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蜃気楼的世界観11

良い大学に入って、良い会社に入って、良い人と結婚する。それが幸せな人生を送るために必要なこと。

「私のために」投げかけられた言葉を、私はすっかりそらんじることができる。それほど何度も繰り返し、同じ言葉を言われてきたから。

 すべては私のため。

 私がお母さんのように「失敗」しないため。

 分かってる。お母さんを見れば分かる。

「失敗」は恐ろしい。自分のした失敗を取り戻すために、毎日働いて、殺気立ったように家をお洒落にして、完璧な夕飯を作るお母さんは失敗の影に駆り立てられている。それくらい頑張らないと、失敗は挽回できない。

 幸せにはなれない。

 だから、お母さんは私に期待をかける。私が決して失敗しないように。いちばん早く「幸せ」になれるように。

 私は、それに応えなくちゃ。

「良い」大学に入るためには、まず「良い」高校に入ること。そのためには勉強を頑張って、受験で良い成績を残さなくてはいけない。準備は早ければ早いほど良い。

 私は友達との遊びを断った。やりたかった習い事を我慢した。お母さんが言った、すべては時間の無駄だからだ。

 友情は永遠じゃない。習い事は飽きるかもしれない。「幸せ」な人生のために努力すること。そのために結果を残すことだけが、ずっと私についてきてくれる。

 厳しい受験勉強と、その末に手に入れた第一志望校への切符。お母さんがあれほど喜んでくれたことは、今までになかった。嬉しい。私はやったんだ。「幸せ」に一歩近づけた。

 それが誇らしかったはずなのに、なぜエンジンが切れてしまったのだろう。

 入学して一か月も経たない学年集会の日、学年主任の先生は大きなスクリーンにスライドを映し、こんな話を始めた。

「大学入学試験まで、皆さんに残されているのはあと一五七週間です。限られた時間でどう過ごしますか?」

 大きすぎる衝撃を受けた。

 私は、私たちは、高校に合格したばかりのはずだ。厳しい受験勉強が明けてほっとしていたところ。それなのに、もう大学受験を見据えて努力しなければいけないの?

 努力、努力、努力。息つく間も与えずに。

 受験の成功を喜んで、しばらくのんびりしてはいけないの? 一瞬たりとも休まずに、常に先のことを見据えて行動しなければ駄目?

 頭の中で、お母さんが「その通りよ」と言った。

 だって、それが幸せになるために必要なことだから。休んだり、のんびり過ごしたりするのは幸せになってからやればいい。良い大学に入ってない、良い会社に入っていない私は幸せの途中だ。不幸と失敗の危険と隣り合わせだ。気を抜いたらすぐに転落する。だから意地でもしがみついて、幸せのために努力し続けなくちゃ。

 先生は正しい。お母さんは正しい。いつだって間違えているのは私の方だ。

 だから頑張らなきゃ。もっと勉強しなきゃ。部活をやっている暇なんてない。寄り道なんてしない。

すべては幸せになるために。

 

 そうやって自分を納得させたはずなのに、勉強に身が入らない。

 

「何なの!? この点数は」

 夜の家。お母さんの怒声に私は身を縮める。食卓に叩きつけられたのは、赤点ぎりぎりの点数が書かれた答案だった。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 テスト中に急に頭が真っ白になって、何も書けなくなって……。今度こそ、満点を目指そうと思っていたのに。本当なの。

 あの時の状況を説明しようとして、喉の奥で言葉が紡がれる。

 最近、成績が落ちてきているのは自覚していた。だからこそますます必死になって勉強し、次のテストこそは挽回しようと張りつめていたのだ。それなのに。

 先生の合図でテストが始まる。みんなが一斉に問題用紙を開き、答案に名前を書いていく音。紙と鉛筆の摩擦音。重なって重なって……。

「それまで!」

 先生の声で体が跳ねる。気がついたら、終了時間になっていた。

 一体、何が起こったの? 自分の机を見下ろすと、そこにはほとんど真っ白な答案用紙。教室の時計を見上げると、きちんとテスト時間のぶんだけ針が進んでいる。

 深い絶望が私を包んだ。

 もうどうすることもできない。思う間に答案は回収されて先生の手に渡っていく。やり直しはできない。

 私は知らない間に寝てしまったのだろうか? それも判然としないくらい、記憶がない。先生からは、テスト中もその後も何も言われない。テスト中、私は何をしてたんですか……。尋ねる勇気もなかった。

