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蜃気楼的世界観12

「……そんな……」

 ノア=ラーアウの広場。勢いを増していく破壊的な炎と、周囲で繰り広げられる無数の戦い。

 それらが一瞬遠のいて、戻ってくる。わずかのうちに駆け抜けた私の真実が私を圧倒していた。これ以上、言葉が出ない。

クーガは混乱する私を落ち着かせるように、ゆっくり「終わり」の続きを告げた。

「君は死ななかったんだ。すぐに救急車が呼ばれて、病院へ運ばれたんだよ。

今、君の体は病院で眠っている。体はどこも悪くない。ただ心が、目を覚ますことを拒んでいる」

 目の前にあるはずの、クーガの顔がふと遠のいた。

 私はディーバにいることを自覚している。クーガの手に包まれた両手を感じている。それなのに、同時にまったく別の感覚が押し寄せる。鼻をつく消毒液の臭い。体にかかる見知らぬざらついた布団。口元を覆うこれは、酸素マスクだろうか……? 二重の感覚の、どちらもが真実。私は息をするように悟る。

 ああ、本当だ。私は病院にいる。体が生きているんだ。

 現実の肉体に気づくと一気にそちらへ引き寄せられる。クーガがますます遠く、意識の奥に見えなくなる。水面に向かって浮上していくような、もう少しで目を開きそうな――。

 引き戻した。

 駄目。嫌。戻りたくない。漠然とした、しかし直感と同じくらいの強さでそう思う。

 意識して目をきつく閉じた。一度見えなくなった、クーガの顔と両手を握られた感触に意識を集中する。何もない空間をもがくように、必死にそちらへ近づこうとするように。

 耳に炎のうねりが戻ってきた。炎が幹を割って這い上る音。クーガが両手を握っている温度。

 目を開けると、そこにはちゃんとクーガがいる。

 今となっては分からなかった。私は本当に、今のことを知りたかったのだろうか。あるいは、これ以上に知りたいことなんてあっただろうか? 先に進まなければいけない。いつかは、きっと帰らなければいけない――けれど私は帰るよりも、ここに留まってぐずぐず悩むことにしがみついた。

 震える声で聞き返す。どんなことでもいい。ここに留まっていられるなら、どんなことでも。

「じゃあ……ここにいる私は何なの。ここはどこなの」

「君の心の中の世界」

 風が吹いた。あらゆる音が、声が、光が私に押し寄せる。揺らめく炎を構成するすべての色、炎にきらめいた槍の切っ先、兵士の体が分解していく音が、鋭さを増して私を呑み込もうとする。

 これが、私の心の中。こんなに色鮮やかで、私が知る「現実」と何も変わらないのに。

「そして僕と暁は、君の分身のようなもの。目に見えない世界から君を見守る存在だ。今ここにいるのは、君の精神そのものだよ。肉体は眠っているからね」

 私は弱々しい反論を試みた。

「でも、でも……。心って、目に見えないのに。ディーバはこんなにはっきりしているのに」

「世界の実在はもともと曖昧だ。蜃気楼みたいなものなんだよ。ある場所では動かしがたい現実のように見えていることが、少し視点を変えれば自分が作り出した幻に過ぎなかったと気がつく。そのプロセスが何段階も、無限に繰り返されているんだ――源の思考に至るまで。ほとんどの人は、彼らが『現実』と呼ぶ世界に没頭していて、視点の切り替え方を忘れている。だから『現実』だけが実在していて、その他のもの――夢、意識、心、目に見えないものすべて――は嘘で幻想だと、代々続いてきた思い込みのゲームを補強しているんだよ」

 すぐそばで叫び声が上がった。機械の兵士たちの後ろから、戦闘に駆り立てられた工員たちがなだれ込んでくる。彼らの懐かしい顔を、おぞましい機械のすがたを目にして、共生派の人たちは絶叫する。再会を喜びたかったはずの両手は、恐怖にすがりついてますます強く武器を握りしめ、向かってくる恐ろしい鉄骨の塊を敵と判断して良いか決まらない。

