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三日間の脳内のまとめ(日記)

 脳内。

 ○

 他の人はどうなんだろう、とよく思う。
 お風呂に入っているとき、歌は歌うものだろうか。歌うとして、それは歌詞まではっきり歌うのか、メロディーだけとった鼻歌なのか。他の人が普段どうしているかというのを、あまりよく知らない。ちなみに僕は歌わない。
 布団に入って寝付くまでの間、何かを考えるものだろうか。こてん、と速攻で眠ってしまうのがふつうだろうか。僕は、眠ろうとして意識をシャットアウトする、があまり得意ではない。どうやっても頭が冴え続けていて、自分(心)が止めようとしても、止まろうとしても、頭は高速で色んな映像を送り続け、思考し続けている。だから諦めてそれに従って、ある程度その思考が飽和するところまで考える。そして、頭が遅くなってきたなと思うか思わないかの寸前で勝手に眠っている。

 これは寝る時に限らず、常に頭の中で起きている。仕事をしていても、(仕事のことを考えてはいるものの、)全く違うことを、止めどなく考えてしまう。何をしていても基本的にそれが起きるので、常に、脳がひとりごとを言っている状態になっている。そしてそれは、ものすごく速い。5秒に3つくらいのことが高速で流れていて、流しそうめんと同じシステムで、それ面白い! と思ったものをキャッチして時折文章化している。
 急に思い出したこととか、詩のアイデアとかも流れてくるため、見逃せない。
 ただ、仕事中とか運転中とかだと、それを逐一メモするということが不可能なので、なんかいい思考してたのに忘れちゃった、が頻発する。運転中だと最悪、路側帯に無理やり停めて思いついたことをメモしてから再出発している。

 この日記は、労働日の三日間のうちで思ったことの中で、思いだして書ける分をひたすら書いてみたものです。(プライベートすぎること、公開できないようなものはもちろん省いています。改めて書き直しているので、多少の推敲は入っています。)


一日目


 まずいカレー 美味しいカレー/まずい天丼 おいしい天丼/まずいものとおいしいものの差が少ない食べ物ってなんだろう 個人的には、ナポリタンとハヤシライスはだいたい安くてもふつうに美味しいから筆頭 高いハヤシライスは高そうだからここはナポリタンかな 最高が多分鉄板で目玉焼きのせくらいだから
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「帰りがてら」の''がてら''、ポルトガル語由来の名前がついた和菓子 みたいな響き
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 宮崎駿がいやに厳しいことを、霜降り明星がイジってくれていて本当に助かった。
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モスバーガーで二つ頼んだら包装紙が外側を向き合って、ハンバーガーが戦場にいる「背中は任せた」系の、ライバルだけど親友の剣士 みたいになる

