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蜃気楼的世界観8

 さわやかな風が木立の向こうから吹き抜けて、まとわりついていた荒野の乾燥と嫌な汗を拭い去る。樹齢百年とも千年とも分からない大木たちが点在し、頭上では木の葉がほどよく日差しを和らげていた。

 私たちが森に飛び込んだ瞬間、木漏れ日の中から鳥たちが一斉におしゃべりを始める。

「スズネだ! スズネが来た!」

「みんなに知らせてこよう!」

 大勢の鳥が飛び立つ気配。風でざわめく無数の木の葉が擦れる音。森全体に息づく生命の気配とでも呼ぶべきものに、私は目を覚まされたような新鮮さを覚えた。

 そうして不毛の荒野を振り返る。

機械の工員たちは今歩調を緩めて立ち止まり、一人、また一人とバンプールの方へ戻りはじめるところだった。彼らを操る誰かが、振り切られたと判断したのだろう。

 彼らが遠ざかるにつれて、繰り返されていた「助けてくれ!」の叫びも小さくなっていく。工員たちの姿が胡麻粒ほどまで小さくなる頃には、叫びは荒野の風と分からないほどになった。

「逃げ切った……」

 安堵の溜め息が、最初に三人のうちの誰から漏れたのか分からない。

 けれども一人の呟きが伝染し、私たちの間に張りつめていた緊張が一気に解けた。

 あまりにも急に気が緩みすぎて、転化した緊張が笑みに置き換わっていく。クーガは両膝から崩れるように、柔らかい落ち葉の上に座りこみさえした。

「はぁ~。なんとか逃げ切ったな」

「うん」

 私とコクアは顔を見合わせて笑う。その瞬間、コクアの顔が思った以上に近くにあって驚いた。

 そうだ。私は転んでしまって、コクアに抱えてもらって、今もそのまま。

「い、いつまでもごめん。下ろして!」

こみ上げる羞恥心にいたたまれなくなる。顔が沸騰しそうなくらい熱い。一方のコクアは大した照れ臭さもないようで、

「本当に大丈夫か? 痛かったら無理するなよ」

 言いながら慎重に下ろしてくれた。

 地面に爪先をつく。痛くない。両足に体重を乗せる。右の足首がずきりと痛んだ。思わず顔をしかめたけれど、歩けないほどではない。コクアを見上げて「大丈夫みたい。……ありがとう」気恥ずかしさが抜けないままお礼を言った。

「おい、クーガ。お前も大丈夫かよ」

 座りこんだままのクーガの肩を、コクアがつかんで揺さぶる。ぼんやり顔を上げたクーガは、やはりぼんやりした声で、

「ああ、ごめん……大丈夫」

動作をひとつひとつ確かめるように立ち上がった。

「ちょっと気が抜けちゃって、ね」

 笑っているのに、悲しそうな顔。痛々しさに見ているこっちまで胸が塞ぎそうになる。暁のことを考えているのだろうことは容易に想像できたけれど、詳しく尋ねようとしても「大丈夫」「なんでもない」の一点張りだ。

 口にするよう仕向けることが、逆にクーガを遠ざけるような気がしてきた。

「……無理は、しないでね」

「スズネもね」

 そうして私たちは森の中を進みはじめた。

 木々は静かな昼の日差しを浴びて佇んでいる。森を「静かだ」と言い表すことがある一方で、森が完全な無音に沈む瞬間なんてないんじゃないだろうか。

 遠く近く聞こえてくる鳥たちのおしゃべり。微風に震える葉擦れの音。草のあいだをすり抜ける音が近づいてくると思ったら、脇の茂みからウサギやキツネが飛び出して私たちの前を走り去る。「森」という世界を構成するあらゆる音が合わさった末に、静かな空気が作り出されているのだ。

 この無音は、不快ではなかった。むしろ心地良い。安らげる無音があるなんて初めて知った気がする。私が無音だと思ってきたものは、もっと張りつめていた。息をひそめ、重圧に打ち克とうとして、必死に気持ちを落ち着かせようとしながら鉛筆を握るような。

