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【最終話】#7 もがり

前の話を振り返る



布団に入る。意識が揺らいで起き上がるみたいな、心地いいまどろみがやってくる。

自分の部屋でベッドに横たわっている体を知りながら、同時にぼくは夢を見ていた。

遠くに引っ張られていく。見上げると、広がる無数の「過去」の情景。無限に続く記憶の海。

ぼくの過去じゃない。もっと、ずっと昔のことだ。

侍みたいな恰好をした男の人。自分の子どもと楽しそうに話している。ああ、笑って細めた目が誠おじさんと同じだ。

着物を着た女の人が、お姉さんの華やかな結婚に憧れている。

すりきれそうな服を着た男の人が、古めかしい農具で畑を耕している。

女の人が必死に弟や妹を守りながら、降り注ぐ炎の中を逃げていく。

喫茶店で楽しそうに話すサラリーマンとウェイトレス。

他にも名前も知らない、数えきれないほどたくさんの先祖たち。

彼らが生まれて、歩いて、話して、走って、出会って、別れて、結婚する。

そして、死ぬ。

死は終わりじゃなかった。和子おばさんが伝えようとした言葉の意味を、ぼくは今悟ろうとしていた。

合戦の真ん中で、家族に囲まれた部屋で、病院のベッドで、肉体の命が尽きた人たちは、するりと体を抜け出す。するとそこには先祖の何人か、あるいは大勢が待っていて、これまでよく頑張ってきたと、新しい魂をねぎらうのだ。

新しい魂は先祖たちに連れられて、なんの心配をすることもなく魂たちの世界へ戻る。そしてそこから、生きつづける子孫たちを見守るのだ。

生きているだけで偉い、と誰かが言った。

なにか偉大なことを――それも、家名や先祖のために――成し遂げなくてもいい。ただ子孫たちが生きているだけで先祖たちは喜んで、明日も明後日もぼくたちを見守り続けている。

中には子孫に期待をかける人もいるけれど、その期待だって、そもそも子孫たちが生きていかないと成り立たない。

生きているだけで偉い。お前のことが誇りだよ。とみんなが言った。
放たれた言葉は心を温かく包んで、ぼくに悟らせてくれる。今までずっと見守られていたこと。みんながぼくを大事に思ってくれていること。それが嘘偽りのない気持ちであること。

そして新しい魂を迎える時、先祖たちは「生き抜いて素晴らしい」と声をかける。


「生き抜いて素晴らしい」

誠おじさんの声が聞こえた気がして、目が覚めた。

体を起こす。部屋はまだ暗かった。机の上の時計は午前零時をさしている。

静かだと思った。空気が虚しくて、冷え切っている感じがする。

「誠おじさん? 和子おばさん? 勝おじいちゃん?」

呼んでも、誰も現れない。気配もない。こんなことは初めてだ。

気がついた時には布団を出て、導かれるように階段を下りていた。これから何かが起きようとしていることは分かっているのに、不思議と恐怖も不安も感じない。夜の空気の中に夢の香りが残っている。

リビングのドアを開ける。和室の方からぼんやりと薄青い光が漏れていた。幽霊の体が暗闇で光る時の色だ。

3人は果たしてそこにいた。

寝ているおばあちゃんを取り囲むようにして立っている。気づけばぼくもその輪に加わっていた。

見下ろしたおばあちゃんの顔は、このちょっとの期間のうちにますます生気を失ってしぼんでしまったように見える。まるでまったく知らない人のように見える瞬間さえあった。

今のおばあちゃんは、静かに眠っている。誠おじさんがもう一度言った。

「生き抜いて素晴らしい、トシエ。
わしはお前の兄として一生を過ごせたことを誇らしく思っておる。そしてあの頃と変わらずに、お前を愛している。ここにいる全員が同じ思いじゃ。これは未知の体験に見えるじゃろうが、不安がることはない。わしらがついておる、安心しなさい」

「トシエ」

「トシエさん」

和子おばさんと勝おじいちゃんも名前を呼ぶ。勝おじいちゃんがおばあちゃんの手にそっと触れた。

青い光が部屋を満たした。

まばたきをするよりも短い一瞬のあいだに、それは終わっていた。ぼくたちは、ベッドの上に浮かぶおばあちゃんを見上げる。ベッドには変わらずおばあちゃんの体が横たわっていたけれど、そちらはもう動かず、静かで、夜に紛れて消えてしまいそうに見えた。

おばあちゃんは自分を取り巻く顔ぶれを見回す。

「兄さん、姉さん。それに、勝さん!」

「トシエさん」

勝おじいちゃんが両手を広げる。おばあちゃんがその胸に飛びこむと、おばあちゃんの姿が一気に若々しいものに変わった。アルバムに収められていた、結婚写真を撮った頃の姿に。

