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続・三日間の脳内まとめ(日記)

 脳内で絶えず考えていることを、しばらくしてから、そういえば考えていたなあと思い出せる範囲のことをメモしています。前回と同じシステムです。

前回はこちら


一日目


 労働の労という字が、労る(いたわ-る)と労う(ねぎら-う)と読めるの、ちょっとむかつく 労す(すりへらす)とか労る(へばる)とかで読めて欲しい
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「パラノーマル・アクティビティ」を思い出すたびに、本当にそのやり方で合ってるの? と思う、幽霊の足跡を調べるために廊下に粉を撒き散らす のシーン
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 相棒だったか古畑任三郎だったかコナンだったか覚えていないけど、「階段の全ての段に割れたガラス瓶を置いておいて、犯人が踏んだときその足音が鳴るようにする」みたいなのがあった気がする。そのシーンが頭に浮かんできた。(ホーム・アローンか?)何もかも不明瞭に記憶されている映像、まあまあ気持ち悪い。
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 好きなツッコミ:食べ物を食べ物で喩えんな!
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 責任は、取るのが大事なのではなくて、そこにある、ということが大事なんだと思う。大きな事件を起こしたとして、謝ったりお金を払ったり仕事を辞めたりするけど、それで''責任''が、はたして全部取れたのかはいつも微妙なところ。
 責任が自分にある、何かしたら自分がどうにかしなければならない、と、架空の責任を想定して、その仮定を基に自律して動く、というのが大事なんだと思う。
 死んでも取り切れない責任だってある訳だから。それが生じないように動くべきだった、と後追いで''責任''が膨らんでくるだけの話だと思う。
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「所狭し」という単語で嫌でも想起してしまうごみ屋敷のイメージ
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 ニューヨークのコント「シェアハウス」でのツッコミ「水煙草吸うてるやん!」を、〈小学校のときの同級生のあいつ、今元気にしてるかな〉の感じでよく思い出す。〈あのツッコミ元気にしてるかな〉と思う。水煙草的なものをつっこむことに今でも挑戦していて欲しい。

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 というか水煙草って、要素「水」「煙」「草」なの面白い。植物の初雪草みたい。名前だけは立派に風流。残念ながら僕は死ぬまでやらないと思う。
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 思い出し笑い、はほとんどしない。笑う、のは事の鮮度と速度にかかっていると思っているので、思い出す時点ではなかなかもうだめになってしまっている。
 
 思い出し泣き、は昔はよくしていたと思う。辛かったことのことを思うと自然に涙が出てきて泣いたり、レイトン教授と最後の時間旅行のラストシーンを思い出して泣くとか、意外と速攻で思い出し泣きは出来た。
 でももう最近はほとんど出来ない。よほどのことでは涙は出てこなくなった。心が鈍化しているんだと思う。想像したとて別に悲しくないし、悲しいからといって泣くわけでも無くなった。だから、映画とかを見ていて、なんか急に泣きたくなったときは、自分自身に対して、こんなんで泣くの? と思うし、泣けるときなんてなかなか無いから泣き尽くしてしまえと思って行けるところまで泣く、をしている。
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 最近泣いたのは、アマプラで見た名作の映画「スタンド・バイ・ミー」の途中のシーン。主人公に対して親友クリスが泣きながら「だれも ぼくを知らない土地に行きたい」と言うシーンで自然に泣いてしまった。同じ気持ちになることがあるからだろうか
 ラストシーンも当然泣いたけど、あれはオマケという感じがする。「シェルブールの雨傘」のラストシーンで泣くのと同じ感じ。
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 自分の画像フォルダを大掃除していたら、自分がそのときいいなと思ったものだけが残っていて面白い。これに面白いと思ったんだな、という。

例えばこれは、偽物の団欒にウケた んだと思う


これは、そんなひどいこと言うなよ と思ったんだと思う


これは、ただでさえエグいものを回転させるな と思ったんだと思う

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 詩とかツイートを見ていて、全部面白くない、と思う時期と、全員にそれぞれ違う面白さがある、と思う時期がある。どちらの時期も、それに入っているときは、だいたい自分が面白く無くなっているときだと思う。
 結構面白いことを書けてる気がする、と思うときは、他人のことがほとんど目に入っていないことが多い。自分と「面白さ」(概念)との勝負になる。そこに他人とか、面白い他人とか、他人の面白さとかは入ってこない。
 他人のことを面白くないと思いたい状態で、良いものが書けるはずはないと、自戒も込めて思う。
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 音ゲーあるある① 後ろを通りがかったとき、(自分なら絶対に辿りつけないような)最難関曲を軽々とやっている人を見ると、なんでこの人にはできて自分にはできないんだろう、やっぱり自分は向いてないんだろうか みたいな自己嫌悪に30分くらい入って結局何もプレーせずに帰る。
 音ゲーあるある② 8割くらいは別に楽しいと思いながらやっていない。
 音ゲーあるある③ 周りに人がいない、が一番嬉しい。
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送電塔とかいう、大きさも役割もでかすぎるのに、ほぼ人に意識されない建造物のことを心から愛している。