お母さんに説明しようとして、私は言葉を呑み込む。言い訳がましいと、また怒られる未来しか見えなかった。実際、きっとそれは言い訳。私が悪いだけなんだ。

「本当にごめんなさ……」

「謝る暇があるなら復習しなさい。こんな点数じゃ上を狙えないわよ。あなたは良い大学に行かなきゃいけないんだから」

 そう言って、有名な大学の名前を二、三挙げる。どれも有名企業への就職率が高いと言われているのだと、お母さんが前に言っていた。

「でも、国公立にしてね。私立はお金がかかりすぎるわ。これ以上の出費は負担だから」

「はい……」

 うなだれて、震える腕を無理に動かしてノートを広げる。復習しなきゃ。やる気があるところを見せなきゃ。また怒られる前に。これ以上お母さんを失望させちゃ駄目だ。もっと、もっと頑張らなきゃ。

 

 進路希望調査が配られたのは、二年生のはじめごろだった。

 大きくとられた志望校欄を見て、指先が震える。二度目の受験が確実に近づいてくる。私は椅子に縛りつけられて、その重圧から逃れられない。

 鉛筆を走らせる音に気づいて目を上げた。

 三列先に座る子が、迷いのないペン先で進路希望調査を埋めていく。その目が前向きな将来の展望に輝いているように思えて、私は見てはいけないものを見た気分になった。

 でもどうしてそう感じるのか、分からない。

 自分の進路希望調査に目を戻す。第一希望から第三希望まで。これを提出期限までに埋めなきゃいけない。

 勉強の時間を少しだけ減らして、大学について調べる必要性が出てきた。

 進路室に行って、各大学の情報がまとまった分厚い本を開く。第一希望の欄には、迷わずお母さんが勧める大学を書いた。次は学部を決めなければ。

 学部……。ペンが止まる。

 そこは総合大学と呼ばれる大学で、学部と学科が数えきれないほどあった。文系で絞ろうとしても、まだ多い。じゃあ、就職率が高いのはどこ?

 ページをめくるたび、魅力的なカリキュラムの説明と写真が目に飛びこんでくる。少人数でのディベート、企業とのコラボ、インターン。数えきれないほどある部活とサークルに、学食の人気メニューはカフェにも引けを取らない。

すごい。大学って、こんなに楽しそうなところなんだ!

 いや、違う。私は就職率を見たいのに。

 大学なんて「良い」会社への通過点でしかない。大学の楽しみなんて放っておいて、とにかく「良い」会社に入れそうなところを選びなさい。お母さんならきっとそう言うだろう。

 分かっているのに、魅力的な大学生活から目が離せない。

 こんなに楽しそうな毎日を、「ただの通過点」として軽視するのがもったいない。

 思えば高校生活だって――中学校だって、小学校だって。

「将来の幸せの役に立たない」と言って、諦めてきた無数のことが急に呼び戻された。断ったすべての遊びの誘い、やってみたいと思ったすべての習い事、遊んでみたいと思ったすべてのゲーム。

 先のことを見据えるのは、あの時から大事だったとは思う。でもすべてのことを「将来のため、未来の『幸せ』のため」の通過点のように見ると、すべてが取るに足らない出来事に思えてくる。今そのものを楽しめなくなる。楽しめなかった。

 私は、もっと楽しみたかったのに……。

「わ、若宮さん! どうした!」

 進路室の先生が驚いたように名前を呼ぶ。切迫した口調に私の方がびっくりした。

 おろおろと近づいてきた先生は、ポケットから取り出したよれよれのポケットティッシュをわたしに差し出す。塾の宣伝が入ったやつだった。

「そんなに泣いて、どうしたね。まずは涙を拭いて。ほら、これ使って」

「あっ……ごめんなさい」

 私が、泣いてる? 言われて頬に手を触れると、指先が確かに濡れる。言われるままポケットティッシュを受けとった。

 詳しく話を聞いてくれようとする先生を「大丈夫ですから」を繰り返して振り切り、ふらつく足で自転車を押しながら帰る。家に帰らなきゃいけないけど、帰りたくなかった。少しでも到着時間を遅らせたくて、できるだけのろのろ歩く。