工員たちは自分の家族に、友人に、親戚に気づいた。けれど振り上げられた腕が、その大切な人たちを容赦なく打ちのめす。

 自分で望んだはずもない、破壊と殺戮を遂行する両腕。叫ぶような逃げろという懇願が、大切な人の体を押しつぶす音にかき消される。工員たちは自分の行動に戦慄する。

 私が、ディーバが崩れていく。すぐ近くで部品が散らばった。コクアが私たちを庇おうとして、一人で戦ってくれている。

 クーガは私の目を見つめて離さない。

「スズネ。君は目を覚まさなきゃいけない。起きて立ち向かわなきゃいけないよ。だって、君は本当はここで終わることを選んでいないんだもの。君は影に憑りつかれている。全部、影のせいなんだ。影は弱った心に憑りついて、後ろ向きな考えでますます心を弱らせる。そして、宿主の体を乗っ取ろうと企んでいる。君は何も悪くない。君が死へ駆り立てられたのは、君が空っぽだからじゃないんだ。そう思うように仕向けられていただけなんだよ。

影が最初に憑りついてから、ずいぶん長い時間が経ってしまった。そのあいだに君の心は相反する考えに引き裂かれてしまって――その象徴として僕たちはこうしている。

 これは、こんなのは、本当の君の心じゃない。君が望んだ人生じゃない。だから取り戻してくれ。影を追放して、自分を立て直すんだよ、スズネ。

君が影を追い出せば、ディーバは再生する。君も外の世界で目を覚ます。元に戻れるんだ。だから」

 クーガは私に立ち向かうことを望んでいる。強く手を握りしめて、ひとりじゃないと伝えてくれようとしている。

 私に、戦うことを期待している。

 私は立ち向かうべきなんだろう。戦うべきなんだろう。それが正しい道に戻る手段だとしたら、きっとそうなんだ。

 頭では分かってる。けど。

「私……。戦えないよ」

 クーガが目を見開く。それを見てももう、罪悪感さえ湧いてこなかった。

 私は疲れていた。「疲れた」という言葉では足りないくらい、疲れきっていた。これ以上新しいことを捉えて考えるのも、影に支配されない未来を夢想するのも荷が重すぎる。

 これも、長く影に支配されてきたからなのだろうか。私が手放そうとした未来よりもましな可能性を思い浮かべることさえままならない。物事は悪くなる一方で、救いなんてどこにもないんじゃないだろうか。私自身の思考はどこからなんだろう。

「駄目。無理。私にはできない。怖いよ。私は終わりにしたの。これ以上頑張れない。疲れたよ。もうそれでいい」

「スズネ。そんな……」

「――では、終わりを受け容れて眠って下さい」

 炎が揺らぐ。冷徹な声が私に答えた。

 コクアが向かってきた機械の兵士を倒す。部品が撒き散らされる金属音が止むと、広場が静かになっていることに気がついた。

 戦いは終わっていた。私たちだけが炎の中に立っていた。広場を囲む大木は炎に舐められてうめき声を上げ、その足元でみんな死んでいる。散らばった機械の部品と、焼け焦げた体と、折り重なって倒れる鉄骨の塊。炎が揺らぐ舌を伸ばして、彼らを呑み込もうと狙っていた。

 その向こうから、渦巻く炎をものともせず、黒い影が悠々と歩いて来ようとしている。

 コクアが身構える。足音は一歩一歩、踏みしめるように近づき、やがて炎の中から新手の兵士たちが姿を現した。

 思わず声が詰まる。

 彼らは機械の兵士ではなかった。王宮で遊び暮らしていたはずの貴族たち。個性を主張する独創的な衣服は炎で焼け焦げ、上品に談笑していた顔は魂を抜き取られたかのように虚ろだ。幸せを謳歌するためだけに使われてきたのだろう非力そうな腕には、剣やこん棒、銃などありとあらゆる寄せ集めの武器が握られている。