二日目


 不条理な怒り方、粘着質な怒り、過剰な叱責、ハラスメント、をされる/見かけると、最近は「これで既婚者なんだもんな……」と思うようになってきた。(その人が既婚者の場合。)
 別にそれとこれとは関係ないものの。パートナーはその一面を知ってるの? と思う。相手が悪くないのに強烈に怒鳴り散らしたり、人に使っていい言葉じゃない言葉を使ったり、ずーっと何日も同じことをねちねち怒り続けたりするのを、知ってて、結婚したんだろうか。だとしたら相当変わってると思うし、知らないんだとしたら、よく隠せてるなあと思う。(隠せてる、のもまた怖いけど)
 いつか一撃で家庭を崩壊させちゃうんじゃないの、みたいな余計なことも想像する。
 有名な人とかにも思うけど、Twitterでねちねち絡んでいるのを見ると、それを書いている傍にパートナーはいないのか、パートナーはTwitterを見ていないのか、もし見ていたら、それにどう思っているのか、と思う。「その辺にしといたら」とか言うもんだろうか。「私もそう思う、もっと煽ってもいいんじゃない笑」みたいな感じなのか。すくなくとも僕はめっちゃ怒る人、の傍にいたくはない。自分がそうなっていないように常に意識することも忘れない。
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 風車が、かざぐるまともふうしゃとも読めることについて。ふうしゃの方が、かざぐるまより大きい。大きさは違っていて、風によって羽が回転するという仕組みは変わらない。水車、があまり「みずぐるま」とは読まれないことを思えば、「かざぐるま」ってちょうど良く普及してるなあと思う。ここ数年気のせいか見かけないけど。
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 口が悪い、ことをかっこいいことだと思っている人の、やたら声の大きい暴言、見るに堪えない
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〈ドラマ「SP」で、病院をジャックして襲いこもうとしている敵役の男の人たちが、清掃員のふりをして青い清潔な服を着ている〉ということを定期的に思い出してしまって、道端で綺麗な青い作業着を着ている人に直視されたら(病院に連れ込まれて殺される……!)と思ってしまう。とんだ偏見で、そんなことを考えてはいけない……と思って即座にその考えを引っこめる。直感をねじ曲げられる知性があってよかった。

このシーン。仲良さそうなのが怖い

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 戸田恵梨香と加瀬亮の「SPEC」、ドラマ版までは良かったのに映画になったらグダグダで残念、という意見が、当時多発していたのを覚えている。未だにそれを言いたがる人もいる。ついこの前も見かけた。
 僕はSPECの大ファンで(ブルーレイボックスで死ぬほど見返している)、これはいつも思っているが、それはちゃんとドラマを見てないんじゃないか、と思う。ちゃんと見ていたら、普通に納得の展開で、もっと言えば、そうならざるを得ないと思う。

なんだかんだ里中(演:大森南朋)が一番可哀相だと思う

 警察という設定の上で、''スペックがトリックとしてちゃんと効いている''、ミステリで話がちゃんと成り立っているのは第1・3話のみだと思う。
 2話は、2話目にして早くもスペックホルダー[スペックという異能力の所持者]が事件外に立たされてしまう。(安楽椅子探偵もどき? でも''千里眼''の役割自体は麻耶雄嵩の神様(鈴木)みたい)。3話は、これも3話目にして早くもスペックを使うこと自体が布石になるという、メタっぽい方に回っていく。
 第1話のように、スペックがないと成立しなかった、スペックがあるからこそ出来た意外な殺人、真っ当なミステリパートがもっと欲しかったというのは正直ある。2話以降は、ある事件があって、それがスペックによって乱されて変に複雑になっていく、という型の中で展開されていく。(4話まではまだマシだけど、5話目からはミステリからは露骨に距離をおき始める)
 段々と、vs犯人(withスペック)から、vsスペックにすり替わっていく。ラッパを吹く天使のように、ブブゼラを吹いて対象人物を別空間に吹き飛ばすスペックホルダーのブブゼラリーマンズなんかは、それが直接犯行に繋がる訳でも無く、単なる邪魔な敵で、まさに''スペックの持ち主''でしかない。