 決して失敗してはいけない。それは転落だから。

 たった一度の失敗が、人生を駄目にする。

 私は失敗してはいけないんだ。

 だから、私はどうしたんだろう。

「ごめんね、君を迎えに行けなくて」

 クーガの声が降ってきて、内省に落ちこみそうだった私の意識を引き上げる。

「スズネが来てくれたと分かった時、見計らったように管理派が攻めてきてね。あんな大規模な部隊を見たのは久々だった――僕が抜けるわけにはいかなくなってしまったんだよ。だから代わりに、テンに迎えをお願いしたんだ。まさか、君のもとにも管理派の兵士が向かっていたとは思わなかった。二人ともに怖い思いをさせてしまったね」

「私は大丈夫。クーガも大変だったんだね……。

私をバンプールに連れて行った兵士が、それは陽動作戦だったって言ってた」

 ウエルドの淡々とした話し方が思い出される。ウエルドに連れられてバンプールに向かったのが、もう遠い遠い過去の出来事のようだ。

「それからフィーリオスは誰よりも長生きで、すべてを見通している、とも。だから私が森に現れたことも分かったんだって」

「フィーリオスが? まさか。僕たちはみんな同じくらいのペースで年取っているはずだよ。ここでは何百年も生きることが当たり前だからね。

ぼくは『異変』が起きる前からフィーリオスを知っている。親しくしていたはずなんだ……ぼんやりとだけど、覚えてる」

 クーガはようやく納得できた様子で頷いた。

「でも、なるほど……。そういうことだったんだ。ここのところ、管理派の兵士との小規模な衝突は日常茶飯事だったんだ。彼らはよく森へやってきて、小競り合いをして、引き揚げる。だから僕たちはほとんど常に、森の境界を見張る必要が出ていたんだ。今日はあまりにも相手の人数が多いから、見張りの人たちも呼び寄せていた。でも、それが相手の狙いだったんだね。森へ忍び込み、君を探すことができる」

「どうして管理派と共生派は戦争をしているの?」

「戦争?」

「管理派の人たちが、共生派と戦争をしているって言っていたから」

 ウエルドも、エレベーターに乗り合わせたシュレンドルフ氏も、フィーリオスも……。しかし彼らがクーガたちのことを、揃って「卑しい共生派」と呼んでいたことは言わずにおくことにした。私はこの人たちをそんな目で見たくない。

 クーガは「なるほどね」と呟き、言葉を選ぶように木漏れ日を見上げて歩く。

「彼らはこの状況を、戦争として見ているのか。僕たちは、そうは思っていない。どちらかといえば、防衛戦かな。僕たちは戦うけど、それは彼らと争ったり、彼らから何かを奪いたいからじゃない。ただ森を、ディーバを守りたいだけなんだよ。

『異変』が起きた直後まで、ディーバは大陸の全体が森に覆われていた。それが管理派が生まれて、闇雲に木を切りはじめた。その結果が今のディーバだ。管理派が手を入れた土地は影の影響が濃い。絶えた命はもう戻ってこない。彼らはそれを意に介さず、工場や王宮の建設のための資材を欲し続けているらしい。僕たちが守らなければ、ディーバから自然が失われてしまう。僕たち全員が棲み処を失くして、管理派に従うしかなくなってしまう。それは到底受け入れられない。幸い、僕に共感してくれる人が大勢いて、今はみんなと一緒にこうやって、森を守っているんだよ」

「そっか」

 クーガは声に押しつけがましい熱意を込めることもなく、ただ自分の意見を表明するように話す。今までこんな中立的な人に会ったことがない。

 同時に私はほっとしていた。フィーリオスの手をあの場で握らなかったこと。私の感覚と、脳裏に閃いた未来予想――一面に広がる荒野や無尽蔵に増殖する工場、働かされる不健康な人々――あれは私一人の頼りない空想ではなくて、クーガをはじめ共生派の人たちが危惧する、実現可能性のある未来だったのだ。

 危うく、それの実現に手を貸してしまうところだった。心を洗われるような景色をよく知る前に。

 話しながら歩いているうちに、森の様子が少しずつ変わりはじめていた。下草は踏み分けられて短い部分が目立つようになり、どこか遠くないところから川のせせらぎが聞こえている。