 そして、その先頭に立っているのは。

 鎧に身を包んだその人が、ゆっくりと兜を取る。嗚呼、姿を見る前から分かっていた。

 ウエルドが表情のない顔で私たちと対峙している。

「戦えない、と仰いましたね。つまり、影の支配を受け容れると言う事だ。これほど素晴らしい申し出はありません。わたしの手間も省けるというものです――追い回し、刺し殺す手間がね。

 前へどうぞ、伝説の人よ。安らかに眠れるように、首をはねてあげましょう」

「うるせえよ!」

 コクアが激昂した。

「好き勝手言いやがって。スズネの生き死には、お前らが決めることじゃねえ。ひとりで話進めんな」

「その通りだ」

 クーガも同意する。一瞬強く握って、私をとらえていた手を放した。

「クーガ……?」

「ごめんね、スズネ」

 立ち上がる。両手に青い炎が燃え、円月輪が現れた。

「今を生きているのは君だ。僕は守護者に過ぎない。だから君の代わりに生きてあげることも、影を追い払うことも、できないんだ。

 ずっとそばにいた。だから君の思いは理解しているつもりだ。尊重したいとも思ってる。だけど、これだけは……。死は、後戻りできないことだから。せめて最後にわがままをさせて。君が生きることに疲れたとしても、僕は、僕たちは、大事な君を諦めたくない。だから僕が終わるまで、君のことを全力で守る」

 ウエルドがつまらなそうに言う。

「あくまでも抗うというのですね。自ら苦痛を選ぶなど愚かです。伝説の人が死を望むのならば、受け容れるのが優しさというものでしょうに……」

 軽く手を振る。ウエルドの意図を汲んで、かつて貴族だった機械たちが私たちの周囲に展開した。無機質な顔で、手に手に暴力的な武器を構える。

「それでは、死んで下さい」

 機械たちが一斉に飛びかかった。

 クーガの円月輪が熱波を切り裂いて飛ぶ。精密な部品を詰めこんだ機械の腕が、重々しい武器を握りしめたまま胴体を離れる。平衡を狂わされた機械は派手な音と共に地面に倒れた。

 飛んでいく円月輪の隙間を的確に縫って、コクアが弓を射る。太く短い矢は金属をも貫いて機械の急所をつき、何体かは一撃で完全に動作を停止した。

 私は力なく座りこんだまま、二人が戦うのを眺めている。部品がはじけ飛び、こん棒が地面をえぐり、コクアが体術で銃を奪いとるのを。二人は今までにないくらい必死だった。力のこもった戦い方から、敵を見据える強い目から、私に流れこむクーガの感情から、それが分かる。

 私を死なせちゃいけない。ここで終わらせちゃいけない。私が戦えるようになるまで、なんとか――たとえ永い時間がかかってでも、持ちこたえる。

 でも、どうして。私には二人がここまでする熱意が分からない。どうして二人はここまで真剣になれるの? 私なんかのために。

 コクアが私を支えようとする気持ち、クーガが私を守ろうとする気持ち。私には不釣り合いで、重すぎて、受け取れない。きっと見捨ててくれた方が楽なのに。応えない私より、他の誰かを守るために戦う方が有益だろうに――それでも私を離してくれない。どうして。私はこんなに疲れて、「もういい」と言っているのに。どうしてまだ私を生かそうとするの。

 はねつけて離れることも、受け容れて立ち直ることもできない。私はさしのべられた手の指先だけに触れたまま、ずっと立ち止まっている。

 背後に人の気配を感じた。

「――後ろ向きな考えが、影を引き寄せますよ」

 ウエルドの声。体が瞬時に硬直し、ぎこちない動作で振り返る。クーガとコクアは向かってくる機械たちに引き離され、今は私よりずっと離れたところで戦っていた。

ウエルドの顔を見つめる。感情のない、冷めきった目を。ウエルドは腰の剣を鞘走らせた。

「スズネ!」

 切迫したクーガの声。組み合いになりそうだった機械の腕を押しのけて、こちらへ走ってこようとする。絶対に間に合わないのに、最後まで私を守ろうとしている。

 私には分かった。クーガは失望を味わうだろう。無力さと自責の念に打ちのめされるだろう。そんな必要はないのに。クーガが私を守れなかったんじゃない、私が死のうとしているだけなのに。