ぼくは抱き合う2人を見ているのが嬉しかった。おばあちゃんがまた元気になった。おばあちゃんは自由だ。また元気に話して、笑って、動き回ることができる。和子おばさんと一緒に部屋を飛び回ることだって。

自然と顔がほころんでいた。おばあちゃんはぼくに目を留めた。

「あら、光太。あなたにはわたしが見えるのね?」

「うん。ずっとみんなのことが見えてたんだ」

「その通り」

誠おじさんも頷く。

「光太のおかげで、現代をつぶさに観察するという面白い体験をさせてもらった」

「あのね、おばあちゃん」

ぼくは身を乗り出す。

「3人がいろいろ教えてくれたから、ぼく、今気がついてここにいられるんだ。おばあちゃん。たくさん話してくれてありがとう。小さい頃、一緒に遊んでくれてありがとう。他にも、ひとつひとつお礼を言いたいことがいっぱい、それこそ数えきれないくらいあるんだ。でもとにかく、ぼくが絶対おばあちゃんに知っておいてほしいのはね、ぼくはおばあちゃんのことも、勝おじいちゃんや、誠おじさんや和子おばさんより上の先祖の人たちのことも、みんなみんな大好きだってことだよ」

「嬉しいことを言ってくれるのね」

おばあちゃんは今までで一番明るい顔で笑う。ぼくはその安心しきった顔を見て分かった。おばあちゃんも今、さっきぼくが感じたことを――たくさんの先祖にずっと見守られていた事実と愛情を――感じ続けているんじゃないかな。

「光太。ありがとう。わたしもあなたのことが大好きよ」
おばあちゃんがぼくを抱きしめてくれる。ぼくもおばあちゃんの背中に手を回した。透き通った体に触れることはできないけれど、言葉では足りない気持ちがどうにかして伝わりきってくれるといいな、と思いながら。
誠おじさんが儀式ばったせき払いをした。

「さて、トシエ。そろそろ行こう。会わせたい家族がまだ数えきれないほどいるんじゃ」

和子おばさんがぼくに手を振る。

「またね! 光太」

勝おじいちゃんがぼくの頭に手を置く。

「光太。ありがとう。生前できなかったぶんにはとても足りないと思うけれど、君と話せて幸せだったよ」

「光太。元気でね」

勝おじいちゃんがおばあちゃんの手を取って導き、4人の幽霊はベッドの上で輪になって立つ。

帰ってしまう。目に見えない世界に。

抑えられないほど強い寂しさが湧き上がってきて、ぼくは追いすがるようにベッドのふちに手をかけていた。

「ねえ。次に会えるのは、また何十年も先なのかな。ぼくが、死んでしまう時」

正直、自分がいつか死ぬなんて思いもよらなかった。そもそも、何年か後には中学生になることも、そのあと社会人になることも、もしかしたら、いつか誰かと結婚するかもしれないことも――まるで実感が湧かない。

人は年をとる。人はいつか死ぬ。事実としては理解しているつもりなのに、なぜか自分の身に引きつけて考えようとすると上手くいかない。
誠おじさんは豪快な笑い声を立てた。

「このような形で会うことになるのは、ともすると光太の言う通り先のことかもしれん。だが、もっと大事なことを忘れるな」

分かるじゃろう? とばかりに目配せをする。考えるまでもなく、ああ、分かった。ぼくは笑みを浮かべていた。

「みんな、いつもぼくたちを見守ってくれている」

「その通りじゃ」

満足そうなうなずきが返ってくる。

「大切なのは、目に見える形でそばにいるかどうかではない。わしらがお前を愛し、見守っているという、動かざる真実じゃ。感覚を研ぎ澄まし、わしらの存在を毎日の中に見つけだせ。誰かの手が肩に置かれる感覚に、ふと香る香水の匂いに、木の葉のささやきの中に――わしらはどこにでもいる。お前の周りにあるあらゆるものを使って、お前を愛していることを伝えるじゃろう」

「うん」

「それでは、また会おう」

4人は互いの手を握る。四人の体を浮かび上がらせていた光がやがて一本の太い柱になり、天上に向かって飛んでいく。青白い光がなくなって、部屋は少し暗くなった。

和室にあるのは、仏壇に灯ったかすかな明かりだけだ。少し佇んで待っていると、目が慣れて普通に動き回れるようになる。

おばあちゃんは行ってしまった。もう体を持った形では戻ってこないけれど、二度と会えないわけでもない。

そう思うと、心が安らいだ。

お母さんに知らせてこよう。家族はきっと悲しむだろう。みんなが悲しみに浸るなら、ぼくがみんなを慰めよう。受け入れられるまで支えよう。
先祖たちが、ぼくらにしてくれているように。

ぼくはリビングを出て、お父さんとお母さんの寝室へ向けて階段を上がっていく。

おばあちゃんのことを考えると、肩に触れる手の気配がした。


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