 コクアが遠くに向かって手を振った。

「ただいま!」

 声につられてそちらを見る。籠(かご)を持った女の人が、作業の手を止めて手を振り返していた。あの人もクーガやコクアと同じ、カラフルな民族衣装風の服に身を包んでいる。

「おかえり!」

 女の人を皮切りに、次々と共生派の人たちの姿を見かけはじめた。

 茂みの前に膝をついて、丁寧に実を摘み取る人。木に登って、リスと一緒に木の実集めをする人。川のそばを通りかかると、赤い花を摘んでいた子どもが恥ずかしそうに木陰に隠れる。その少し川上では、母グマが子グマに魚の獲り方を教えていた。

 クーガの声が俄然、誇らしげになる。

「僕たちは森で自給自足の暮らしをしてるんだ。自然は僕たちに必要なものを、十分に育てる力を持っている。木の実や野草、キノコ。それから布を染めるのに使える花に、寝床もね」

 小川の幅が狭いところを、三人で順番に飛び越える。足元を飛び去った川の水は作り物かと思うほど透明で、そばに寄って聞く流れはますます清らかだった。

頭上の木々に目をやると、こじんまりとしたツリーハウスがいくつも建っていることに気がつく。

「あれは僕たちの家。森中にたくさんあるんだ」

 ツリーハウスは木の幹と同じ、くすんだ茶色をして景色にとけこんでいた。互いにつり橋で結ばれていて、わざわざ地面に下りなくても行き来できるようになっている。建物は一様に八角形をしているが、ひとつひとつ微妙に辺の長さや形のバランスが違う。クーガが、木を痛めないようにしているのだと教えてくれた。

 進むほどツリーハウスの数は増えていき、すれ違う人の数も多くなる。みんな私たちに気づくと明るい声で「おかえり」を言ってくれ、私をなじみ深い場所に帰ってきたような気にさせてくれた。

 木々がひときわ太く、高くなってくる。木の葉が日差しを遮り、辺りは涼しくて薄暗くなってきた。

 クーガが目を輝かせて私を振り向いた。

「さあ、着いたよスズネ。ノア=ラーアウの中心、『広場』へようこそ」

 クーガが足を止めて、私に先頭を歩くよう促す。前方はひときわ眩しい陽光に包まれていてよく見えない。思い切って日差しの中へ踏み出した。

 眩しい。両手を額にあてがってひさしを作る。陽光を透かして見えた広場は、私がそれまでに見たどんな景色よりも印象的だった。

 見上げるほどに背の高い大木が、二、三軒のツリーハウスを支えながら、まるい空き地を囲んで鎮座している。踏み慣らされた柔らかい下草に覆われた空き地は、大勢の活気で満ちあふれていた。走り回る子どもたち、昼寝をする大人、洗濯物を干す人、武器の手入れをする人……。その足元を狐やウサギが通りすぎ、頭上では鳥がおしゃべりをしている。

「わあ……」

 自由。最初に脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。誰も、何にも縛られないでいる。一目見ただけでそれが分かる。私に足りないもの。私がどこかで欲しいと思っていたもの。

