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蜃気楼的世界観10

――助けて。

 声。どこから遠いところから。同時に近いところから。

――助けて。ぼくを助けて。

 助けるって、何から?

――助けて……。

 声は重なり合って、ただひとつ同じことだけを私に求める。問いに答えてはくれない。

 助けて。助けて。

 私をとりまくすべてのものが、私に助けを求めている。

 重い。そんなにたくさんの期待、私は抱えきれないよ。

 私は声を押しのけようとする。声から逃れようとする。

 走ろうとするのに、足がついてこなくて上手くいかない。

 助けて。助けて。

 ついてこないで。私は救えないよ。お願い。私に期待をかけないで。私を放っておいて。

 助けるならむしろ、私を……。

 

 

*

 

 

「助けて!」

 鋭い叫びが耳を刺し、私を眠りから呼び覚ました。

 飛び起きると、知らない部屋。いや、思い出した。クーガのツリーハウスだ。あの後、コナさんたちにおやすみを言って、クーガと一緒にはしごと階段を上っていったんだった。

窓から入る星明りで、室内にあるものの輪郭がなんとなく浮かび上がっている。小さな棚、最低限の調理器具、私の手の中でしわになる布団……。少ないけれど使い込まれた、クーガの大切な道具たち。

 静寂がツリーハウスを包んでいる。息をひそめて耳を澄ました。

 さっき「助けて」の声が聞こえた気がしたのは……? 空耳であることを祈りながらも、嫌な予感が拭えない。不安になればなるほど感覚が鋭くなって、どんな小さな音にもびっくりしてしまいそうになる。

 布団がサワサワ動く音。部屋の反対側で、クーガが半身を起こしている姿が影のように見えた。

「……クーガ?」

 頼りなくなって声をかける。クーガがこちらを見たのがなんとなく分かった。

「今……声が聞こえたような気がしたんだけど」

「私も。そうなの」

 二人で夜の森に耳を澄ませる。しんとしていた。

 いや、しんとしすぎていた。

「……フクロウたちが話してない。どうしてこんなに静かなんだ?」

「え?」

 湧きあがる不安に押し潰されかける。ざわり。吹きはじめた生ぬるい風が木の葉の不穏なざわめきを運んできた。

「助けて!」

 風に乗って、確かに届いた切実な声。

 私たちはツリーハウスを飛び出した。

 クーガの家は、広場に面した大木の梢に近い辺りにある。見渡して遠く声の出どころを探そうとしたけれど、木の葉が重なり合って見通しが悪い。見晴らすことは諦めて、はしごと階段をいくつも伝って地面に下りていく。

「クーガ! スズネ!」

 地面にたどり着く最後のはしごを下りている時、私たちの背中にコクアの声がかかった。コクアがこちらへ走り寄ってくる。

「コクア。君も、あの声を……?」

 応じるクーガの声は険しい。コクアも眉根を寄せて頷いた。

「聞こえた。だからお前たちも下りてきたんだろう?」

「森が静かすぎる。一体なにが……」

 辺りを見回した時。

「助けて!」

 ひときわ鋭い懇願と共に、鮮烈な赤が私たちに押し寄せた。

 耳元で風がうなりを上げる。顔に熱い空気が吹きつけて焼けそうになる。体を縮めようとして平衡感覚を失い、私たちは後ろに倒れこんだ。

 目を開ける。

 木が、森が燃えていた。炎の下にからめとられた幹は見る間に赤に包まれて、もう救うべくもない。焼けていく音が木々の苦悶のようで、悲鳴のようで、思わず耳を塞ぎたくなる。

 それに、あの色。

 炎の熱と眩しさがじわじわ迫り、あらゆるものを消してしまう――世界も、私も。

 そんな錯覚を、私は前にも感じたことがある……?

 炎とは違うなにか、もっと恐ろしい何かが浮かびあがってこようとしている。嫌だ! 思い出したくない! 体を丸めて身を守ろうとする。

「お前ら下がれ!」

 コクアにぐいと腕を掴まれて、迫る炎から遠ざけられた。私とクーガは腕を引かれるまま数歩歩いたけれど、コクアの手が離れた瞬間また倒れるように座りこんでしまう。両足が立ち上がり方を忘れていた。

 助けての声を聞きつけて、他の人たちも起きだしてくる。炎に息を呑み、呆然とする無数の顔が、赤々と照らし出されてよく見えた。

「森が……」

 広場の周辺に住んでいた、友達や親戚の名前を呼ぶ人がいる。炎から逃れるように飛び上がって、力なく落ちていく鳥たちの影。不格好に羽ばたいた鷹が一羽、私たちのすぐそばに落ちてきた。目の前で燃えていく黒い体は、もう誰なのか区別がつかない。