 ウエルドが剣を引く。私を一突きにするつもりだ。

「愚かな者たち」

 剣を持つ手に力がこもる。私は貫かれる痛みだけを覚悟して目を閉じる。

「スズネ!」

 悲痛な二人の叫びが炎を裂く。ごめんね、悲しませて。だから放っておいてほしかったんだよ。傷ついて欲しくなかったから。

 激しく剣と剣がぶつかって、ウエルドがうろたえる微かな声。剣の切っ先は私の体を逸れて、横の地面に突き刺さった。

「まだ私たちにチャンスをくれ、スズネ」

 目を見開く。暁が私たちの間に割って入っていた。

「貴様……!」

 ウエルドが歯噛みする。狙いの逸れた剣を抜こうと視線をそちらに向けると、察した暁の方が素早く動いた。

 柄に手をかけようとするウエルドの手を、高いヒールで容赦なく蹴りつける。うろたえて手放したウエルドをさらに追い、両手に握った白黒の剣でウエルドの腰あたりを両断した。

「ぐ……おのれ……」

 絞り出すようなうめき声。断面には精緻に組み合わされた機械の集積が見える。ウエルドが倒れた衝撃で、それらが地面に散らばった。炎が反射してオレンジ色に輝いて見える。

 苦悶に歪んだ顔が地面に伏せた。

「危ないところだった」

 誰にともなく呟き、暁はウエルドの使っていた剣に体重をかける。剣は刀身の真ん中から二つに折れ、無残に地面に転がった。

「スズネ」

 名前を呼ばれ、私たちは距離を置いて見つめ合う。

「思い出したんだな」

 言われて身が縮んだ。暁の声はこんなに優しいのに。彼女が何について話そうとしているかを察して、優しさから目をそむけたくなってしまう。暁が私に何を求めようとしているか、直感的に分かってしまったから。

 私が思い出した今、記憶の回帰は暁にも起きていたのだ。

 異変にあてられた欠落は埋まっている。今の暁は自分が何者か、どんな使命を持つ者だったか、そして私が何をしたか――すべて分かっている。

 暁が近づいてくる。

「残された時間は少ない。だからお前に会いに来た。影を追放するんだ、スズネ。影にお前の心を殺させるな。これはお前が元々望んだ形の終わりではない。ここで影に屈すれば、お前は何もできないまま自分の人生に引きずられることになるんだぞ。

 影は心の持ち主を殺し、その肉体を乗っ取る。そして周りに悲しみと恐怖を撒き散らすためにのみ活動する。影に操られたお前の体は物を盗み、人を傷つけ……命さえ奪ってしまうかもしれない。

止めたくても、なにもできない。お前はそれを心の内部から眺めているしかなくなる。

 影がお前を手放す頃には、すべてが手遅れになってしまうだろう。それは人生の無駄だ。本来選んできたことではない。

 だから頼む。ここで諦めないでくれ。影を追放してくれ。お前自身の人生を生きてくれ。そうすればすべてが変わるだろう。影に曇らされない視点で見れば、今お前が『外』で抱えている問題も乗り切る方法がきっと見つかる。お前はこれから先を生き抜ける。ここで終わってほしくないんだ」

「……よく、よくそんなことが言えるね」

 暁のいたわるような口調が私の神経を逆撫でた。

 私は知っている。私たちのあいだで共有される、記憶と感情があることを。マザーとも、コナさんとも、もちろんクーガとも、きっと繋がっていた。暁は私が何に悩み、葛藤していたかを知っている。その上で話している。分かっている。分かっているのに、今の私は諦念にしがみついていたい。

