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2024/07/17 It's always darkest before the dawn

 タイトルはONE OK ROCKのEye of the Stormという曲から。もう5年前になるんだね。前後の文脈からは完全に引き剥がして持ってきた。”the” darkest じゃないのかな。その辺りはしっかりチェックしているだろうから、theは無くても自然なんだろうか。
 そして明るさの話は、実際どうなんだろう。1番暗いのは日没と日の出のちょうど真ん中じゃないんだろうか。太陽からの光を地球が完全に遮るんだし。夜明け前って、曙光が差してくるからちょっと明るくないだろうか。寒いのは間違いなく夜明け前だけど。
 そしてこんなタイトルをつけることからも分かる通り、今は結構辛い時期。というか「今までもこれからも、幸せになんてなれるかよ!」という風に感じる時。ハリウッド映画とかで3〜40代の男性がこんなこと言ってそう。
 でも、大概ここに書きたいことが出てくるのはこういう時なんだよね。思いついたままに吐き出したよ。閲覧注意。

武道館があるから

 冒頭の「書きたいことが出てくる時=こういう時」というのは孤独な時のことで。
 私の人生が上手くいかない時期は、ほぼ確実に人間関係が上手くいっていない時期だと思う。ただ難しいのは、それは人間関係以外がほぼ全て上手くいっている時期にもよく重なっているということ。自分のやるべきことに集中できているから当然といえば当然だけど。

 他の全てが上手くいっていたとしても、人間というのは「人の間」と書くので、孤独に長く耐えられるようにはできていない。私も、他人にどれだけ異常と言われようが、それも想像できる範囲の異常にすぎず、結局のところ人間の域を出られない。
 日常のどうでもいいことを話す相手が、今は家族しかいない。なんでもない話をできる人が、一歩外に出ればいないのだ。そんな日常が、少しずつ心を蝕んでいる。就活中ということからも、多分今の私は精神的に危なくなりやすい。

 ずっと連絡を取っている人もいなくはない。ただ、社会人だと連絡が返ってくるのは土日のみ。東京の院生の友達はなんとなく、まだそこまでの仲にはなっていない気が(おそらく互いに)していて、いまひとつ踏み込んだ話はできない。
 というか、向こうが自分の話をしない。私が信頼されていない、ないし私に興味がないんだろうな。それが分かっていて私は、向こうが会話をやめないのを良いことに、ずっと話し続けている。これが純粋に仲良くしたいからなのか、それとも惰性や執着になりつつあるのか、会うこともなくなった今ではもう分からない。

 また、当然のことながら、あの人たちにも生活がある。今の環境に自分の居場所を作らなきゃいけない。遠いどこかで居場所を失い(既に無かったとも思えるが)、右往左往する私の相手なんて、している暇はない。
 分かっている。分かっているから、私も不器用なりに努力している。ただ、最初にして絶好の機を逃した私は、自分の周りのコミュニティが閉じていくのを、見守るしかなくなっていた。邪魔をしないように自分を保つのに精一杯。心が壊れてしまわないよう、今を必死に耐えることに精一杯。つつけば壊れてしまう心では、閉じたコミュニティの門は叩けない。そして、祈りでは重い扉は開かない。
 夢中で紡いでいたちっぽけな繋がりを捨てられないまま、新しい繋がりを育むハードルが上がるのを、指を咥えて見ていた。それでこの体たらく。何度目かの因果応報だ。自分の学習能力の無さに、呆れる他なかった。

 私は人との繋がりを手に入れると、大事にしようとしすぎるあまり、自分の方に強く手繰り寄せてしまう。そのくせ、近すぎると感じたら捨てるんだ。逆に捨てられたしても、それを嘆く資格はない。それなのに、私は今もこうして醜く喚いている。
 一度仲良くなったのに、環境が変わると嘘のように無かったことになる。そんな変化を数えきれぬほど通過して来た。人は変わるから関係性も変わる。新しいものを得るには、古いものを手放さなければならないこともある。駆け出しとはいえ、もう大人だ。そういうことも受け入れて生きていかなきゃいけない。そんなことは分かってる。分かってるけど、頭で分かるのと心が順応するのは別問題で。