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 催眠術師がやる、「私の催眠術にかかればあなたもこんなことをしてしまう」を示したいがためにする、相手が猫語しか喋れなくなったり、くっつけた指が離れなくなったりする、しょーもない言動
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 爪楊枝と綿棒はデフォルトが多すぎる。100円で100本売らずに50円で50本売って欲しい。 百均は、安すぎるものも100円で売らないといけないので無駄に数が多いものが紛れている。
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 中学の、100均で「大人なら読めて当たり前の漢字」みたいなのを面白がって3冊くらい買ってた時期、輝いてたな アホ感性が
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 続けすぎていること、を非難する代わりに評価してあげている、ということを本人だけが知らずに嬉しがっている状況 面白い 早く引退すればいいのに
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 knifeのkみたいなこと? っていうツッコミ自体が、もう機能しなくなるくらいには、使われすぎているフレーズだと思う キレのあるものが、キレを持って存在する時、それは同時に光る一回性みたいなものを持っていると思う。
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 生きること自体が錆びて見えることがある。研ぐのは自分ではなくて時間にしかできない。
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 二周目、からが大事だと思った 引っ越してあたらしく来た街の、ぱっと目に入るお店にはだいたい全部入って、自分の街のことをだいぶ理解した気になってきたところ。二回目どこに行こう、と思った。次もまた行く場所、となると、自分が行く場所は急激に減る。多分自分はどんな都会に行っても、自分が好きな気に入った店だけを何度もリピートしてしまうんだと思う
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 切ない、という感情のことを、言語化できないでいる。(まず「切ない」という言葉がせつなさを表せていると思っていない。) 悲しい、とは違う何か。今暫定的に思うのは、「自分だったら嫌だ」というニュアンスと、「もう二度と来ない」というニュアンス。恋が終わるとかだったら、もう同じ恋をすることは無いことの切なさ。他人のエピソードを聞いていて切ないと思うときは、自分に置き換えた時に自分なら嫌だなと思う、それが相手におきているから心が動く。 響きからなのか、刹那、みたいなイメージもある。一瞬のものに対する切なさもあるかもしれない
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 歳をとるにつれて、自分を大きく見せることに興味がなくなりつつある。虚言癖というか、自分を強く見せるために、マウントを取るために、咄嗟に盛ってしまうところが自分にはあったし、それが自分らしさの一つであったこともあった。
 今はなんか、熟れてしまって、逆に小さく言っておいて「見くびられておく」みたいな手法に慣れてきている。社会人化、というか。ヤバい人間と絡まないための、先手を取って逃げる方法への慣れ。自分がどんどんつまんなくなっているのが分かる。
 でも、大事な部分は傷つかないようにとは思っていて 良い人と関わる時はちゃんと等身大で話すようにしている それが一番いい
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 ラジオって、多分めちゃくちゃ話術が鍛えられると思う。何かの話をする時、自分とは何もかも前提を共有していない視聴者がいることを思って話すとなると、どこから遡ればいいか分からなくなってしまう。''文脈''。で、それを丁寧にやればやるほど、話は冗長になっていき、聞き疲れていく。ぽんぽん軽いテンポで面白いことを言わないと飽きてしまう。
 時間の制約もあるから、ひとつのエピソードを話すのでも、どれくらいまで戻って説明しておくか、話の面白さが最低限理解できるところを見定めて戻らなければならない。これってかなり大変なことで、ふつうに部活みたいな練習がいる気がする。例えば「ワンピース エニエス・ロビー編」の面白さを今から5分で説明しようとするとき、相手はワンピースをまずどれぐらい知っているのかで悩まないといけない。全く知らないのか、キャラくらいは知っているのか、アラバスタとか空島で止まっているのかとか。ネタバレしないようにとか。結構エグい量の想像をしなければならない。 話、上手くなりたいから一人でラジオの練習しようかなとか最近は思い始めている。日記でさえ冗長になりつつあるからな、とか。
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ワンピースの話が通じる人に、この前どこあたりが一番好きですかと聞いたら、「やっぱりウォーターセブンとかエニエス・ロビーのあたりですかね」って言ってて、じゃあこの人にはその比喩が使えると思って、なんだったか、''かなり始まりの部分で止まっていますよ''を言いたくて、「エニエス・ロビーでいうブルーノで止まってます」って言ったら「めっちゃ最初じゃないっすかw」ってウケてくれたので、ホッと安心した。

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 僕は、面白いことを言おう言おうと思って、その姿勢がまる見えになって、それで話のピークより前に冷められてしまうことが多い気がする。短くスパンと決められる練習をした方がいい気がする。面白いこと多分言うよ のちょうどいい匂わせ方。走り高跳びの助走みたいな。
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 そういえば小学校のとき、謎に陸上部に入れられた時期があった。夏限定で二年くらい。別に足が早いわけでも体力があるわけでもなかったのに。(だから親が試しにみたいな感じで入れさせたんだっけ……理由は忘れた)で部活は、走る練習メインで、サブでひとつ競技(ハードルとか砲丸投げとか)を練習する、というのがあり、僕は走り高跳びを選んでいた。理由としては、飛んだあとベッドみたいにマットに転べるから、少しでも他の人より横になる時間があるのが幸福に思えて選んだ。
 ベリーロールで、助走の練習をしているとき、5歩か7歩がオーソドックスだと言われ、タンタンタタタンのリズムで練習していた。タンタンタタタンは脳裡に染み付いている。走り高跳びは僕の他にもう1人いて、その子は運動神経がよくて、謎に負けじと頑張っていた。僕はのちのち高校で文芸部に入るような子なので、運動で勝てるとは思ってなかったものの、練習ではその子に結構な割合で勝っていた。
 何ヶ月か後に、地方大会みたいなのがあって、それに出場するひとりを選ぶべく、数週間に一回、選考会(とか大袈裟な名前で呼んでいた)をやっていた。その子とどっちが飛べるかの勝負。ほぼほぼ引き分け、勝って負けてを繰り返して最後の選考会で、勝った方がおそらくそのまま大会に出るだろうという状況で、僕はふつうに負けた。2cm差で負けた(=僕の高さより2cm高くしたら友達は引っかかってダメだった)。
 それが夏の暑い日で、二人しか跳ばないのにわざわざ出してきたクッションのマットが、日差しですごい熱くなってて、最後自分が跳んでマットに背中をつけながら落ちていく棒の音を聞いたとき、なんか暑いのと悔しいのと今まで練習してきた時間と青春っぽい夏とでわけわからんくなって、しばらく動けなくて(涙は出なかった気がする)、その時に、走り高跳び担当だった背の高い算数の先生が、「よくやった しばらく寝といていいぞ」と言ってくれたのがだいぶ嬉しかった記憶がある。でも流石に熱すぎて(目玉焼きがやけるくらいあつかった)すぐに退いた気がする。
 そのときの友だちは中学校が別々になって、その後の様子は全く知らなかったが、最近母親が町で遭遇したらしいのを聞いた。秋の何とか運動で車を停めさせて警察が注意喚起をする、というやつで、母親が道路で車を停めて窓を開けると、「あれ、もしかしてよっとくんのお母さんですか?」と言ってきたようで。警察になっているらしい。なんか、なりそうな感じだ。人間が警察と犯罪者の二つに分類されるなら、多分僕が犯罪者の方で彼が警察の方なんだと思う。
 僕は推理小説が大好きで、相棒もほぼ見てるし、警察タイプだと他人には思われているかもしれない。けど、むしろ自分は犯罪者の心理の方に共感するタイプで。彼は絶対に犯罪者側の気持ちなんて分からない、ものすごく健全(言い方は間違っているかもしれない)な人だったので、順当だなと思う。人生それぞれ。
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 バイオハザードの謎解き要素、マジで必要が無い
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 松任谷由実「Destiny」、歌詞が「埃まみれの車に」で始まるが、歌の始まりが「埃まみれ」なの面白い。汚れスタート
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 この前、この人は何を考えているんだろう……と思って人の顔を見てたら、「何?」と言われた こっちが先だけどな 逆質問か
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 それが生きがいなんです、と言われると、なぜか、すごい! と思う。というか未だに、「甲斐」という言葉が含む部分を把握出来ていない。「甲斐性」とか。「甲斐がある」とか。
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雲は意外と見てられる。思っているよりも早く移動している。四季の空の中では圧倒的に冬の空が好きだけど、夏の空も捨て難い。夏は雲がいちばん不気味でいい。秋のうろこ雲、羊雲も荒涼としていい。春の空は黄砂が飛んでいるだけであんまり味気がない。空に関してなら「春はあけぼの、やうやう白く……」が書けると思う。

