」の顔を、鱗滝さんの羽織の上にあてはめて読むことができる。

あるいはそのような「優しい誰か」の存在を自由に想像することができる。

そこに作品に没入するフックをかけることができる。

『鬼滅の刃』には、そのような仕掛けも施されているのではないでしょうか。


画像はPixabayからお借りしています。

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