「あなたたちは私を理解してない。ふりをしてるだけでしょ。私の辛さが他の人に分かるはずない。クーガは私を見守ってきたとか言っていたけど、それはただの高みの見物で。ただの他人事。直接体験したわけじゃないのに、私の何が分かるっていうの。それなのに分かったように言うのはやめて!」

 耳を塞ぐ。刺々しい言葉ですべてを遠ざけたい。体を二つに折り曲げて、吐き出すように叫び続ける。

「私はもう終わりにしたの。それで良いって何度も言ってるのに! どうして私を引き留めるの。どうして静かにさせておいてくれないの!」

 襟元を掴まれる。間近で暁の声が私を叩いた。

「私たちはお前にできることしか言わない!」

 私を上回る声量。気圧(けお)されて立ちすくんだ。

いつの間にか歩み寄った暁が、私の襟元(えりもと)を押さえていた。間近でぶつかる鋭い目に捉えられる。逃げられない。

 でも、それ以上に引きつけられる。

 力強く訴えかける目の形、顔、背格好。

 暁は、私と同じ形をしている。

 私が今まで味わってきた喜び、悲しみ、怒り、後悔。すべてが記憶された姿。

「気づけ鈴音。感じ取れ! 私たちがお前に願うことはただ一つだ。生き延(の)びろ。お前はまだ死ぬ時ではないんだ。私たちがお前を引き留めるのは、お前に生きて欲しいからだ!」

 張りのある声が間近でぶつかる。そこにこもる痛いほどの熱意に気づいて、両足から力が抜けた。

 嘘偽りのない本音。もう否定しきれない。信じない選択肢なんてなかった。暁は、私を知っている。私がこれまでやってきたこと、感じてきたこと。すべての苦悩を知った上で、それでも私に「生きろ」と言っている。

 私は空っぽになってしまったはずだった。お母さんの愛情を裏切り、「幸せ」からあえて逸れようとする私の存在は罪深い。いっそ死んでしまうべきだ。

けれどそれは、私の思い違いだったのだろうか。だってディーバの人たちにとっては、私だけがすべて。ここには、空っぽの私に大きな存在理由がある。私が消えればディーバも終わるのだから――今、目の前で終わろうとしているように。

 ここにいる人たちは、私の心は、私に「生きること」だけを期待する。私は生きていて良い、生きていて欲しい。そしてそれ以上は何も望まない。

 良い大学に入ることも、良い会社に入ることも、幸せになることさえも。まず生きていなければ、何も体験することができないから。

 なんてシンプルなんだろう。こんなに単純で良いのだろうか。私は生きていて良いと、たったそれだけのことで、私は自分の価値を認められそうになる……。

「汚い……戯言だ!」

 ウエルドの怒声が空気を裂き、暁の背中に突き刺さった。

 暁の体がぐらりと傾ぐ。とっさに受け止めた私は、その後方に見えるウエルドの姿に気がついた。

「総統の、影の命ずることになぜ従わない!? 自主性を放棄しろ。影に身を委ねろ! お前が望んだかつての『幸せ』は、総統がお前の代わりに叶えてくださる。ならばお前は死の淵で眠り、それを眺めていればいい! 許せない、総統の意向に逆らうなど!」

 ウエルドは両手で地面を張って進み、折れた剣を掴んでいた。怒りの含んだそれを、力任せに暁に向かって投げたのだ。

「暁!」

 クーガの悲鳴。暁の指先からは血の気が失せ、背中に突き立った剣のふちから赤いものがしみだしている。

「死ね、死ね! 総統に抗う者はみな滅んでしまえ。みな消えてしまえ!」

ウエルドはさらに折れた切っ先の方に手を伸ばしている。妄信めいた憎悪に曇った目。私の盲目が――影が暁を傷つけた。

私は暁の右手から白い剣を取っていた。

「死ね!」

 ウエルドが剣を投げる。それは私に向かって飛んでくる。恐怖は感じなかった。先行した怒りが、抑圧を解かれた悔しさが私を昂らせ、すべてのものがよりはっきりと見えている。