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 名バイプレイヤーって言うとき、「名」の手綱(意味を、馬とした時の表現……)が緩いと思う。「バイプレイヤー」が長すぎる。名優、名作、名シーン、とかは、「名」の力が強いと思うけど。名バイプレイヤーは、「バイプレイヤー」が占める部分が多すぎて、バイプレイヤーの印象ばかりが残ってしまう。褒め言葉のはずなのに、どこまで行ってもお前は脇役だ、みたいなひどい言葉に聞こえる。
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 人の快楽の最終的なかたちは、「命名」になるんじゃないか。
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二日目


 誰もが、動機と状況が揃っていて心がアッといっぺんに雪崩込んだら犯罪者になる可能性がある。 なのに、犯罪者を、人間では無い存在みたいに扱って、徹底的に排斥し続けるのは何故なんだろう 徹底的に他者の価値を下げまくることによって、自分自身の価値が相対的に上がった気分になる、という快感に取り憑かれてるんじゃないか 犯罪者をつかって自己のアイデンティティを保とうと必死なのかもしれない とすれば、起きていない架空の事件を報道して、皆がそれを寄ってたかって叩きまくって快感を得たら、誰も傷つかずに(犯罪者でさえも)みんなの自己を守れるんじゃないか メディアの良さって本当のことを伝えることだけじゃないんじゃないか、新しいやるべき虚構、みたいなのがあるんじゃないか、というか今でさえ切り取りと誇張と脚色で人を傷つけまくっているのに本当も何も無いよな
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 数ヶ月前から、人の話を聞くときに心がけている……1960年のアメリカのカール・ロジャースが始めたクライエント(来談者)中心療法。臨床心理って色んな方法あるからこれが正しいと決まっているわけではないけど、普段話すときにも使える大事なものがあると思って、このまえ心理学概論みたいな本を読んだ時にメモしたやつ。暗記できるように覚えておこうと思って定期的に思い出している。来談者に対して、カウンセラーである聞き手が持っておくべき三つの態度として、①一致しており、純粋で、統合されている、②無条件の肯定的関心、③共感的理解。この②が特に大事な気がする。「無条件の肯定的関心」。心の中の教室の壁に、習字で書いて貼っておきたい。
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 この人の話は聞いていられるな/聞くのもいやだなの判断が、話を聞く前から行われている気がする
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 同様に。想像力をどれくらい駆使するかということより、駆使するに足るものかどうか、という評価が、先行しているような気がする。たとえば「水門と声門」という文章が出現したとして、パッと見て門が一致しているから言葉遊びの一種かなと思ってスルーする……という一連の流れで、言葉遊び→想像力は使わなくていい、という判断が下された。
 水門が設置されている場所を想像し、それが今開いているか閉まっているかを想像し、その形状と辺りの水の様子を想像し、そこにオーバーレイする形で声門を想像し、喉や音声と関係させながらその形状を想像し、そして立ち戻って水門と声門の重なりを想像する。
 これを、きちんとすると、相当な時間がかかる。

