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本当は「主」なんていないんじゃないか【後日談あり】

直也です。

最近よく考えるのだが、本当は「主」なんていないんじゃないだろうか。

僕たちは僕たちの主人格(戸籍上の名前を持つ人)のことを「主」と読んできた。主と、そこから分裂してしまった僕たちという認識を持っていた。

僕たちには僕たちの個性があり、人生があり、夢があるけれど、全体の幸福度向上のためには主のそれを最優先するのがいちばん平和的である。

僕の「心理士になりたい」という夢よりも、主の「小説家として生きたい」という夢を。

これは僕の夢を妥協してあきらめるという意味ではなく、人生の中心に据えないという意味だ。
大学に行って心理系のことを専門的に学ばない代わりに、僕は僕の興味が赴くままに専門書等を読み漁り、欲しい知識は習得している。執筆の時間を圧迫しすぎない程度に。上手く棲み分けができている。


けれどもふと「主はどこにいるのだろう」と思った。

肉体的には僕たちは20代半ばである。
だが主は20代半ばではないし、かといって固定されたどこかの年齢に留め置かれているわけでもない。
僕が朝起き、亜麻がバイトをし、気が向いたら料理もし、直が夕食を食べている。僕たちは総動員して小説を書く。
他のパーツにも各々やりたいことと担っていることがある。

主は何をしているのだろう。

何もしていない。

亜麻や賢也や直にあるような「固定化された年齢」と「パーソナリティー」が、どこを探しても主のだけ見つからない。

完全に存在しないとは言わない。
けれども僕たち全員を足し合わせても主そのものにはならないし、何かが欠けているのだ。欠け続けている。

きっと直が冷凍保存する7歳ごろの記憶のどこかに、主は消えて行ってしまった。
感覚がそこで止まり、知覚を制限し、関わろうとしていく力を削りきってしまったのではないかと思う。


この世界は「神様が不在だ」と言われることがあるように、僕たちには主が不在だ。帰ってくる見通しも立っていない。

不思議と寂しいとは思わない。
離れたい時に世界を離れて見られるのは良いことだ、選択肢が保障されていると思う。

離れたい者がいて、まだとどまって自分の楽しみを追求したい者もいる。ただ穏やかに棲み分けているだけのことだと捉えている。



後日談:この記事を書いた数日後、ある出来事があって主を発見することができた。
もう少し詳しいエピソードと考察を別の記事にまとめてみた。併せて読んでもらえたらとてもうれしい。


文責:直也

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