寄り道する場所のあても、一緒に帰る友達も私にはない。今まで「無駄なもの」として切り捨てて、誰とも深くかかわろうとしなかったからだ。

 効率的な、ひとりぼっちの私。自分がこんなに惨めに思えたのは初めてだった。

 夏に向かおうとする、生ぬるく湿った風がやわらかい。まだ制服は長袖なのに、全身がひどく寒かった。

 頭の中は同じことでいっぱいだ。

 私は今まで、目の前にあった楽しみを全部取り逃してしまった。未来のために現在を捨てて、ここまで頑張ってきてしまった。失ったもの、取り戻せないものが痛い。思い出すたびに悲しい。あの時、もっと楽しんでいれば良かった。「やりたい」って言えていたら良かったのに。

 同時に私は自分のことを非難する。自転車に乗らずに帰るなんて非効率的だ。今日は大学のことを調べるために四十分も無駄にしてしまった。早く帰って勉強しないと、またお母さんに怒られる。これは明らかな裏切りだ。お母さんの愛情への裏切り。

 惨めな私。駄目な私。私には良いところなんてひとつもない。

 

 放課後進路室に通って、いきたい学部を探すことにした。

 お母さんは私がすぐ帰ってこないことに眉をひそめたけれど、「もっと就職率の良いところがないか、一応探している」と言い訳をして納得してもらった。

 またひとつ、罪悪が積み重なる。お母さんに隠さなければならない調べものが、良いことなはずがない。どうして私は素直に、お母さんが勧める大学を書けないんだろう。大事なのは大学の名前で、学部じゃない。そう考えて、適当に埋めることだってできるのに……。思いつく盲信を、実行に移せない。

 せめて、大学だけはお母さんの勧めに従わないと。そうじゃないと申し訳ない。問題は学部だ。どれを選ぼうか。どれがいちばん楽しそうか……。

 見ているうちに、手元でページだけが進んでいく。私が二度目の衝撃に打ちのめされるために、資料を最後まで読み切る必要さえなかった。

 やりたいことが、見つからなかった。

 いろんな学部の様子を見て、「楽しそうだな」とは思う。けれど、それで終わりだ。ただの傍観者。自分がその中に入って主体的に活動する姿が、どうやっても浮かんでこない。私のやりたいことはすべて、過去に置き去りにされていた。

 昔のことを思い出そうとすれば、あの時やりたかったことが浮かんでくる。けれど、それはどこまでいっても「あの時やりたかったこと」だ。今じゃない。

 私は「今」やりたいことを必要としているのだ。

 今の私は、なにが好き? 趣味は? 将来何になりたい? 休みの日にしていることは何だろう?

 何も浮かんでこなかった。

 しいて言えば勉強だが、それは好きでやっているというより、私の義務だ。前は勉強しただけ点数が上がって面白かったけれど、最近は点数も成績も伸び悩んでいて、机に向かわなければと考えると喉が詰まったようになる。

 資料を閉じて、深いため息をついた。呼気と一緒に最後の意地も体の外に出てしまったかのよう。

 結論づけるしかない。

 私は空っぽになってしまったのだ。

 私は矛盾を抱えている。その上、相反する気持ちのどちらにも振り切れない。どうしたら良いか、分からない。やるべきことは分かるのに、体が動かない。

 きっとそれは、私が空っぽだからだ。

 こんなにお母さんの言いつけに背いている。勉強から逃げている。「幸せ」を追いかけることから逃げている。これは失敗へ転落する前触れだ。お母さんにばれたらなんと言われるだろう? きっと私には言い返す言葉の持ち合わせもないだろうに、ただ心の中では「幸せを追いかけるだけなんてつまらない」と思ってしまう。お母さんはきっと私のこの考えにも怒るだろう。背いていることは私がいちばん分かっているのだから……。