 そして、これは僕の推測で、本当にこれくらい仔細にいちいち想像している読者がいるとすれば、その人こそが本当の詩人だと思う。
 詩人というのは、(詩人の心というのは、)書く人のことではなく、読む人のことだと思う。
 ふつうなら、そんな想像に時間はかけない。

 でも、その想像をするに足る、と思わせるような文章や装置や構造を丹念に準備することが出来る人が、更なる詩人だと思う。

 詩そのものの価値は読者にかかっているのだからそれほど重要ではなくて、想像力の使用を誘発させることを詩そのものだけで可能にしている作者が、本物だと思う。 それを詩そのものではなく、装丁や批評等別ジャンルで活躍するとかは、詩の才能とは別に、パフォーマンス上手、だと思う。ちなみに、塚本邦雄のあの感じ(文体の過剰装飾)は、露骨に想像力を誘発しすぎて、下品だとさえ思っている。(しかも、読者が、「この人分かっててやってる」だろうな、って分かる感じが。)でも、下品で悪いといっている訳では無い。それくらい下品な方が僕は面白いと思う。
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 さっき自己紹介みたいな感じで、''俺朝機嫌悪いんだよね''、って言われたけど、''朝弱い''でいいやん、って思ったのと、自分が嫌な奴として見られるしかない表現をストレートに選ぶのは、根がいいからなのか生粋のイカレ人(びと)なのか、今のところは半々の確率だ、と思ってどきどきした。
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 インスタとかで、いい感じの人間関係の写真を貼りながら、手持ち無沙汰につける詩じみた言葉の、こっちが恥ずかしくなる感じ を集めたい
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 なぜ、「詩っぽい」ものに対して恥ずかしさを覚えるかといったら、真理が、恥ずかしさを内包しているからだと思う。真理を表した言葉は全て恥ずかしく見える。だから、本当にドヤ顔で、言うのがいいんだと思う。本当に詩を書いたんだと、時間をかけて想像力の全てを詰め込んで書いたんだと自信を持って提出されていれば、その「恥ずかしさ」と均衡が取れて読めるようになると思う。なんかやってみた、くらいの気持ちでやられると、背伸びした言葉だけが上滑りして急激に恥ずかしくなる。

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こっそりやっているインスタで、自分の誕生日に、自分の短歌を、それに見合った写真とともに貼るという、イタい行為をした。でもこれも、そういう事情で、堂々と発表することに意味がある(この短歌に対して)と思ってこうした。自分が作った作品に対して責任を持ち続ける、ということを最近はずっと意識している。(それはちょうど、親目線では子どもを生んだことになるが子ども目線では''生まれさせられた''になることの困難と似ている。僕に作られた短歌は、僕がいなければ作られることはなく、僕のせいでこの世に生まれさせられてしまった。そのことの責任を、取れるのは私だけであり、取り続けなければならないという気持ちがある。''生んでしまったこと''。短詩は、作りやすいが、それは、作れすぎる、ことをも意味している。たくさん作ってたくさん捨てて、別に生き物でもないし好きにすればいいんだけど。「たくさん作ってたくさん捨てて」と全く同じ仕組みの行動によって私たちは散々苦しめられてきたのに、それと全く同じことをしていいのか、と思ったりする。と、言いながらかなり多作しているので、どうなのかと自分にも思うけど。今のところは、ちゃんと時間をかけて想像力を使って作って、ちゃんと自分の名義で、ちゃんと発表して、ちゃんと宣伝することが、作ってしまった作品たちへの愛の継続の仕方だと思っている。(それにしても、そういう思考回路で、ここは逃げないぞと思って名前+誕生日にしたインスタのユーザー名、さすがに逃げ無さすぎか笑と最近は面白くなってきている)