「すごいよな。他じゃ見られない景色だ」

「うん」

 コクアの言葉にまだ呆然としたまま頷く。コクアの口調に混ざる誇らしさが、ますますこの景色を素晴らしく見せた。

「俺も最初見た時はびっくりしたよ。実用的で、何よりぜんぶが整ってる。やろうと思えば、人間ってこんな風に暮らせるのか、って思った」

 これが、私の目の前に広がる実際の景色とはとても信じられないほど。いつまでも飽きずにみとれていると、私たちの頭上を大きな鳥の影が通りすぎた。

「クーガ! スズネ!」

 元気な男の子の声にはっとする。

 クーガがさしだした腕めがけて、一羽の鷹が急降下してきた。私はすぐに誰だか理解する。

「テン! 無事だったんだね」

 嬉しくて嬉しくて、笑った瞬間に涙が出そうになる。テンは元気なことを示すように、しきりと片足を握ったり開いたりして見せた。

「ボクは葉っぱの影にいたから、弾は当たらなかったんだ。近くを通ったからヒヤッとはしたけどね。スズネにまた会えてうれしいよ。……そうだ!」

 テンが思い出したようにクーガに顔を向ける。

「マザーが、三人を家に呼んでたよ。早く行ってあげると良いかも」

「そうか。ありがとう、テン」

「またね!」

 クーガが丁寧に感謝を伝えると、テンは勢いよく飛び上がって木々の向こうに去って行く。羽ばたいた時に起こった風が存外強く私の頬を叩いてはっとした。

心のどこかでテンをか弱い動物と決めつけていた、区別的な自分を私は恥じる。まるで管理派みたいな見方じゃないか。

 コクアが大きく伸びをする。

「じゃ、マザーのとこ行くか」

「そうだね」

 二人は広場の中を歩きだす。ここでも周りのみんなが親しげに「おかえり」を言ってくれた。私は二人の背中を慌てて追いかける。

「ねえ、マザーって誰?」

 クーガが歩調を合わせながら教えてくれた。

「マザー・メアリーって言ってね。僕たちの中で最年長の人なんだ。みんなの母さんみたいな人だよ。自然の知恵も、暮らしのコツも、ほとんどなんでも知ってるんだ」

 クーガの口にした温かい「母さん」に、言いようのない違和を覚えさせられる。同時に私はひどいショックに打ちのめされていた。

 むしろ、どうして今まで思い出しもしなかったんだろう。お母さんのことを。 

 私がディーバにいる間、もといた世界――どこで何をしていたのか全く思い出せないけれど――は、一体どうなっているんだろう。時間は進んでいるんだろうか、それとも止まっているんだろうか? お母さんは、私を探し回ったりしているのかな。

そうだとしたら申し訳ない。私はどうしようもなく恩知らずの、親不孝な人間だ。罪悪感が押し寄せて、それ以外に考えられなくなる。お母さんは今までずっと、私のことを考えてくれていたのに。

 

 私にはお父さんがいない。親戚たちも離れたところに住んでいてあまりよく知らないから、私とお母さんが頼れるのはお互いだけ。

お父さんとお母さんは、私がまだ小さい頃――記憶が正しければ、五歳くらいのころ――に離婚している。理由はよく知らない。

 ただ常々聞かされていたのは、お母さんは「失敗」したということ。「幸せ」になるのには足りない、「間違った」人を選んでしまったということ。

 お父さんが出て行って、私たちも当時住んでいた広いマンションから引っ越さなければならなくなった。

 荷造りの時、お母さんの泣き声が聞こえてきた時のことを覚えている。

 私は自分の荷物整理の手を止めて、そっと寝室を見に行った。つるつるに磨かれた床の上に、爪先から足を落として、決して足音を立てないようにして。

 寝室は滅茶苦茶になっていた。

 お父さんとお母さんが使っていたダブルベッドは、お父さんの側だけシーツも寝具もなくなってがらんとしている。お母さんのベッドの上には、ぐちゃぐちゃの洋服がたくさん。床にはいくつもゴミ袋が広げられて、お母さんはその真ん中で、クローゼットから物を引っ張り出しては、半狂乱になりながら手近なゴミ袋に投げ入れていた。

「どうしてこんなことになったのよ! どうして……!」

 聞き取れるような、聞き取れないような言葉を繰り返す。髪を振り乱して泣き続ける。お母さんが掴んで捨てているものを見ると、お父さんからもらったと言っていたものばかりだった。

 お母さんはお父さんのことが大好きだったんだと思う。お母さんが着ていたものを褒めると、決まって言われたものだ。

「これはね、お父さんが買ってくれたものなの」

 初めて一緒に迎えた誕生日の時に。クリスマスプレゼントに。なんでもない日に。お母さんの持ち物はお父さんへの「好き」で溢れていた。私も嬉しそうなお母さんを見るのが楽しかった。

