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「スピリチュアルカウンセラー」という危ういお仕事

※この記事は私の個人的な考えを記したものであり、特定の個人、団体を批判するものではありません。

国家資格ではないスピ関連の資格たち

スピリチュアル界隈には、いろいろな方法論があり、いろいろな資格があります。

スピリチュアルカウンセラーを生業にしている人たちの多くは何らかの講座を受講して資格を取っているか、生まれつきの霊能力を活かしているかのどちらかではないでしょうか。

でもそれらの資格は、国家資格というわけではなく。

中には1日~3日程度の講座を受ければ取れるものも存在しています。

……でも、それってちょっと危うくない? と感じるのです。

「人の人生を左右する仕事」

「人の相談を聞くというのは、その人の一生を左右する仕事だよ」と語った、尊敬するスピリチュアルカウンセラーさんがいます。

それを聞いた当初は漠然と「そういうものなのかな」としか思っていませんでした。

教師には子どもを教えるという責任が、消防士には人を救うという責任があるように、「人の人生を左右する」ことが、スピリチュアルカウンセラーの責任なのかな、と。

しかし『トラウマによる解離からの回復』という本を読む中で、彼女の語った言葉の意味を理解することになったのです。

この本は幼少期に受けたトラウマの影響で苦しむ人たちを扱っており、著者のジェニーナ・フィッシャーさんは精神保健医療センターのような施設で働く、トラウマ療法の専門家です。

本文中で紹介されている療法には科学的な裏付けと現在進行形の研究があり、詳しく調べようとすると「より詳しい情報は○○の学会に所属している人のみ」のような文言が出てくる理論もありました。

つまり何が言いたいかというと、長い年月をかけて勉強・研究し、技術を磨いたカウンセラーだということです。

この本はトラウマ当事者が自力で役立てられるように、同時にトラウマケアに携わるカウンセラーへの手引書として書かれています。

掲載されている実例には、カウンセラーの反応ひとつで患者が「転落」していきそうな、ぎりぎりの場面が多々登場します。

実例の中では反応を誤らなかったから、患者が回復に向かったけれど……。

もし、ここでセラピストが反応を誤っていたら。

もし、ここでセラピストが感情的に揺さぶられてしまっていたら。

患者の傷と悲しみと解離はいっそうひどくなり、自傷・多量服薬の増加や、取り返しのつかない自殺にまでたどり着いてしまったかもしれないのです。

実際、実例の中にも、他のところでセラピーが上手くいかなかったから、ジェニーナさんのところへ来た、という人が紹介されていたりしました。

「自分で無理だと感じたら、受診を薦めなさい」

ドリーン・バーチューさんの著書『エンジェルセラピーハンドブック』には、スピリチュアルセラピストは医療の専門家ではないから、自分の手には負えないと思ったら自力で相手をなんとかしようとしないで、病院に行くことを薦めなさい、のような記述がありました。

確かに、それも大事なことです。

本の中では「エゴに憑りつかれて、なんでも自分で解決しようとしないように」的なニュアンスで書かれていた記憶があります。(本が手元にないので、間違っていたらごめんなさい)

確かに、それはその通り。

分からないことを「分かる」と言って繕ったり、過度な背伸びをすることが、取り返しのつかない結果を招くこともあるでしょう。

でも、本当にそれだけを心得ていれば良いのでしょうか。

自分の手に負えないクライアントがやってきて、「それは分からないので、病院へ行ってください」とセッションを終わらせる。

セラピスト側は「背伸びをしなかった」ということで満足かもしれないけれど、クライアントは?

受診を薦める伝え方や、それまでのやり取り如何によっては「拒絶された」「やっぱり誰にも分かってもらえない」と孤独や心の傷を深めて、ますます内に閉じこもってしまう可能性もあるのではないでしょうか……。

人の相談を聞くことがカウンセラーの癒しになる?

もうひとつ心配なのが、「悩みの只中にいる人も、誰かの相談を聞いてあげられてしまう」というスピリチュアルカウンセラーの関係。

正直、スピリチュアル界隈への入口は広くていいし、「誰かの役に立ちたい」気持ちもあって良いと思うのです。

問題なのは、それをすぐお仕事にしようとする人がいること。

「すごく癒された! 私もこの癒しを広げたい!」

ポジティブで素敵な動機だと思います。

しかし、「精神的成長は螺旋階段」という言い回しがあるように、問題がひとつ解決したように見えても、実際は表面をさらって少しすっきりしただけ、ということがままあります。

私は幼少期のトラウマ、お金、仕事、人間関係……の問題を、かれこれ4~5年間うろうろしています。

「解決した!」と思っていても、しばらくすると見えていなかった深みの問題が見えてきて、また同じジャンルのことで悩んでいるのです。

「またこの問題か……」とは思いつつ、戻っている感じはありません。

でも、「未解決の問題を抱えている」という点では状況は変わらないのかも。

そうやって自分の問題で忙しくしている人が、他人の悩み事まで受け入れて解決のアシストができるのかどうか……?

人の話を聞くことはできても、本当に効果的なアプローチができているのか?