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 遠くのことは簡単で、近くのことは難しい。
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 幸福であることを顕示したい人と、秘匿したい人とがいる。自分は大事なものを秘匿しながら、それに繋がる表層的な部分だけ顕示していきたい。
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 バス運転手でその日の帰宅が快適かどうか決まっていた高校時代。
 このまえ帰省したとき、乗ったバスの運転手が、高校時代一番嫌いだった人で(白石さん)、まだやってんのか とびっくりした。そして何年経ってもこの感覚って変わらないんだ お互いさまだな と思った
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 高校のときの文芸部の顧問の先生が、ナルコレプシーなのかなんなのか、移動の高速道路で爆睡しそうになる人だったので、僕が自主的に助手席に座って、先生が眠くならないように質問攻めしていた時代
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 人には色んな時代があり、色んなタイミングでそれを思い出すことになる。今が、成熟して思い出すとき、どんな時代として想起されることになるんだろう。短詩売れなかった時代?賞の選考で完全に無視されていた時代?
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 仕事やってます俺、あー忙しい忙しい、楽しい本番のために皆に隠れて裏方やってます っていう、中学の文化祭に本気出す奴みたいな感じで、大したこともしてないのに大声で「で明後日は何するんだっけ?」って話している職場の人
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 個人でいた方が幸せになる人と、多数の中で輝きを得る人。
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 この人いい人だなーと思ってたのに、ゴリゴリの人種差別主義者で引いた それを怒ってくれる人と出会ってこなかったんだなと思うと、僕がこの人の為に怒ってあげるべきなのかもしれないと思ったけど、この人と仲良くなる気ないしやめた。
 でも、僕が放っておくことでこの人があらゆるところで差別を撒き散らすことになるかもしれない。

 こういう思いで、直接被害を受けている訳では無いのに相手を殺してしまうというケースがこの世界では起きているかもしれないなと思った。
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 一日の野菜摂取目安量、みたいなのを目にする度に、これを書いた人は農家の大変さを分かって言ってるのかなあと思う。人間の健康を分かって言ってるんだろうけど。皆が正確に、健康に必要な量の野菜を毎日取ってしまった場合、儲かるが大変になるだろうな 農家とか運送の人は。
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 通販で「野菜摂取目安量を生野菜で取るならこの量」って言いながら出てくる、生のかぼちゃとかナスとかが載っている白いお皿。そりゃ生でになるとそんな膨らんで見えるだろうよ と思う

これ

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 船越英一郎、完全にしょうもないものにしか出なくなった気がする
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 どこのメーカーか忘れたけど青汁のcmで片手青汁で紹介している白い服の若めの男の人、目がずっと動かずにカメラの方を向いていて、青汁なんかよりその人のキマった目が気になって仕方がない。快適なコミュニケーションとしての会話では、人は目をある程度逸らしていないといけないなと学べた。
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 人生は時間そのものなので、時間を無駄にすることは人生そのものを無駄にすることになる という思考回路が欠落している人の、悲しい人生の無駄時間
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 比喩ではなく物質を指して、「これ誰の差し金?」と言われた 比喩が比喩でなく、でも言葉は正しく成立しているとき、面白い 両手に花束を持っていて「両手に花」みたいな。赤ちゃんのベビーフェイスみたいな。
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 自分のことをよく分析できている/できていないの軸と、(その上で、)自分のことが好き/嫌い という軸がある。自分のことが嫌いなのに自己分析は上手かったり、自己分析はできていないが自分のことが好きな人とかがいる。僕は確実に、自己分析ができて自分のことが好きでは無いタイプ。ただ自己分析が行き過ぎて、好きな部分もあるからそこを伸ばしていかないといけない、とパワプロみたいな運用をしている。
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 駅のエスカレーターで、登りきったところで自分がなにか踏んでしまって、凄い大きな破裂音がして、なんだと思って振り返ったら、後ろにいてその様子を見ていた人に、「風船です」と言われ、風船?とおもったら本当に割れた風船が落ちてた 白い風船だった なんだったんだろう 現実で写生みたいな発言する人、おもろい
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 今やってる、同じ本に手が重なって、恋……♡‬みたいなcmで、二人が取ろうとした本、光文社のコーナーだった 光文社でならんだろ
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 と思ったら講談社文庫って上には書いてた 背は完全に光文社の色(上が色+作家名、下が白+作品名)だったけどな いいのかそんなんで
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 書けない〜!ってわちゃわちゃ騒いだあと、数日経ってそれの告知している人、あほみたい 締切まで余裕持たずに書くことサボって取り急ぎ数だけ揃えましたよ と言っているようなものじゃない? と思う 作品に対しても、依頼してくれた側のメディアや人に対しても純粋に失礼だと思う もし本当に書けなくて仕方なかったんだとしても、それは全てが公開された後に後日談としてぼそっと言うくらいがスマートなんじゃないの?
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 週刊誌記者が使うネット用語、「これでみんなと同じ目線になれますよね?」と言っているみたいで嫌 言葉じゃなくて内容で分かった気になって欲しい それに、別に週刊誌にこっちと同じ目線に立ってもらうことを求めていない それに、同じ目線という意味を勘違いしている でも、本当に同じ目線に立ちたくて仕方がなくて、最大限の努力がネット用語に手を出すことだったんだとしたら、それは褒めたい でも、それは間違えてるよって、優しい上司みたいに怒ってあげたい
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あのとき見たカエル、可愛かったなー 顔文字とかもう何年も使ってないけど、( *˙ω˙*)و ! という感じ