 けれどお母さんを彩っていた思い出は、今はすべて忌々しい、おぞましい物体に変わってしまったのだ。

 お父さんからもらったすべてのものを――服も、靴も、思い出も、全部捨てる。お母さんはお母さんの人生から「失敗」を、お父さんを、消し去ろうとしていた。

 その時見たお母さんが、幸せそうに笑っていた人と同一人物だとはとても信じられない。私は声をかけるのもためらわれて、そのまま、何も見なかったようにそっと自分の部屋へ戻った。

「次のアパートはここより狭いの。たくさんは持って行けないから、本当に大事なものだけ選んでね」

 事前に言われていた指示を守って、私は特に大事にしたいものだけをより分けておいた。

 けれどそのほとんどは、持って行かせてもらえなかった。お父さんが稼いだお金で買ってくれたものだったからだ。

「新しいおもちゃをたくさん買ってあげるから。鈴音だって、新しいものの方が好きでしょ?」

 私が持っていくために分けた荷物を見て、お母さんは私を諭すようにそう言った。

まっすぐ突き刺すようなお母さんの目。ゴミ袋を透かしてお気に入りのぬいぐるみが助けを求めているように見えた。連れて行ってくれるよね? 捨てたりしないでしょ?

「……うん」

 私はお母さんを見て頷いた。

 おもちゃは燃えるゴミの日に出されて、永遠に戻って来なくなった。

 私たちはもっと小さなアパートに引っ越して、新しい暮らしを始めた。お母さんは変わった。

 長かった髪をばっさり切って、全然違う雰囲気の服を着るようになった。今まではいつも家にいて家事をしていたのに、スーツを着て仕事に行くようになった。長い髪も、専業主婦も、全部お父さんの希望に合わせていたんだと言った。何の未練もない、「間違った」生き方だったと。

 私は寂しかった。変わっていくことが寂しかった。私にとっては、お父さんもお母さんもいっぺんにいなくなってしまったみたい。

小学校に上がって、誰もいない家に帰ってくるのがひどく孤独に思えた。でも「寂しい」と泣くことも許されなかった。

 お母さんはお父さんを消し去りたかったからだ。

 お父さんに会いたい。私はそう願うことを許されなかった。

「どうしてあの人の話なんて持ち出すのよ!」

 私が一言でも「お父さん」と言おうものなら、そもそもお父さんのことに話が繋がりそうな気配を察したら、お母さんはひどい拒否反応を示す。みるみるうちに瞳が潤んで、髪を振り乱して怒る。涙をあちこちにまき散らしながら。

「あたしがあの人に比べて劣っているとでもいうの!? あたしだって頑張ってるのよ! 全部あなたのためにやってることなのに。仕事も家事も、何もかも全部。どうして分かってくれないの!?」

 次には両手で顔を覆って泣き出す。涙を止められなくなる。体を縮めてお母さんの怒りをやり過ごそうとしていた私は、そこで自分の決定的な間違いに気づくのだ。

 お母さんを悲しませてしまった。

 私は「間違って」しまった。悪いことをしてしまったんだ。

 この「失敗」を取り戻さなくちゃ。お母さんに謝らなくちゃ。慰めなくちゃ。

「ごめんなさい」を言って、言って、私が本当に心から悪いと思っていることを示さなくちゃ。

 もう、怒られないようにしなきゃ。

 立ち上がって食卓を回りこみ、丸まったお母さんの背中に恐る恐る手の平をのせる。

「ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい」

 ぎこちなく背中をさする。そうしているうちに嗚咽は小さくなってきて、やがてお母さんはずっと落ち着いた顔を上げる。

「あたしこそごめんね、鈴音」

 そして私を抱きしめて言うのだ。

「鈴音はなにも悪くないのよ。悪いのは、全部あたし。あたしは失敗してしまったから……。

ねえ、鈴音。鈴音は失敗しないでね。間違うのは悪いこと。いつも成功者でいるようにしなさい。人に頼って生きていては駄目。自分でできるようになれば、悲しむことなんてなくなるのよ。良い大学に入って、良い会社に入って、良い人と結婚しなさい。失敗しなさそうな人を選びなさい。そうすれば幸せになれるから――」

 

