「最初の一枚」を超えるもの

 写真はそれほど興味がなく、でもスマホを持ってから、時々きれいだなあと思うものを写真に撮ることがある。

 最初の一枚はほとんど何も考えずに撮る。

 私の目には「撮りたい」と思ったものしか見えていないけど、撮った画像を見ると、周りにいろいろなものが写り込んで雰囲気を壊していたり、もうちょっとこうしたらもっと良くなるのではないかなあと思って、もう一度撮ってみたりする。

 でも、後からデータを見比べた時、やっぱりこれ!と思うのは98%くらい最初の写真。2枚目以降の写真は、なんとなく対象の勢いがなかったり、変な作為が感じられてしまうことが多い。

 この話をある人にした時、私は心のどこかで「そうだよね。少しでも不自然な作為が入ってしまうとうまくいかないんだよね。」と肯定してくれることを期待していた。

 返ってきた答えは違った。「うーん。それなら最初の一枚を超えたと思うものが撮れるまで撮ってみたら?」だった。

 えっ?と思った。日頃、「どんな瞬間も同じ瞬間はない。だから、同じことを再現しようとする「練習」は無意味」と言っている人がなぜ?と。

 でも、しばらく考えて思った。外側にある「良いもの」を再現するための練習は不要。でも変化し続けるその瞬間をいつも新しい気持ちで捕まえて、「今」を最大限に表現することには何度でもトライすべきなのだということかなと。

 既にあるものを起点にして、ここは少し直したい、次はここをこうしたらもっと良くなるという作為から自由になることは難しい。でもあがき続けて撮り続けていくうちに、無垢だからできた「作為なし」から、あがいた時間の全てを含んだ上での「作為なし」にたどり着く、それが「最初の一枚を超える」ということかもしれないな。

 超えられない絶望のまま終わることの方が多いかもしれないけれど、超えられないと諦めずにあがく日々の積み重ねが人をその人自身の未来へと連れていくのかもしれない。


 

 


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