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 sora tob sakanaが、「ブルー、イエロー、オレンジ、グリーン」でポエトリーリーディングをやったとき、そうなるよね、と納得したし、最近YMCKが「夕暮れのチャイム」でポエトリーリーディングっぽくやってきたのには、それ以上に納得した。
 その方向で行くなら絶対そこの壁は通るよな、というのが何においてもあるように思う。自分が今俳句のことを全く面白くないと思っているのは、自分の作風で確実にぶつかるだろう壁なんだと思う。
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 敷衍の衍と衒学の衒、明らかに漢字のサンドイッチで、90°横に倒したくなる
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 サンボマスターの「人はそれを情熱と呼ぶ」のイントロが良すぎて、何回も頭の中で再生してしまう。
 こうやって、ひとつの曲が頭から離れなくて、僕はセンター試験で失敗した。得意科目のはずの国語で、現代文をやっているとき、頭の中で鼓膜が裂けるくらい爆音でひとつの曲が無限に(しかも数フレーズだけ)リピートされて、文章の内容が全く入ってこなかった。なぜそれが鳴ったのか、何の曲だったのか、覚えていない。とにかくあれがトラウマになって、僕はあれ以来教科的な国語が苦手になっている。大学のゼミだけは楽しかったような気がする。
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 礼儀、(敬語とかはある程度)好きだけど、一回廃してみて、もっと全員がちょっとずつふざけながら仕事していいようになったら、楽なんじゃないかと思ったりする 音楽聴いたりお菓子食べたり 自分たちで労働をよりしんどいものにしている節があると、思う
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 DyDoのルーレットつき自販機で、長年の経験で嫌になって、当たるわけないだろと思って回る数字すら見ずにジュースを取って歩きだすが、さすがに気になって一瞬ふりかえって、やっぱり外れていて、「ほらな」と思う瞬間
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 換気扇のことが好きな悪魔
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 議会だと思ってみていたら、全く政治ではないじゃれあいをしている番組
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 何を言っているのか正確に分かるが、意味がひとつも分からない会話
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 NARUTOにおけるサイ、相棒における神戸
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「神の憂鬱」とか、「BIRTHDAY」とか、「狙われた刑事」とか、「ボーダーライン」とか、神戸回は名作がふつうに多くて、好きだった 神戸の来歴からしてずっと長くいる相棒では無いことはわかっていたが、地味に一番好きだった。
 でも冠城亘も、ここ数年でやっとしっくり来ていて、シーズン最終回は一番泣いたなー。反町×水谷の歴史も感じて良かった。
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観覧車は、外から見ているときがピークだったりする。数字で表すと、外から見(120)→乗る(80)→外から見(90)くらい。乗っているときだって、「さっきはあそこから見上げてたんだもんなー」って、外から見ていた過去数分前の自分を見たりする。
人生ももしかしたらそうかも知れなくて、乗る(80)が今生きている分なのかもしれない。乗る前と乗った後に、「私はこれからこれに乗るんだ」と「私はさっきまでこれに乗ったんだ」の間。死にたいと思ったとしても、死んでみたら、相当生きていた頃が羨ましく見えてしまうかもしれない。


三日目


 コンプレックス、は本当にみるみる無くなっていった。(でも、年々、影が濃くなっていくタイプの人もいるんだと思う。)あと残るコンプレックスは何か考える。
 コンプレックスではないけど、僕は僕が外からどう見えているかということを、未だに理解しきっていない。外から見た自分の顔、外から聞いた自分の声、がどんな声なのか知らない。未だに自分が写る写真を撮るのは苦手だし、カラオケも苦手。鏡に映る自分が、想像している自分の顔とは少し違うし、動画に入り込んだ自分の声はいつまでたっても自分の想像と一致しない。
 自分の思う通りには自分は存在していないということを、もう理解しているはずなのに、このギャップにまだ順応しきれていないのは、自分がまだ自分に期待しているってことで、諦め切ってないところに、自分の良さがあるかもしれない、と思う。
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 大友克洋「RUN」の最後みたいなことが、人生でたまに起きる。最後の最後で一発足らない銃……。
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 綾辻行人が最近PUI PUI モルカーのことばかりをツイートしている。そのことをかなり考えてしまう。
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 こんなに性格悪い人なのに既婚者なのか……
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 youtubeを散漫に見ている時間を無くして、本とか映画に注ぎ込んだら確実に自分の人生のステージが上がると思う。
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 ヘキサゴンでクイズが始まる前に流れていた、紳助監修のミニアイドルグループ(フジモンとかアッキーナとかがいた)の新曲発表の時間
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 恋愛相談で金稼いでるやつ、相当終わってると思う
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 この前焼肉のとき、網を見てたら、エキスパンドメタルのことを思い出して、そこから自分の過去を思い出した。