 遠い日の記憶。日差しがかげったのに気づいて、私の意識は現在へと戻ってきた。

 気づけば私たちは広場を突っ切り、立派な大木の一本に近づいていた。その根元にはほとんど地面と接するくらい低い位置にツリーハウスが一軒建っていて、クーガが玄関ポーチに続く木の階段を上がる。ドア代わりに垂らされたカラフルな布を持ち上げ、家の中に声を投げた。

「マザー。ただいま。スズネ、どうぞ入って」

 クーガに促され、私は緊張で小さくなりながらマザーの家に足を踏み入れる。

「お邪魔します……」

 マザー・メアリーの笑顔が私を出迎えた。

「おかえりなさい。スズネ。来るのを待っていたのよ」

 マザーがまとう不思議な雰囲気を、なんと表現すれば良いのか難しい。神秘的、と言ってしまうと硬質すぎるし、優しい、と言ってしまうと深みを取りこぼしている感じがする。浅黒い顔はしわくちゃでかなりの老齢に見えるのに、鮮やかな色合いの服が実際の年齢を分からなくさせた。「母親」と聞くと私は自分のお母さんを想像するけれど、マザーはお母さんとは違うタイプの人だ。

「疲れたでしょう。さあ、座って」

 マザーはきらきら輝く茶色い目を、しわの中に埋めるようにして笑う。床には輪になるように座布団が敷かれていて、マザーは私たちをそこへ導いた。

「お茶を用意しているところだったの。少し待っていてね」

 座布団は太い糸で編まれた温かみのある手触りで、室内を見回すと小屋全体がそういう手作りのもので彩られていた。寝心地の良さそうなベッドかかったカラフルなキルトに、綺麗に掃き清められた床には分厚いラグが敷いてある。ガラスのはまっていない窓からリスが二匹顔を覗かせ、私たちを面白そうに見守った。

 ツリーハウスの中央には囲炉裏に似たスペースがあって、温かみのある土色の陶器が火にかけられていた。中の水はそろそろ沸騰しそうになっている。マザーは家の梁に吊るして乾かしてある植物を適当に摘むと、それを手でざっくりちぎって布巾で包んでいく。おおざっぱに見える動作もよく見ていると、ある植物は花だけを、別の植物は葉っぱだけを、さらに他のは花と実を……と、必要な部分だけを摘み取っているのだった。布巾に包まれたそれらを沸騰したお湯に浸して少し待つと、じわじわお湯の色が変わりはじめる。家の中はハーブティーに似た優しい香りで満たされていく。

「どうぞ。スズネ」

 出来上がったお茶は、小さい素焼きのカップに分けて入れられる。まず私にひとつ目のカップが差し出された。受け取ると素焼き独特の優しさが手に馴染む。マザーはカップを持つ私の手に、そっと自分の手を重ねた。

 静かな眼差しがじっと私に注がれる。

「スズネ。ディーバへ来てくれてありがとう。貴女を待っていたの。わたしはずっと貴女を応援してきたし、これからも変わらず貴女を支えるわ」

 マザーと目を合わせる。心の奥まで見通されているような、不思議な感覚にとらわれた。私の経験した嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと……。およそ記憶にあるすべての出来事が、私の脳裏を飛ぶように行き過ぎる。マザーにも同じものが見えているような、いや、同じものを体験してきたような。

 なぜか不快には思わない。それよりもむしろ。

「……分かって……くれるんですか」

 心の中で思っただけか、口に出したかはっきりしない。自分の声を耳で聞いて、初めて声が出ていたのだと気づいた。

「ええ。分かっているわ」

「どうして」

「わたしは、人より『目』が良いの。あなたの過去のすべてと、これからやってくる未来に広がる無数の可能性を垣間見ることができるのよ」

 そうだったんだ。私はマザーの言葉を素直に受け入れる。疑う余地などありはしなかった。マザーの深みのある言葉を聞けば、不思議に近いところと遠いところを行き来するマザーの視線を見れば、彼女の言葉が真実であることを深く理解できる。