 だから、僕としては、既に五話目ぐらいから、話はぐだぐだになったと思っている。確実に、ゴール地点がここで変わっている。スペックが乗っかったミステリから、ミステリ風味が乗っかったスペックの話、に変わった。なので、ゴールは、警察であることとか当麻と瀬文の恋の行く末とかは二の次で、スペックというもの自体はどういうものなのか、悲劇をうんでしまうスペックはどうなっていくべきなのかという、スペック自体の話に、当然、なっていく。
 映画版はどれも、スペック自体の行く末を描いているから、僕としてはドラマ版第5話からずっと同じことが追求して書かれているなという印象がある(神木隆之介演じるニノマエが人気出過ぎて、vsニノマエをこすり続けたところはちょっと物語的にも蛇足だったとは思うけど)。
 だから、映画がではなく5話以降だめになったと言うのなら理解出来る。vsさとり、vsニノマエを充分楽しんでおいて、映画版(とくに結)がダメだという人は、ふつうに、スペック自体のことを考えることから''降りた''人たちだと思う。

正汽雅(演:有村架純)の、野々村光太郎(演:竜雷太)への愛し方、結構好きだった

 これは僕が読んだことのある漫画の、NARUTOでもBLEACHでも、ONE PIECEでもそうだが、''能力''が与えられる話は全て、突き詰めていけば必ず神話化する、と考えている。行き止まりはそこだと思う。
 能力は、必ずインフレを起こす。ある能力より強い能力が現れ、それを倒そうとして能力のレベルが上がり、倒したら更に強い能力が現れる。基本的にこれが繰り返される。能力同士の相性や強さがそのまま維持されてしまっては、永遠に物事が進展しないから(弱いやつが弱いままで強いやつが強いままになってしまう)。
 そして大体の物語において、''能力''というものは、最初、主体が特別に所持しているもの・与えられているもの(主体+能力、の形)として書かれ、だんだんその能力を研鑽していくにつれて、能力は主体と不可分なものになっていく。その能力無くしては主体が存在しえず、主体無くしては能力が存在しえない、というふうに。これは''能力''に対して正面からぶつかると必ず進んでいく道だと思う(能力が「個性」になる、と言った方が分かりやすいかもしれない)。

 先に挙げたものでいうと、ナルトと九尾、ルフィとゴムゴムの実、一護と斬月というふうに。最初は与えられたものであったとしても(それを本人が嫌がっていたとしても)、それと対峙して、戦って、自分の中で克服して、個性として取り込む形で自分がより成長していく、という話になっていく。また傾向として、後半の敵で出てくる既に強いキャラは、自身の能力との葛藤や戦いを既に終えていることが多い。(ペットは飼い主に似る、みたいに、能力が主体に/主体が能力に似るということが起きてくる)
 あまりネタバレをしたくないのでふんわり書くが、スペックもやはり映画版はそちらの方に進んでいく。自分の能力が疎ましく思うことはあると、何か物を齧ることで未来予知ができる冷泉俊明も言っていた。段々と、スペック込みのあなたの事を信頼している、という展開になる。素材だけ変えれば道徳の教科書である(逆に言えば、道徳の教科書は、素材さえ変えればどんな物語にでも化けるということでもある)。

冷泉俊明(写真左、演:田中哲司)と津田助広(演:椎名桔平)。堤幸彦作品に出てくる椎名桔平はいつも魅力的で良い。

 能力のインフレと、能力との一体化、主体のアイデンティティの確立が進むと、こういう物語は大概、神話性を帯びるようになる。「進むと」というか、同時にそれは進行する。
 
ここで僕が言う神話性の特徴は、例えば、世界を巻き込んだ戦争になること(ex.ラグナロク、ナルトの第四次忍界大戦)、舞台がどんどんシンプル(もしくは自然っぽく)なっていく(ex.BLEACHの虚圏、新世界城)、破壊と再生、〈運命〉の強調、などなど。

