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幸運 (掌編+短歌13首)

  幸運   丸田洋渡


 病室を抜けると、大人は立ち止まって、重要なことを何か言いたげにこちらを見た。大人はしゃがんで、私の髪を撫でる。そして、大人の言語が子どもに決して伝わらないことを確信して、「病死で良かった」と呟いた。私を通して死人と連絡しているようで不快だった。
 車に乗ってどこかへ移動する。大人は、舌打ちをしてカーステレオの音を切った。音楽は、思い出の消化にはふさわしくなかった。無音になった車内で、また、私に聞こえるように、「運が良かった」と言った。
 その車がどこに行き着いたのか、さっぱり覚えていない。 

 運。
 彼はこたつの中であぐらをかいて、ポテトチップスを食べながらテレビを見ている。テレビがニュースに変わり、リモコンに手を伸ばすが、チャンネルを変えるのに間に合わず、速報が目に入る。通り魔殺人。ナイフと玄能を持って目に入った歩道の人間を見境なく襲撃。七人が重傷。既に犯人は捕まっている。
 彼はチャンネルを変えて、画面はバラエティ番組に切り替わる。漫才師の名前が呼ばれて、二人がステージの後ろから出てくるところで、ピロリンピロリンという軽快な音とともに画面上部に白い文字が出てくる。速報、通り魔殺人。七人が重傷。既に犯人は捕まっており、供述によると「誰でも良かった」。詳しい犯行動機を調査中。
 彼は再びチャンネルを変えて、ヴァイオリン奏者がチェロについて語っている映像を見る。そしてようやく口を開いて、「運が悪かったなあ」と呟く。 

通り魔はきみを選んだ そこにいるきみが良かった スロット777 

 一連の動作を見ていた私は、視線を時計に向けて、もう昼になっていることを確認して、料理を作ろうかと思う。
 運が悪かった。
 立ち上がって冷蔵庫を開けたとき、彼は隣まで来ていた。作ろうか、と言ってきた。じゃあお願いしていいですか、と場所を譲る。頭を掻きながら何かを準備しようとしている。私は席が空いたこたつに入ろうと、こたつの方へ歩こうとした。
 運が悪かった。
 彼の言葉が彼の音声ではなく、違う誰かの声で発音されて、頭のなかで響いた。鐘。鐘が突かれたあとの長い残響のように、ずっと頭に変な音声が流れている。
 どうかしたの、と彼が後ろから言う。 

明日あなたが誰かに殺されても誰かを殺しても開いているコンビニ 

 私は、私の口を動かして、違う声で喋りだしてしまいそうになる。でも、不思議と抑えようとは思わなかった。
 さっき、何て言った。通り魔のニュースに対して。
 彼は首を傾げながら、「ああそれなら、」運が悪かった、って言ったかな。
 彼ではない声が頭に響く。
 運が悪くて、殺された。残りの私たちは、運が良かったから、殺されなかった。殺された人も、運が良かったら、殺されることなんてなかった。そういうことなんでしょうか。
 彼は、そういうことでしょ、と言う。「運の連続でしかないと、思うよ、人生は。僕だって、家の外に出てしまえば、車が突っ込んできて事故に遭って死ぬかもしれない。通り魔が駆け込んでくるかもしれない。家の中に居たって、隕石が落ちてくるかもしれないし、地震が来るかもしれない。そういう、数パーセントのハズレを、上手く避けて、当たりを引き続けてるだけ、なんじゃないかな。」
 彼は人の不機嫌を察すると、焦ってフォローに回って饒舌になる。不機嫌だと思われているのだろうが、別に機嫌は悪くなっていないし、そういう問題では無かった。彼は続けて言う。
「だから、大人なんて凄いよね。80年生きたとしたら、80年間あらゆる死の可能性から逃げ続けて、当たりを引き続けたんだ。運がない運がないって言うけど、人は生きているだけで幸運だ、と思う。だから、そう考えると、こうやって通り魔に狙われてしまった人は運が悪かったとしか言いようがないよ。一本隣の歩道を歩いていたら死ぬことも無かったわけだから」 