 マザーは「何を」分かっているのか知っている。私はその「何か」が分からない。ただひとつ理解できたのは、私でさえ上手く掴みきれていない私の深層さえも、マザーは見透かしているのだということ。そして私という人間の精神性を見抜いた上で、支えると言ってくれていること。

 具体的なことを、私もマザーも何も言わない。私にはとても言えなかった。クーガとコクアもいる前で――見られて嬉しいことばかりじゃない気がする。私は外に見せているよりも汚れた人間で、醜い部分も卑しい部分もあるはずなのに。それでもマザーは私を肯定してくれる。完璧になろうとして、自分を追い込まなくて良い、今のままでも良いんだと言ってくれている。発されたほんの短い言葉から、私はそれを悟った。

 視界が一瞬震えて、涙が頬の上をこぼれ落ちた。ようやく私は自分が泣いていることに気づく。どうして。悲しくも悔しくもないのに。むしろ私は今、心の底から安堵している。

 マザーは呆然と涙をこぼし続ける私を、温かい腕で抱きしめた。

「ここは安全よ、スズネ。ゆっくり休んでいきなさい。ほら、お茶も飲んで。肩の力を抜いて」

 頭を撫でられる。私が満ち足りた気持ちでひとつ息をつくと、マザーは微笑んで、頷いた。促されるまま口にしたお茶は、ほんのり森の味がする。

 マザーはコクアに二つ目のカップを差し出した。

「ありがと」

 コクアは壊れ物を扱うように、慎重にカップを受けとる。私がもらったのと同じ大きさなのに、コクアが持つとカップは妙に小さく見えるのがおかしい。

 マザーはコクアとも目を合わせる。

「ここが頑張りどころよ、コクア。よろしくね」

「おう」

 二人の間には通じ合った空気が流れるけれど、実際に交わされた会話はそれだけだった。

 次にマザーはクーガの前に膝をつき、三つ目のカップを差し出す。

「お帰りなさい、クーガ。そんなに怪我をして。痛かったでしょう」

「大した怪我じゃないよ。むしろ、スズネの方が。足を痛めてるんだ」

 実際、そうと言えばそうだった。クーガは電撃のせいで服こそあちこち焼け焦げているけれど、体の傷は癒えている。暁が魔法で治してくれたからだ。

 それなのにマザーは「痛かったでしょう」などと言う。私は、そしてきっとコクアも、マザーが何について言おうとしているのかを感じとっていたと思う。

 暁のことだ。

 でもクーガは痛みを認めようとしない。何も気にしていないかのように、何を言われているか分からないように振る舞う。

「そう? ならいいのよ」

 マザーはクーガにお茶のカップを渡すと、あっさりとこの話題を切り上げた。

 陶器にはまだお湯が残っている。マザーはそこに追加で葉っぱや花を放りこんで、生成りの布巾を浸した。

「ここまで逃げてくる間、大変だったでしょう。傷は明日に持ち越さないことよ。ほら、これを当てると痛みが引くわ」

 部屋の中にはさっきとはまた違う、草花を煮出した独特の香りが漂っている。固くしぼって渡された布巾を、言われた通り痛む足首に当てた。じわじわと温かさが伝わって、痛みが温もりに押しやられ消えていく感じがする。

 マザーは囲炉裏をはさんだ向こう側に座って、摘んできて間もない草花を束ねる作業を始めた。

「『異変』が起きて、多くの物事が変わってしまったわ。けれど、自然は何も変わらない。自然は変わらずそこにあって、力を分けてくれる。私たちを生かしてくれる。わたしたちは共生派と見なされているけれど、本当は少し違うかもしれないわね。わたしたちは自然と共生しているのではなくて、自然に生かされているんだもの。本当は派閥なんてなくて、生きとし生けるものはみんな、共生派なんじゃないかと思うわ」

「マザー。『異変』って……。影がディーバを覆った出来事だと聞きました。でも。そもそも、影ってなんなんですか。どうして『異変』を終わらせるためには伝説の人が必要なんですか。私、ヴィジョンに言われているようなことが自分にできるのか……。自信がないんです」