 そうしてずっと考えていくと、いつしか「友達だと思っていたのは、もしかして私だけなのかもしれない」と考えてしまう。そういう意味で、私は人を信頼できなくなったんだ。だから繋がりは捨てられない。でも裏切られるのが怖くなったら一人になりたくなる。でも寂しい。そう言うんだ。
 友達の定義とかの話しじゃない。会いたい、くだらない話がしたい、相手のことをもっと知りたい。そう思っていたのは自分だけだったんじゃないか。今度もまた、そうなんじゃないか。手を差し伸べるフリをして近づいてきて、その手を掴もうとしたら合理的な判断の下、サッと引っ込められるんじゃないか。そんな怯えから、人に近づくのが怖くなった。怖くなったから、夢中で紡いでいた繋がりに固執する。それが再び輝く日が来る可能性は、ほとんど0に近いのに。

 そのくせ孤独を憂うから、私はわがままだ。人に近づくのが怖いくせに、一人になると寂しいんだ。もう全部疲れたと言いながら、自分で自分を呪っておきながら、まだ諦めきれずに様子を窺ってしまうんだ。上辺だけの関係と分かっていながら、一縷の望みに賭けてしまうし、関係を深めるチャンスと知りながら、怖くなって、面倒くさくなって投げ出してしまう。夜になると、そんな自分をどうにかしてほしいと空に願おうとする。私はわがままだ。
 そうだと分かっているからこそ、辛い。そうなんだと全部分かった上で、いや、本当はまだ何も分かっていないのかもしれないから、どこから手をつければ良いのか分からない。分かりたくないのかもしれない。人と関わらないのは、辛くて寂しいけど、楽だから。幸せが減る代わりに、ストレスも減るから。

 今にも倒れそうな足取りで歩く。自分で敷いた茨の道を、かさぶたを何度も剥がしながら、流れる血と涙を何度も拭いながら歩いている。今、かろうじで歩いていられるのは、多分その先に、7月24日に、武道館があるからだ。


マクドナルドのホスピタリティ

 疲労からか、焦燥からか、少し暗い気持ちで大学に行き講義を受ける。終わったら図書館の、毎度お馴染みのフロアで自習をして、適当なタイミングで帰る。
 昼食はこのリズムに組み込まれておらず、また勉強しているだけだからか、きちんと集中できているからか、お腹も空かない。最近はそんな生活が続いている。
 このリズムに小さな抵抗を起こしたくて、今日はお昼で切り上げた。そして昼食をとることに。最近家族で色々なもののカロリーの話をしたから、少しだけ食べるものにも気を配っている。それにも反抗したかった。

 そんなわけで、マクドナルドに行った。超ド定番では?と思うかもしれないけれど、案外チキンタツタが終わってからご無沙汰していた。


 平日の昼間、しかも微妙な時間だったからかかなり空いていて、時たますごい列ができるターミナルの店でも今日は待ち時間0。一瞬でレジへ。
 とにかくジャンクフードを食べたかったので、私はサムライマックとポテトを注文。心が辛い時にジャンクフードが食べたくなるのは、ある種の自傷行為なのかもしれない。
 そして今回感動したのはその注文の時だった。私はそこから自転車で帰る予定で、テイクアウトにした。持って帰る場面を想像すると、ドリンクがあると溢しやすいし、結露も合間って紙袋を濡らしてしまう。なので毎回、単品でハンバーガーとポテトを注文していた。
 当然店員さんからは「セットの方が安いよ?」とツッコまれる。その度に私は、ドリンクを持ち帰るのが大変な旨を伝えているんだけど、今回はそこから更に返答があった。

 「ミルクやアップルジュースは紙パックですので、溢す心配はありませんし、そちらの方がセットになるので安くなりますよ。」

 カルチャーショックだった。思わず「お〜!あ!それ良いですね!それにします!ありがとうございます!」と驚きながら口走った。店員さんは「いえいえ」と何でもなさそうに笑みを浮かべていた。
 今までの私の注文はなんだったのか。マクドナルドの良い養分となっていたばかりか、レジの人には無駄な応答を強いていた。特に誰も幸せになっていなかったのが、今日を境に一気に解決していく----。
 あのレジのおばちゃんに本当に感謝したい。そんな方法があるなんて知らなかったです。そして黙っていればお店の利益になるものを、わざわざ教えていただけるなんて。

 そのお店では他にもご高齢の方も生き生きと働いていた。私が退店する時、その方は「ありがとうございました〜」と大きな声で言っていた。
 私は今日受けた一連のホスピタリティに感動した。孤独に潰されて「社会はクソだ!!!」と言いたくなっていたところを「人間社会はまだ捨てたもんじゃないな〜」と思わせてくれた。

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