死に方は無限に用意されている ビル風の向こうの避雷針 

 私はこたつの中に膝まで入れて、テレビを見た。オーケストラが息のあった演奏をしている。息が合っているな、と思った瞬間、メインのメロディを吹いていたトランペットが明らかにミスをして、不自然な高い音が鳴った。音楽に詳しくない自分でも、これは致命的なミスだろうと思った。これが終わったあと、トランペット奏者は責められることになるのだろうか。気を遣って、逆に誰も責めないだろうか。かえってトランペット奏者は責められたい、罵倒されて自分のミスの責任を痛感したい、と思うだろうか。
 運が悪かった。
 確かに、彼の言うことは分かる。考えれば考えるほど死の気配が充満している日々の中で、生を選び続けていることは、幸運そのものだろう。
 でも、何かが引っかかっている。
 運で、人は死ぬ、んでしょうか……。
「運で、人は死ぬ、でしょ」彼は野菜をまな板の上に載せながら言う。生死に対してはそれくらいドライな方がいいのかもしれない。 

殺されるなら派手がいい割くときの勢いで散るポテトチップス

 こたつの中で横になりながら、眠りそうになる。彼が野菜を切る音がする。
 夢を見ているような見ていないような曖昧な心地で、かつての大人の言葉を思い出す。そういえば、似たようなことをあのとき大人が言っていた。病死で死んでいったことを運が良いと言っていた。 そういえばそうだった。
 すぐに目を開いて、彼の方を見る。野菜を切っている。
 運が良くて病死。運が悪くてそれ以外の死。
 死に、差なんてない。と思うものの、溺死はしたくなかったり、銃で一発ならいいかと思ったり、自分の中で直感的に好ましい死と嫌な死がある。そういう意味だろうか。
 少しでも愛している人には、自分が好ましく思っている死に方で死んでもらいたいと思うものだろうか。他人のミスで殺されるよりは、ゆっくり衰弱死してほしいものだろうか。
 彼の方を見つめて、彼がこちらの視線に気づいた時に話しかける。もし、私が近々死ぬとすれば、どういう死に方であれば納得しますか?
 彼は、まだその系統の話をするのかと一瞬嫌な顔をしたが、跳ね除けるよりも付き合って考えてあげた方が得策だろうと考えて、露骨にうーんと悩み始めた。
 そして、「人に殺されるのだけは嫌かな。恨む必要が生まれるから」と言い、切った野菜をフライパンに入れた。

見たことも無い人のこと愛そうとしていたり殺そうとしている 

 ちなみに、私が死んだとして。それも通り魔によって。それでも、運が悪かった、と表現しますか?
 彼は、出来上がった料理を皿に入れてこたつまで運んで、箸を取るためにもう一往復してようやく座ったところだったから、もういいよその話は、と適当に言った。私はこの話は重要だと思ったものの、重要な話はいっぺんにしてしまうものでもないか、と思って、大人しく料理を食べた。美味しい焼きそばだった。昨日の残りの少しの豚バラ肉を入れていて、キャベツと麺の下に小さい欠片が隠れていた。それを箸で掬ったとき、ラッキーだと感じたが、豚からすれば、真逆だろう。
 誰かの運がいいとき、関係の無い誰かの運に影響していないか。私はその可能性に気づいてうっすら鳥肌が立った。その豚肉の欠片は美味しかった。美味しかったことが、さらにその発想を恐怖へと傾けた。

探しても受験番号は無かった他人の受験番号はあった 

 食後、皿を洗って、着替えて、私は外に出ようとした。彼にコンビニに行くと伝えたら、僕も行こうかと言う。やわらかく断って、買ってきて欲しいものだけを聞いて、一人で外に出た。 