 思い切って気がかりをぶつける。マザーは穏やかな顔を崩すこともなく「正直なのは良いことよ」と頷いた。

「影はね、スズネ。終わりに駆り立てるものよ。人と人との繋がりを断ち切って、心を閉じこめさせてしまう。繋がりの絶えた人は寂しくなって、終わってしまうの。

『異変』が起きる前、ディーバは今とは違う形をしていた。世界はもっと流動的で、微細なエネルギーの中に存在していて、平和だけがあった。

 けれど百年前、『異変』が起きた日。わたしたちはみんな広がる影に流された。影に触れたわたしたちは分断されたの。限りのない自由から、平和から――愛する人々から。

 一様に影に触れても、その影響を濃く受けた人と、あまり変化せずに済んだ人がいたわ。管理派と呼ばれる集団に属している人たちは、強い影響を受けてしまった人たち。自分が本当は何者であるかを忘れ、狭い、歪んだ視野で世界を見ている。彼らは影の分身のようなもので、知らず知らずのうちに影に影響されている。彼らの手に触れたものに影が流れこむ。だから、彼らが切り倒した木は再生できないのよ。

 かといってわたしたちも、影の影響を完全に免れているとは言えない。わたしたちも分断の彼方に、大切なものを忘れてきてしまった。いざ思い出してみれば、忘れたことが信じられないほど、とてもとても大切なものさえも――」

 左隣から嗚咽が聞こえてきてはっとした。私とコクアが同時に顔を向けると、クーガが俯いてすすり泣いている。

「暁。暁……。忘れてしまった。どうして僕は彼女を忘れてしまえたんだ。影に負けたようで悔しい。暁に憎まれて当然だ。僕は最低な人間だ」

 マザーはいっそう優しい顔をした。積み重なった感情が一気に崩れ落ちるように、クーガはとめどなくしゃべりつづける。

「暁を見た時、すぐに彼女だと分かった。そして思い出した――彼女と共に、ずっとディーバの均衡を守り続けてきたことを。むしろどうして忘れてしまえたんだろう。

 かける言葉が見つからなかった。だってなんて言えばいい? 助けに来たじゃ遅すぎる。もし僕が彼女を覚えていて、あそこから助け出そうと思ったら、この百年間でできることはいくつもあったはずなのに」

 荒々しい手で頭を掻きむしる。

「最低だ。僕は最低だ。それなのに暁は、僕たちを逃がしてくれた。彼女の優しさが、信頼が痛い。彼女に信頼されるほどのことを、僕はなにもできていないのに」

「クーガ」

 マザーのきっぱりした声が、クーガの自責を押しとどめる。マザーは草花をより分ける手を止めて、クーガに力強い眼差しを向けていた。

「クーガ。内に引きこもって、自分を責めるのはもうやめなさい。あなたがどれほど後悔しても、憎んでほしいと願っても、暁にあなたを憎ませることはできないのよ。あなたのことをどう思うかは、暁が決めること。

 貴方は何も悪くないわ。貴方は忘れたくて忘れたわけではないのだから。

 あなたは充分、悲しみを味わった。いつまでもそこにとどまらずに、これから先のことに目を向けなさい。あなたには自分を責める以外に、もっと大切なやるべきことがあるはずよ」

「やるべきこと……」

 泣き腫らした目を上げる。紫色の目は落ち着きを映していて、クーガから漂い出す雰囲気はずいぶん静かなものになっていた。

「うん。そうだね。……その通りだ」

 マザーの言葉が染み入って、納得が深まっていくように、クーガの首肯も次第に大きくなっていく。

「スズネを支えてくれって、暁に言われたんだ。彼女の頼みを叶えることが――暁に対する誠意じゃないかなって、思うよ」

「そうね」

 マザーも一度大きく頷く。

「悲しみは、溜めると重いの。自分を罰したくて悲しみや怒りを持ち続けると、次第に足をとられて身動きできなくなる。今あなたが動けなくなっては困るでしょう、クーガ。だから重いものはここに置いていきなさい。手放したからといって、忘れてまた同じことを繰り返すわけではないのだから」

「うん。ありがとう、マザー」

 少し寂しそうに、けれど優しい顔で微笑んだ。

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