 お母さんを悲しませたくない。期待に応えて喜ばせたい。空っぽになってしまった私を知って、泣き崩れるお母さんが目に浮かぶようだ。お母さんはむせび泣いて、私を罵り、「このままでは不幸になる」と脅すだろう。その通りだ。きっと全部正しい。私は道を踏み外そうとしている。けれど危機感を覚えられない。

 私はおかしい。

 お母さんは私を見放すに違いない。もう同じ家に住まわせてくれないかもしれない。勉強以外に能のない私は、その後どうやって生きていける? 惨めに死ぬ未来しか――。

 思いつきがひどく自然で、正しいことのように見えた。

 私はずっと前から、この答えを見つけようとしていたんじゃないだろうか。

 そう、私は死んだ方がいいんだ。

 

 それはいつも頭の片隅にある。でも普段はほとんど気づかないでいられる。日常の中にはやるべきことが多すぎて、それにかかずらっていられるからだ。

「死」は、気づかれる時を静かに待っているのかもしれない。だから一度気がつくと、その存在を無視できなくなる。

目を逸らせなくなる。

 私に残されていた選択肢は二つだけに見えた。このまま苦しい思いを抱えて生きるか――終わりにするか。苦しい思いを抱え続けても、結局行き着く先は死だ。今か、もう少し後かの違いしかない。苦しむ時間の長さが違うだけ。

 だったら今終わっても。これ以上苦しまなくてもいいよね。

 だって、きっと誰も悲しまない。私は空っぽな人間になってしまった。世界には私よりずっと勉強ができて、ずっとお母さんを喜ばせることができて、ずっと魅力的な人間がたくさんいる。私などあまりにも取るに足りなくて、今まで関わった人たちみんなに申し訳ない。もし私の立ち位置にまったく別の人がいたら、もっと「幸せ」になれていたかもしれないのに。

 私が私で、ごめんなさい。

 

進路希望調査の提出期限が迫っていた。

 高く昇っていた太陽はすでに傾き、かげっていく最後の光で教室を斜めに照らしだしている。私は一人席に座り、暮れていく景色を眺めていた。

 綺麗に拭きあげられた黒板、夕陽を受けてオレンジ色を放つ机、長く伸びる影。

開け放たれた窓から吹きこんだ風が、白いカーテンを揺らして通りすぎた。窓の外から部活の賑わった声が上ってくる。

 静かな、本当に静かな日だった。私も静かだった。私は何も考えることなく、目に入るもの一切を――教室にある、ありとあらゆるもの、聞こえてくるすべての音を――一つひとつ味わうように意識していく。記憶にとどめるつもりはなかった。ただ世界を私の五感を通して流していた。それが自分に関わるものだと思えなかった。

 机の上には、進路希望調査と鉛筆。書いては消し、書いては消しを繰り返したせいで、紙はすっかりぼろぼろになっている。結局最後まで空欄を埋めきれなくて、中途半端に埋まっているのもやるせなくて、私は真っ白な紙を遺して逝くことにした。

 これが、私が空虚であることの証明だ。

 目を背けるように席を立った。

 掃出し窓を開けてベランダに出る。校舎の三階は、見晴らしも風通しもよかった。吹いてきた風が私の長い髪をいて通りすぎる。

 優しい風だった。

 柵に手をかけた。初秋の風に冷やされて、ぬるくも冷たくもない。沈んでいく夕陽が抜けるような空を洗っていた。目を細めると、視界に入るのは太陽の光だけになる。夕陽が光を強くして、世界を覆い尽くして消してしまう――ありもしない錯覚にとらわれた。

実際に消えるのは、私だけだ。

それとも私が消えたら、私が知覚している世界も一緒に消えるのだろうか。

 もう、どっちでもいい。

 柵に両手をかける。力を込めて飛び上がる。両足は驚くほど軽くベランダを離れた。まるで小学校のころやった鉄棒。

重力にひきずられ、私の体が柵を越えて支えを失う。

あ、終わるんだ。やっと自由になれる。

 全身を風が通り抜ける。夕陽の赤いまぶしさがまぶたの裏に残った。

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