雪のなか息かがやかせ会いにいくビニールハウスで死んでいる栗鼠 

 栗鼠の死体は今日もそこにあった。公園。雪が数センチ積もっているが、栗鼠を覆いきるまではいかなかった。今日の私は死に敏感で、過剰にこの栗鼠に共感しようとしている。死に共感するという心の動きは、生きている者として危険なものかもしれない。 

生きている前提でする約束の時間に友だちは来なかった 

 仲のいい友だちに咄嗟に連絡して、今から会えるか聞くと、直ぐに返事が来て、行くねと言ってくれた。ただ、待ち合わせ時間を過ぎても来ない。急だったから少しは遅れるだろうと予想しているが、もしかすると死んでいるのかもしれない。もし今死んでいるとして、彼女が今どこにいて、どうやって死んだのか、私には分からない。逆も同じで、今私が死んだとしても、誰にも伝わらない。彼は変わらずこたつでうたた寝しているだろうし、彼女は知らずに電車に乗ってこちらに向かってくるだろう。
 運が良かった。
 私の心のなかには、あまり良くない思いが去来している。彼は、生きていることは運が良い、死ぬことは運が悪いと表現したが、もしかして逆の場合もあるんじゃないか。生きていることが苦痛で、上手く死ぬことが出来たら運が良い。死にたいと思ったとしても、生に固執してしまう心のせいで死ねない、死ねずに生き続けていることが運の悪さそのものだ、と考えることも出来るのではないか。 

最後にはゾンビが勝つと信じてる生にしがみつくとはこのこと 

 生きていること。死ぬこと。死なないで生きていること。生きることをやめて死ぬこと。果たしてどれが運が良くて運が悪いのか、私にはもう分からなくなっていた。
 考えながら歩いていたら、彼女と待ち合わせしていた場所から随分歩いてしまっていて、連絡しようとスマートフォンを開いたら、「今日はやっぱりごめん!」と彼女からメッセージが入っていた。こちらこそごめん、と返して、近くの駅に寄って電車で帰る。

死ぬよりも先に死を納得したい 電車は遅延して動きだす 

 何故か心身が疲労してしまって、私は雪崩のように部屋の中に入って滑り込んだ。彼はそんな私を見て、「何を思っているの」と訊ねる。そこで私は、何かを思っているような表情をしていることを知る。
 もし、私が生きることを苦しいことだと思っていて、殺して欲しいと願っているとします。そこで、あなたに依頼して、銃で私を撃ってくださいと言ったら、撃ってくれますか?
 今度は、彼は嫌な顔は一切見せず、本当に考え込んだ。
「まず、僕はあなたに死んで欲しくないと思っている。だからこの時点では撃ちたくない。そして、あなたが、僕のその感情を上回るくらいに、死にたくて僕に殺して欲しい場合は、やるしかないだろうなと思う。自分以外の誰かに殺させるわけにはいかないし。それに、撃ってあなたが死んだ後、僕は殺人罪を負うことになる。それを引き受けるのはちょっと厳しいなと思う。彼氏の未来の苦しみを引き換えにしてでも自分が楽になることを選ぶ、と本当に決心したなら、僕は潔く手伝うよ」
 私は不用意な質問をしたなと反省する。そう言われてしまっては、彼に殺してもらうことも、選択肢の中に入ってしまう。
 窓からの異常に明るい日差しに埋もれるように、彼は眠りへと落ちた。既に死んでしまっているような柔らかい表情をしている。
 私は、ランダムに広がる文字と音声を脳内で繋げて、「ごめんなさい」と発声した。たまたま意味のある文字列になって、私はとても運が良いと思った。
 

善は悪は引き返せない場所のこと  ダーティ・ダイアモンド・ダスト 

○ 

ラッキーなあなたは人に殺される。もしくは生き残る。その連続。
葉桜へ光の賽が投げ込まれわたしは運でベンチに座った 


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歌初出
〈ラッキーな〉:note「Whisper/Wistaria」2021年11月
〈葉桜へ〉:ネットプリント「第三滑走路」11号、2021年6月
その他書き下ろし

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