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ミニコラム第二回『映画「エクソシスト」を通じて‐閉塞的精神‐』

今晩は。
果肉星叙のミニコラム第二回目。

前回、物を作る過程で感じることを、『魚の摂食』に喩えながら、書きました。
本コラムを通じてこれから執筆について、書いていけたらという話も。


そして今回、第二回。

今回はオカルトの古典的名作映画『エクソシスト』を引き合いに。
(⚠以下、私の体験した心の病についての行為もある程度記述してあります。苦手な方は十分ご注意くださいね。)

むかしに患っていた心の病についての対峙を書いていこうと思います。

実のところ今でも、心療内科へは通っていて……。
傷を癒すリハビリとしても大事な場所になっています。


エクソシストを鑑賞して。

本コラムを書くにあたり、最近鑑賞した映画「エクソシスト(ディレクターズカット版)」の影響を受けたとお伝えしておきます。

私自身は、決してオカルト映画が好きでいるわけじゃないはずですが、それら作品の、醸し出す神秘的な雰囲気
人間心理の深い『目に見えない場所』の本質をとらえているような視点。
私も物作りを行う際、一番大切なものがそれら表現に隠されているようにも思います。

悪魔祓いを扱った「エクソシスト」、衝撃的なショックシーンが1973年公開当時からとても有名なこの作品。
実際、観てみると、母と子の苦悩、神父たちの苦悩、濃い人間模様が社会問題を裏に、緻密に描かれてます。
肉体的な医療面、精神的な観点での、悪魔憑きの原因も触れている今作は、『ただのオカルト映画』ではないことが、よく分かりました。

そもそも、悪魔憑きによるとされる奇行、異常行為は、精神病(統合失調症などの妄想)や、思春期によく見受けられるヒステリーから発生すると疑う描写も、今作には見られます。

どうして、このコラムを書こうと思ったのか

それは、私自身の精神的苦痛がひどかった10代後半頃にかけて、ヒステリックな精神面、酷い自傷行為や自己否定など、沢山の辛い日々を思い出したから。

悪魔に憑かれた少女リーガンにもどこか通ずるような、自己の解離、攻撃的な人格への変化、などが当時見られました。
(今でこそ、医学的な面でも自分を客観視することができるようになりましたが当時は大変でした。)
一番酷い時は、悪魔に憑かれたのではないか?と思うような行動も沢山していたと思います(汗

精神的に辛かったことを乗り越え、今この作品「エクソシスト」から感じ取ったことは。
自分との統合。

自分と繋がり、他人と繋がり、生きてゆく大切さ。

悪魔憑きと閉塞的精神

作中、悪魔に憑依された少女リーガンは心をだれにも開けられないまま、閉塞的精神の中にただ取り残され、そのさまは本当に現代の問題にそのまま反映されているように映りました!

『孤立』

その二文字の問題が、悪魔憑きという現象から、他者との断絶の闇として描かれているように映ったからです。

私この『孤立』問題を、ずっと懸念してきています。蔓延る気薄なコミュニケーション、それはまぎれもなく、この作品で語られる『閉塞的精神』に描かれていると私は思うのです。

癒しの風

最後に、明るい言葉で締めたいと思います。

精神的な病を乗り越えてきた私が、自分を復帰させる第一の行動として、考えたのは

【大自然広がる公園に行く】というものでした。

人々や、自然の中で、自分を解放する。
自分以外の他者と繋がる実感を得る。

これが現代社会に今つよく求められると思います。

古典的名作「エクソシスト」を通じ、そんな振り返り、学びをここに残しておきます。

少しでも、何か感じるものがあれば幸いです。

この作品に関する気づきやシェアは、コラム第三回にとっておきます。
それでは☆

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