クライアントの傷を深めることを言ってはいないか。

どのような形であろうが、仕事としてお金をもらい「個人セッション」をするのなら、そこには「人の一生を左右する可能性がある」という責任がつきまといます。

楽しいから、助けたいからと気軽な気持ちで始めたことが、クライアントを傷つけて、もし結果的にクライアントが自殺してしまったら……?

国家資格を持っているわけでも、免許があるわけでもない。

何年もかけて研究しているわけでもない、短期間で資格を取っただけの人に、人の命の責任と重みがのしかかるかもしれない。

そこに思い至って初めて、彼女の責任感と言葉がどれほど重みのあることだったかを本当に思い知ったのでした。

ささやかな個人的体験

実は私もスピリチュアルカウンセラーの人から、悲しい言葉を投げかけられたことが3回ほどあります。

相手は資格を持ち、きちんとお金もいただく形で個人セッションをしているような方だったので、まさか相談内容にあんなことを言われるとは……。

相手の何気ない一言でパーツたちが暴走し、自己批判が止まらなくなって心が殺されました。

自分にはこれ以上生きている価値がない、いるだけで迷惑だ、良いところなんてひとつもない。相手の言っていることの方が常識的で正しいんだから。

脳内の声までもが相手の味方をしてしまい、一方的に責められるような構図になってしまったのです。

あの日はその場にパートナーがいたからなんとか慰めて落ち着かせてもらったけれど、もし帰り道ひとりだったら翌日冷たくなって発見されていたことでしょう。家に帰りつけなかったかもしれません。

以来、若干のスピリチュアルカウンセラー腐心に陥ってはや3年。

ようやくフラッシュバックにも悩まされなくなって、少しずつ信頼できる人に悩みを打ち明けられるようになってきました。

言葉は人を傷つけるし、なんなら死へ駆り立てもします。

気軽な気持ちで、手軽に有料の個人セッションを提供できる現代は、便利なのか危険なのか……。

人は、人の話の聞き方を知らない

カウンセリング手法のひとつに「傾聴」があります。

なぜ、わざわざ「傾聴」というスキルが生まれて名前までつけられているのか?

元来、人は人の話をそんなに聞いていないからです。

「人の話を聞く」よりも「自分の話をする」方がドーパミンが出て楽しくなれるようで、つまり人は話す方が好き。だからこそわざわざ「人の話を聞く」ための技術が生まれるわけですね。

人は人の話を聞いているようでいて、実は自分の体験をなぞって他のことを考えていたり、相手の話を少し違う方向に受け取ったりしています。

クライアントの話をそのまま聞いて、そのまま受け止めること、さらに進んで回復へとアシストすることには、学んで身に着ける種類の技術がいるのです。

「制服効果」という言葉もあるように、人は服装や資格から、相手を「専門的な人だ」と判断します。

短期間で資格を取ったカウンセラーも、大学や大学院で学んで臨床経験のあるカウンセラーも、「資格を持っている」という理由で同等に専門的だと見なされてしまう/見なしてしまうことがあります。

それはクライアントの心理的に大丈夫な判断なのか。

カウンセラー側はそこまでの責任を持てるのか。

簡単に肩書が手に入るからこそ、「大丈夫?」と首をかしげたくなってしまうのです。

補足:資格を持たない人をどう説明するのか

本題としては「資格あるけど、責任感大丈夫?」ですが、では資格のない人はどう説明するのや、と言われたら。

スピリチュアル界隈では、個人セッションをするにあたって資格の有無は必須要項ではありません。

生まれつき開いた霊能力を持っている人は、能力開発講座に通わなくてもすでに開いているのですから。

そういう人が新しい資格を作って名乗ったり、あるいはあえて肩書をつけずにセッションしている人もいます。

一概には言えませんが、彼らは彼らにしかない資源を持っていると感じます。

それは「霊的視力」とでも呼ぶべきものです。

とくに生まれつき霊能力が強い人は、幼少期から人の本質を見抜き、人の「汚い」心の部分すら見透かしてしまうことがあるといいます。

力の調整方法が分からないし、「見える」ことが当たり前だから「見えない」ことが分からない。

だからこそ、子どもの頃は辛かったという話もよく聞きます。凄まじい体験だと思います。

一方もし成長してから個人セッションを生業にするのなら、この霊的視力は資源になり得ます。

大勢の性格や言葉の受け取り方、考えていることが「見える/分かる」ことは、あえて言うならたくさんの標本に囲まれて成長してきたようなものと言えるかもしれません。

「人によって、同じ言葉にまったく違う反応をする」「この人はこういう言い方をした方が響くな」と、人との接し方をより深いレベルで体得していくイメージ。

この資源を活かすことができれば、相手の話を相手が望むように受け取ること(あるいは意図的に受け取らないこと)、適切な助言をすることがしやすくなるのではないでしょうか。

大切なのは、責任感

要は、責任感と人間性です。

資格のある・なしでも、霊能力が生まれつきか、後から開いたかの違いではありません。

資格が簡単に取れるから、簡単な仕事というわけではないということ。

「相手を言葉によって殺すかもしれない」という重さまで背負った上でやっていけるのか、自分の覚悟を確かめること。

それなくして有償で人の相談を聞き助言することは、危ういのではないかと思っているのです。

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