これ

 父が溶接得意なので(それを仕事にしているので)、小学校後半だったか中学校だったか、布団からベッドにしたいということで父が手作りで鉄の端材を集めて溶接して、部屋にぴったりの鉄ベッドを作ってくれた。見た目は微妙だったものの、スプリングのマットを敷いて布団を敷けば立派なベッドで、それはかなり嬉しかった。
 ただ、背もたれの部分が鉄の折り返しで、クッションを後ろにしいて凭れて本読んだりゲームしたりしていると、その鉄の部分が背中にどんどん圧をかけていって、痛いなーとは思っていた。
 それが四年くらい続いて、いつだったか、お風呂上がりで偶然親に自分の裸を見られたタイミングがあって、そのとき両親がすごい大声を上げて、おい!何だそれ!って二人とも駆け寄ってきて、何があったの、誰かに何かされたの、と強めに質問されたが、自分には何のことか分からなくてぽかんとしていたら、鏡を見てこいと言われ。それで自分の背中を見てみると、ひどい蚯蚓脹れみたいな何条かの線が腰から背中にかけて走っていて、(今までも何度かは見てきたはずなのに全く気づかなかった)多分ベッドのあれだ、と親に言えば、「うちらが虐待したみたいな感じになってる」と笑っていた。
 毎日正確に同じ場所に凭れていたわけで、その内出血はもう定着(?)してしまって、そのベッドが終わってからもう10年くらいが経つがまだ背中と腰にうっすら傷が赤い線になって残っている。

 エキスパンドメタルは、ベッドの背もたれ部分の、鉄の隙間の空洞部分(ベッドボード、と言われる位置)の壁として張られていて、あれを見るたびに何となく中学時代を思いだす。
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 大学のゼミのとき、中間発表みたいな感じである程度まとめて発表するときに、サボっていたんだろう人が、ほぼほぼ他人の論文のコピペで提出していて、(この人ってこんなに考えれる人だったっけ……)と思っていたら、先生も同じことを思ったみたいで、高速でサーチして、元の論文をつき当てて、(当時、zoomでゼミをしていたので)共有のチャットにそのリンクを貼って、「これが参照元の論文です」「これははっきり言って剽窃です」と激怒していた。
 これに関して思い出して思うことは、まず、(この人ってこんなに出来たっけ)でバレるのかわいそう。他人に思われているレベルで揃えないとサボるということは自然にできなくて、それが出来ないということ自体がレベルが低い、と思う。
 で、この人、めっちゃドキドキしただろうなと思う。バレるかも、バレないかもと思いながら資料を発表する感じ。(先生は真面目なので、発表すらさせなかったが。)そのリスクを背負う分、その前の週とかは友だちや恋人と楽しめたんだろうなと思う。
 そして剽窃だってちゃんと怒った先生は偉いなと思う。それが仕事だけど。
 この記憶はかなり気まずいものとしてあって、zoom越しに先生ががちで怒り、当該学生は泣き、単位をあげることはできません(これを通過しない限りは卒業は不可能)vsどうか許してください対決が始まり。最後は先生が、この時間を皆さんから奪っているのが申し訳ないから、メールとかで後日個人で言いに来てください、とかで終わった。あの時間、どうやってもパソコンの画面を直視出来なかった。zoomで説教を見るの、おもろすぎるけど怖かった。
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 神秘化はセコいと思う。それに、金さえ稼げたらそれでいいという思考は、確かにそうだとも思うけど、それに全身を漬けている人は、人として大事なものを失っていると思う。
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 日本の1.2億人って、案外少ないんじゃないかなみたいな気分になってきた。
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 ''ちゃんと喋れる''って、大事だし、稀有だなと思う。(吃音とかそういうことではなく。)まっとうな敬語とか。むやみに人を傷つける言い方をしないとか。相手に敬意を持つとか。通じる話し方や語彙を選ぶとか。会話できるとか。この人ほんとにこれで何十年もやってきたのかみたいな、恫喝や失礼が初期装備の人を見ると、自分ってだいぶ喋れるんだなーと思った。
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 この前映画の「この子は邪悪」を見た。ホラーと思って見ていたので全く怖くなくてちょっと残念だが、一発目の目のシーンは流石にギョッとした。大西流星くんが、ジャニーズイケメン枠かと思いきやふつうに演技が良くて凄かった。悪い玉木宏も見れてよかったな。
 玉木宏はのだめカンタービレで印象が止まっている。この、人間としてのイメージが、良作によって固定化されることの辛さ、をたまに思う。
 ジェームズ・ボンドとか杉下右京とかハリー・ポッターとか。もうその人自体に同化してしまう。数年前で覚えているのだと、殺人鬼フジコの衝動、で尾野真千子が断ろうかと悩んだ話とか、不倫のドラマ(「あなたのことはそれほど」)で私は主役とは別人だとすごくアピールしていた波瑠とか。
 役者と役の同一視。難しいなあ
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 短歌は、作者と作品がある程度わかれることはだいたいの前提になってはいるものの、往々にして売れるのは作者と主体が同一のもの。売れようと思えば、主体を自分に近づければ良いのかもしれない。
 でも、近づけるだけ近づけて、主体が自分に一致したとき、自分のことを作品にしようとしているエグさ、を感じる。サラダ記念日とかもう見てられないし。
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 全ての質問は、地球はどうせ無くなるから気にしなくていい で解決する。
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飛行機の席が予約できる時は必ず窓側にしている。(トイレに行くのは不便だけど、トイレに行かないようにあまり飲まずに乗ればいい。)空を飛ぶことのメリットは、空の中に入り込んで、雲を下に見ることが出来ることなので、それが見えない席に望んで座る気持ちがわからない。陸地が遠く離れていく、あの一瞬自分たちが何もかもから開放された感じ。飛行機の窓から写真を撮る度に、生きてるって、綺麗だなー と思う。

