絶滅できない動物たち〜自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

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脱絶滅は、正義か

タンザニアのウズングワ山塊の奥地に、乾期も水量が落ちない滝があった。極度の電力不足に悩まされているタンザニア政府にとって、この滝は水力発電の建設プロジェクトの候補地として申し分なかった。しかし、その滝には、その滝にしか生息していないカエルがいた。

実際、当時のタンザニアでは、電力不足による弊害で、多くの子供や老人が亡くなっていたという。確かに、一種類のカエルの種を存続させるために、発電量が制限され国民に電力が行き渡らないこと、そこに倫理的な妥当性は用意できない。

「チビのカエルを探しにきたのかい?」と彼が訊いてきた。エヴェンソンは東アフリカで30年間働いていた。(中略)彼はほとんど嫌気がさしているようだった。「大勢の科学者と生物学者を飛行機で呼んで、このチビガエルを探すように金を払っているのは誰なんだ。いい加減にしてくれよ。その金を4基目のタービンに使うべきだったのに」

政策的な意思決定の検討事項に、哲学が入り込む余地はない。政治と経済のによる合理性。どの哲学も、ある点では正しく、ある点では不完全だ。

1990年代は地球温暖化汚染資本主義によって、大規模な生態系崩壊が起こると言う人々の恐怖心が募り、それに伴って環境への寄付と保全の大義への支持が広まった時代だった。すべての理論と同じように、内在的価値に反対するものは当然いる。道徳的多元主義者は、唯一の普遍的な環境倫理と言う考え方に異を唱える。ガチガチのエコロジストは、自然や野生は人間とは切り離された別の存在と言う概念に抵抗する。社会構成主義者は、自然と言う概念は文化的に相対的だと思っている。エコフェミニストは、自然と女性のどちらも虐げてきた、哲学に根強く残る家父長制を受け入れない。そして最後に、一部のものは、環境倫理学は生態系の実際の危機を解決するのには避けて通れない単純作業から隔離された象牙の塔で安穏としていると思っている。1990年代初めに、多くの哲学者が新しい陣営を形成し、それを環境プラグマティズムと名付けた。彼らは現実の世界の危機の解決に哲学に貢献することを研究の中心に据えた。(環境哲学者は「今も昔も熱帯雨林が燃えているのにもかかわらず、デカルトの亡霊[自分ほど疑ってかかり、考え抜いた人間はいないから自分が正しいと思うと言う態度]と踊り続けるのではないか」と、自分も環境プラグマティズム支持者であるブライアンノートンは心配している。)

環境プラグマティズム支持者の努力にもかかわらず、環境倫理学と応用科学がきちんと橋渡しされる事はなかったと言って差し支えないだろう。種の存続が脅かされているから手遅れになる前になんとかしなければと言うプレッシャー強い現在、政策決定作業にとって哲学の関係で邪魔な存在であり、政治や経済の現実の苦境に対処していくときの障害でしかない。

この本は、そうしたわずかな隙間に入り込もうと奮闘する研究者のドキュメンタリーと言える。

タンザニアの多くの政治家は「一体何をそんなに大騒ぎするんだ?こんなちっぽけなヒキガエルと国民に振ることができる権力とを天秤にかけようって言うのか」って言いたそうだったとサールは私に話した。「このヒキガエルが電力供給より大事だと言い張る人間は誰もいないだろう」キハンシでサールは500匹捕獲し、中に濡れたペーパータオルを入れたアルミ箔で内貼りした箱にカエルをしまい、アメリカに戻った。道中死んだのはわずか1匹だった。

最後に、前書きから引用する。

私自身、これまで絶滅の物語にずっと向き合ってきて、6度目の大絶滅という表現は、減少の一途を辿る生物の多様性の問題の規模の本質を把握するのに役に立たないと思うようになった。あまりに画一的な考え方だ。何か恐ろしいことが地球上の生物に起こっていると気づいているのに、問題の複雑さは完全に私たちの理解の範疇を超えている。大量絶滅と言う概念は、圧倒的な力で私たちを打ちのめし、罪の意識の恐怖の感情を引き出したあげく、百万人の死は悲劇ではなく統計上の数値だと言うのと同じように、無力なただの事実になり下がる。だからこれから紹介する物語では、一つ一つの現象に血肉を与えたつもりだ。その検証も、私たちの意識の端にかかっているものの、直接見て体験するチャンスはめったにない。これらの物語は、現在、生命維持装置に繋がれているごく一部の動物、すでに姿を消してしまった動物と、その動物を発見し、研究し、追跡し、捕獲し、愛し、執着して、哲学的に考察し、作り出し、復活させようとする人間の物語だ。

生物多様性が謳われて久しい。そして今後は、多様性維持の配慮が、国際NGOや金融機関の働きかけにより、さらに求められるようになるだろう。しかし、脱炭素に伴う石炭火力発電所の停止によって、結果的に人々の生命維持を脅かしかねない電力不足を招きうるという例に、生物多様性も漏れないだろう。単に「一般に善とされていること」をすることが、絶対的に良いことなのか。人新世の判断には、必ずジレンマと天秤があることを思い知らされる。


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