 分かる。どう体を動かせばいいか。

 飛んでくる剣を叩き落した。

 目を見開くウエルドを見下ろす。

「これ以上、勝手にしないで!」

 剣を振り下ろし、憎悪の詰まった体を切り裂いた。傷口から部品がこぼれて体が崩れていき、ウエルドは部品の集積となりはてる。

「……」

 溜まっていた息を吐き出した。

「――暁。嗚呼、駄目だ。暁」

 クーガのうろたえた声に振り返る。クーガが暁の体を抱きしめるように支えていた。コクアとクーガの目を見れば、暁がもう永くないのだろうことが察せられる。

 私も暁のそばに膝をついた。

 閉じた唇からも血が溢れはじめている。白い肌に赤い血の筋。目が刻々と力を失っていく。

 暁が私の視線に気づいた。

 口が「スズネ」の形にうごく。声は出ない。

「なに」

 そっと答えた。

 暁は掠れた声をふりしぼる。

「……スズネ。生きてくれ。影が――フィーリオスが、あの王宮でお前を待っている。……行って、決着をつけろ。影を追放するんだ……。どうか、影に心を明け渡さないでくれ。目覚めた後のことは……目覚めた時に考えれば良い。考えるべき時に考えれば、最良の答えが見つかる。未来を心配しようとすれば、不安が目につくだけだ……だから今は、生きる、こと……だけを」

 一言一言を噛み締めるように、吐き出すように口にする。薄目を開いた暁にも見えるように、私ははっきりと頷いた。

「――うん。私は生きるよ。やり切れるかどうか、まだ分からないけど……。暁のために、ディーバのために、最後まで生きることを諦めない。たくさん迷惑をかけて、ごめんね」

「迷惑、なんて」

 ふ、ふ。乾いた息が漏れる。たぶん笑っている。

 暁の手を強く握った。

「だから、心配しないで。必ずあなたが戻ってこられるようにするから」

「久しぶりだな……待っていたよ。本当のお前を」

 唇が笑うように横に広がる。乾いた息が、言葉になりきらないまま吐き出される。

 深い紫色の瞳が光を失い、ついに瞼に覆われる。もう暁は動かなかった。

「……」

 コクアが私の肩に手を載せる。クーガは暁をそっと地面に横たえた。

 そうして暁の耳元に唇を寄せる。

「ごめんね。連れて行くことができなくて。大好きだよ暁」

 立ち上がった。

「……行こう。森を抜けなくちゃ」

 促され、私たちは三人で手をつなぐ。クーガが握った手に力を込めると、私たちの体を乳白色の光が覆った。

「ちょっとした魔法。熱を完全に防いではくれないけれど、身を守ってくれるから」

「ありがとう」

 私たちは炎の中へ飛び込んだ。

 視界が赤に染め上げられる。炎の唸り声が押し寄せて、右も左も分からない。足元で燃えるものが若木だったのか、それとも生き物だったかも判然としなかった。遠くで木々が軋んだ悲鳴を上げながら倒れる。舞い上がった火の粉が夜空に光った。

みんなの暮らしの跡は消し去られてしまった。後に残るのは残骸のような燃え跡と、かつて「何か」だった灰だけ。

 そして私の手には、真っ白な剣。暁の形見――それとも、私のもの。

 炎の赤は夕日の色に見えなくなっていた。あの透明な夕日は、どこまで行っても私の過去。炎は今の私を取り巻いている。影が私の世界を燃やしていく。この熱の中に消えていった、無数の命と最期の悲鳴に「ごめんね」を言った。

 ごめんね。痛かったね。熱かったよね。

 でも、これで最後にするから。

 私は私を取り戻しに行く。

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