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 帰省する度、親が、ちょうどお前くらいのとき……って自分の昔の話をし始めるが、18年くらい同じ家で暮らしてきたのに、一度も聞いたことの無い話ばかりで、それに驚く。
 僕が運転免許を取ったあと実家に帰ると、ずっとオートマに乗っている母が、実はマニュアルで免許をとっていて、しかも本試験のときセカンドから一回もギアの加減をせずに合格したという面白すぎる話を聞いた。(若いころの母と指導員を乗せた車が、20kmの速度でとろとろ走っているのを想うとおかしくてたまらない)
 もしかして、自分が成長する度に、「おまえのころ……」といって僕が知らない話を聞けるんじゃないか。僕が知らない親の話を。
 自分はどれくらい親のことを知った気でいるだろう。大体のことを知っているようでいて、詳しいことは知らない気がする。自分から訊ねることよりも、親が自分から開示する話で、親像を更新していたから、親が僕に言っていない話は、当然僕も知らない。
 もし、これが永遠に続いたとして、僕が親になったりしたら、今まで言われてきた「お前も親になったら分かる」が、一気に分かるようになったりするものだろうか。ドラクエの、「さいごのかぎ」を手に入れた後の世界みたいに、急に回れるところが増える感じで。
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 何が楽しくて詩を書いているかということを、詩を書いていない人に説明するのは本当に難しいことで、おそらく説明しきったとしても納得してもらうことは出来ないと思う。詩の楽しさは、詩の楽しさを知っているものにしか分からない。一見さんお断りみたいなシステムだと思う。
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 人の人生に介入しすぎる恐怖を思う。あんまり人と仲良くしすぎると、その人の人生に影響を与えてしまう。自分を記憶してしまう。それがいい方に転んだらいいけど、悪い方に行ってしまった場合、取り返しがつかない。記憶は、なかなか剥がれない(未だに、ネタバレ記事だけ読んでしまった殊能将之「ハサミ男」の、そのネタバレを忘れられないでいる。忘れたら読もうと思ったのに、忘れられないから読めない。ただ、殊能は黒い仏も鏡の中は日曜日も最高に面白かったので、肝心なトリックを知っていても絶対面白いだろうという確信がある。いつか読もうと思う。でもまだ美濃牛と樒/榁が残っている)。
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 人気者の友だちが、最初に出会ったときと同じテンションでずっと関わってくれていることに、凄いことだなあと感動している。そういうの、できない人の方が多いから
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 布団が気持ちいいと感じるとき、体は疲れきっている。いろはす・ももが、完全な桃ジュースに感じるとき、体は疲れきっている。自分に対する暖かいたくさんの言葉を要するとき、心は疲れきっている。
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 今日がどれだけつらいものだったとしても、起きた瞬間に、昨日が過去になっていることに気づいて、なんだかんだ終わってよかったな、と自分を肯定することが出来るような、明日が来ればいいと思う。
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 眠ることだけは、不得意になりませんように、と思う。人に生まれてきていちばん良かったことは、複雑な夢を見ることが出来るところだと思う。これはずっと変わらない。現実とはほど遠い、面白い夢が見れたらいいと思う。現実とはほど遠い。
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20220116-0118

〈他〉


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