 すがりつくように思う。みんなの家族は。友達は。仲間は無事なのだろうか。

いや、諦めたくないけれど、もう……。

 暴れ狂う炎の向こうから、隊列を組んだ人影が進んでくる。防火装備に身を包み、火炎放射器の長い銃身を抱えた機械の兵士たちだった。

 彼らを目にした瞬間、私は悟る。彼らはあの規則正しい足取りで、バンプールから行進してきたのだ。彼らはかつて持っていた共感力や、命を重んじる心を削ぎ落されている。目指すのはただ、効率的に森を焼くこと。あらゆるものを焼き殺すこと。そして実際、そうしてここまで来たのだ。森に響いた「助けて」の声を――木々の、鳥たちの、ウサギやキツネたちの、そして人々の声を焼きながら。

「家族を返してええええ!」

 女の人が槍を握りしめ、半狂乱になって機械の兵士たちに向かっていく。けれど暴力的な火炎放射器の前に、たった一本の槍などなんの役に立つのだろう。

 共生派の間から声が上がった。

「駄目だ! 止まれ!」

 コクアや他の人たちが必死に彼女に呼びかける。しかし彼女の耳には何も入らない。突発的な怒りと絶望だけが彼女を駆り立てていた。

 槍は機械の兵士に届くことさえなかった。

 彼女が向かってくるのを見るや、周辺にいた機械の兵士たちが火炎放射器を彼女に向ける。噴きだす炎が彼女を包み込むまでに、一秒とかからなかった。

 最初、彼女は黒い人影になった。人影は槍を突きだす動作をして、けれども槍はもろく焼けて崩れはじめている。人影の腕も崩れていく。見る間に影は形を失って、地面に落ちたあわれな灰の山と化した。

 誰かがツリーハウスの上から矢を放つ。矢は機械の兵士を一体貫き、倒した。

それが合図だった。

 機械の兵士たちめがけて矢が雨のように降り注ぐ。彼らは次々と部品の山へと分解した。火炎放射器を携えた先頭がいなくなると、次に広場に侵攻してきたのは剣を持つ兵士たちだ。

 戦いが始まった。

 槍と短刀で武装した共生派の人たちが向かっていく。弓矢隊が彼らを援護する。あちこちで起きる衝突。コクアも弓矢を構えていた。

「おい、クーガ。これからどうすれば良い? ここで戦ってちゃ分が悪い。みんなで逃げる算段をつけたほうが……」

「その必要はないよ」

「なんだと!?」

「もっと大事なことがある」

 クーガの声は決然として、一切の反論を許さなかった。けれど、コクアはクーガを責めなかった。

「クーガ。お前」

 何かを察して、私たちから機械の兵士を遠ざけようと戦いはじめる。

 広場に機械の兵士がなだれこむ。人々がツリーハウスの上の方へ避難する。逃げ遅れた人が、剣に貫かれて死んでいく。炎が彼らの体を焼き、ついに広場の家々も炎に巻かれようとしていた。

「――スズネ」

 クーガが私の名前を呼ぶ。抗う間もないまま両手を握る。その今までとは違う呼び方に、強い瞳に、私は捕らわれたように目を離せなくなった。

 視界の端に見える。機械の兵士がマザーの家に荒々しく踏み入っていく。嫌。駄目。

 助けに行きたいのに、クーガから目が離せない。

「スズネ。僕、思い出したんだ。あの赤い炎を見た時に」

 息が止まる。両手を振り払って、耳を塞いで、ここじゃないどこかへ逃げだしたい衝動に駆られた。

 知りたくない。けれど知る必要があること。クーガはそれを話そうとしている。

 力強く握られた、手の感覚だけがはっきりしている。実際の私は逃げることなどできず、むしろ全身が硬直して、ただクーガの言葉を待つしかなかった。

「今なら話せる。どうして君が伝説の人で、僕たちにとってどうしても必要な存在で、影を追放しなきゃいけないのか。

――スズネ。君はまだ生きている。あれは未遂だったんだよ」

 未遂。聞いた瞬間、体が震えた。胃が縮み上がってふくらんで、炎に呑まれていくディーバの景色が不安定に揺らぐ。景色の隙間にすべりこむように、遠く押しやっていた真実が戻ってこようとしている。

 耳を塞ぎたい。何も見たくない。知らないままで、忘れたままでいい。それなのに、私の内側から湧いてくる記憶の止め方なんて分からない。

「やめて!」

 叫んできつく目を閉じた。

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