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2021/10/07

早起きして受けた講義。
オンラインを併用すると言っていたのは、ライブストリーム配信だと思っていた。
まさかの録画。
来週からは更なる早起きが必要になるらしい。
これをコロナの前の学生たちは当然のようにやっていたと思うと、その人たちには頭が上がらない。
そして高校までの私にも頭が上がらない。
すっかり8時起床の生活に慣れてしまった私は、元の生活に戻るのに凄まじい労力を要するだろう。


今日、外側の自分と内側の自分の性格の乖離に苦しむ人の気持ちが少しわかった気がする。
アルバイトが終わった時の話。
少しの残業をこなして帰る。
友人たちと合流して、一緒に外へ。
「おつかれさまです〜」
そう言って出入り口をくぐる少し前、私は解放感から歌っていた。
「テンションがすごいね」
そう言われた。
「今日は上機嫌よ〜」
我ながらすごいテンションだったなあと思う。

前に別の友人と話していた時。
「よかった。海月でもそんな悩むことあるんだね。なんか安心した。」
そう言われた。
その時も今日も「明るくてちょっと頭のおかしい人」だった私。
外では確かにそう。
けれど誰しも二面性というものがあって。
私は外ではそういう人間として人の目に映るだろう。
内側では惑いっぱなしだったとしても。


人間みんなそんなものなんだろうか。
今まで私はそこに差があると感じたことはなかった。
いや、確かに存在はしていたはずだけれど、それに気づいていなかった。
あまり親しくない人や知り合ってから間のない人。
そういった肝胆相照らす関係でないと感じられる人と接している時はかなり明るくいるように心掛けている。
私の中にあるからめるさんの人格を自分に憑依させるイメージ。
つまり普段の人格でない自分に「私」を名乗らせて、1人でいるときの私たる「海月」は息を潜めている。
だからなのか、そういう人と会った後はすごく楽しかったはずなのに、嫌な疲れを感じる。
今日も同じように感じ、重い心をなんとか運んで帰宅した瞬間、唐突に思い当たった。
みんなが言うのはこの重さだろうか。
「ありのままの自分になろう!」というメッセージが掲げられた書籍や動画が持て囃されるのは、これを感じている人が多いからなのだろうか。

過去を振り返ってみる。
親しくなった人だけに見せる一面。
私はそれを見せた人に、かなりの割合で嫌われた。(それを見せなくても嫌われることも多かった。)
明るい人柄を買われたのに、蓋を開けてみると暗かったからか。
外面は笑っていたのに、内側はそうでもなかったからか。
羊頭狗肉ということか。

過去と今現在を比較して気がついたこと。
先程「肝胆相照らす関係でない人といる時」は明るくいると書いたけれど、今はもう「全ての人といる時」なのかも。
家族や親友といるときですら、私はもう「内側の人格」をあまり顕現させなくなったと思う。
バイト先のあの人に見せる顔が表の顔なら、全員に見せている顔が表の顔だ。
1人でいる時、日記を書いている今この時だけ現れる「海月」が私の裏、全ての物事に正直な自分、あまりにも些細なことで傷つく弱い自分、人に縋りつく幼稚な自分。
ごく僅かな親友だけがその存在を知っている。

表の顔が嫌いなわけじゃない。
裏の顔が嫌いなわけじゃない。
使い分けるのが人間として良くないとか、辛いとか言いたいわけでもない。(そもそも意図して行っているわけではない。)
ただ「海月」を知らない人が「私」を評するとき、表の顔しか見ていないために「それは私じゃない」と感じてしまう。
私だって悩む。
私だって悲しむ。
その時間はともするとみんなより多く、そしてより煩雑、あるいは単純な構造をしているかもしれない。
おしゃれに興味は人よりはないし、化粧や染髪にもかなり否定的、大人数でいることは苦手で、悪い意味で繊細な私は、確かにかなり捻くれている。
斜に構えているとか、頭がおかしいとか言われがちだけれど、私だってみんなと同じように悩む人間であって。
悩んで悩んでこういう軌跡を描いているのであって。
それは私だけの物語だけど、あまりに人間離れしたものと捉えられてしまうと寂しくなる。
人それぞれの世界は孤独だけれど、私のそれはより一層深い孤独に苛まれているような。
だから常に、自分の世界を賑やかにしたり、他の人の世界を覗こうとするのかもしれない。(ともすればそれに必死なのかも。)

にゃんたこさんのエッセイを読んで嬉しくなったり、ぼくりりの曲を聴いて戦慄したりするのは、音楽や文学で私の世界とそれ以外の世界の重なりを発見した時に、自分の孤独な世界から脱出する可能性に触れたからという仮説を思いついた。
人と心が繋がったと感じられた瞬間に抱く感動の正体は、孤独な自分の世界から脱出する可能性に触れた感動なのかもしれない。

そんな気持ちを抱えながら、表の顔は明日も笑ってお喋りして、裏の顔は明日も真顔で気持ちを綴る。
繰り返すけれど嫌いじゃない。
これが私なんだ。
私というれっきとした「人間」なんだ。
今までもこれからも、社会の中にいながらそれぞれ孤独に生きていく人間の1人なんだ。


テレビから心臓に悪い音がした。
緊急地震速報。
東京か千葉で大きな地震があった。
私の住む地域は被害が小さいところなので、いつも通りの夜が来ている。
上に書いたような正直な気持ちを吐き出す場所があるって贅沢なことなんだな。
これを読んでくださっている方が、何もお変わりないことを願います。
もちろん私が将来これを読み返しているのなら、私もお変わりないことを祈っています。

私は生まれてこのかた地震を感じたことがない。
小さい頃に震度2くらいの地震を経験したことはあるらしいが、全く記憶にない。
緊急地震速報を聞くときは揺れないか、影響がないほどに遠い場所が震源になっている。
一度私の住む街でも大きな地震が来たけれど、私はそのときバスに乗っていて、しかもノイズキャンセリングイヤホンをしていたから、降りてから他の人に聞くまで何があったかを把握していなかった。
ノイズキャンセリングを貫通してくるスマホの警告音は、変に相殺されて「イヤホンが壊れたかな?」と思っただけだった。
バスを降りるとなぜかみんな広い場所に一目散に駆けていて、私はそれを横目に通り過ぎようとしたら、友人に「何してんの?!早く!」と腕を引っ張られた。
その後ようやく地震があったことを把握し、スマホを見るとLINEに無事を知らせる通知がたくさん来ていた。

地震に縁がないというわけじゃない。
この国に住んでいる限り、地震と無縁で生きていくのは不可能に近いだろう。
私はただ避難訓練を積んでいるだけで、実際の地震が来たときは気づきもしなかった。
緊急地震速報もあまりにも関係がなさすぎて、また揺れなかった記憶があって「心臓に悪い」なんて形容で済ませてしまうようになった。
もしもの時が少し怖くなった。
明日の朝にはまた備えについてやるのかな。
その時いつもは聞き流していたニュースを、私は史上最も真剣に聴いているかもしれない。


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