 特にこの最後の、〈運命〉が厄介なポイント。その能力と苦しんで長年戦ってきたのは他ならない主人公自身なのに、終盤に向けて〈運命〉が姿を見せ始める。なるべくしてなったんだ、と言わんばかりの設定が後からどんどん足されていく。(というか、その能力はあなたが思うほど厭わしいものでは無く、実は優れたものだったんだよ、という作者からの元気づけみたいなものなのかもしれない)
 ナルトもそうだったし(クシナ、四代目とか。サスケとナルトをインドラとアシュラがどうこうと言い出したあたりは、運命すぎて半笑いで読んだ)、ブリーチもそうだったし(一護の両親の真相、更木剣八を巡るあれこれ)、ワンピースもそうだった(''D''、ジョイボーイ、麦わら帽子。ゾロと霜月リューマなど)。

 SPECも、最終盤に向けて続々と当麻に〈運命〉が押し寄せてくる(運命を変更するスペックホルダーもいたりしてややごちゃごちゃしてはいる)。それに、スペックは分かりやすいように、ファティマ第三の予言がどうのこうのと神話モチーフを盛りに盛って入れてくるようになる。ものすごくシンプルに、ストレートに能力付与型の物語展開に従っている。(ドラマ版最終回で当麻と瀬文が男を倒した場所が教会だったことも、神話化しますよー の分かりやすすぎる誘導になっている)
 
 言い出せばきりがないが、親の不在と物語のループというセカイ系の特徴をも、まんま承けているように見える。世界を巻き込む男女ペア。(その点、TRICKの山田・上田は、セカイにまで発展しなかったのがとても良かったと思う。)

今思えば、このキャラの名前がセカイだったのも、分かりやすすぎるくらいの設定だったんだなと思う。(演:向井理)

 まとめると、物語が途中で方向を変えてから、もう映画の最後まで線は繋がっていて、それを察する道具は無数にあった、ということです。
 僕は、〈運命〉なるものはとても嫌いなので、どんどん当麻が一人の人間としてではなく、〈運命〉の器として存在が定まっていく様子が見ていて辛かったです。が、でもまあ、そうなっていくのも薄々わかってたし、その寂しさも含めて、この物語が描くものなんだろうと思って、楽しみました。

 ただ、こういう話(セカイ系とか、神話っぽくなっていくバトルの話)に人生で一回も遭遇したことがなくて、その上で純粋に、当麻と瀬文の恋愛パートにのみ期待していた、という人にとっては、ものすごく映画版は(特に最終シーン)苦痛だったろうなと思います。そういう人は、また色々読んだり見たりしてもらって、もう一回スペックに帰ってきてもらって、映画も見てもらって。

 非現実的でついていけない、という方も多いかと思いますが 自分とか社会よりずっと大きいものに、自分の行く末が丸ごと飲み込まれてしまうような感覚(スペックで言うところの〈運命〉や神)は、僕にとってはかなり心地いいものとしてあります。大きいもの、が、そのまま死と重なるような気がして。死という一番非現実的なものが、最後には自分の人生を覆い尽くしてしまうという、全く意味が分からず面白くもないオチ、を、既に自分は知っているということ(だからこそ生が面白くなってくるわけで……ちっぽけな日々が逆にウケてくるというか……)。SPECはオチを知った上で何周も見ると、自分自身の人生みたいでかなり面白いです。

運命は変えられる、でも変えられない部分もある、本当はその変えられない部分のことだけを運命と呼ぶのかもしれない…… このシーン、周囲の空が綺麗 


三日目 

 書き続けて、発表して、結局それは、どうなっていくんだろう、どうするつもりなんだろうとふと思ったりする。句集や歌集にでもするんだろうか。なったら何になるんだろうか。一回一回で消えていいと思って出しているんだろうか。一回一回が結果ではなくて何らかの過程のように見てしまう。で、結局何になりたいの? って進路を聞いてくる親とか先生みたいで自分が嫌になる。
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 車の後部座席から一瞬見えた、横断歩道の真ん中で立ち尽くしていたおじいさん
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 バラエティに出てくる名探偵コナンの着ぐるみ、完全に「小学生」のフリをした言動で、とぼけるなよと思う。加えて、それに対して芸能人も、相手を小学生と思った扱い(よくできたねーとか、コナン君は○○好きかなぁ〜?とか)をしていて、同じく、とぼけるなよと思う。全員が中身は工藤新一だと知ってるのに。視聴者の子どもを配慮しているのかもしれないが、子どもだって、「体は子ども、頭脳は大人」な工藤新一だと大体は知っている(一回アニメのOPを見ただけでわかる情報)。その他アニメのキャラクターと一緒にしてはいけない。

 もし、バラエティに映画の番宣で出てきたコナンくん(着ぐるみ)に対して、芸能人が、お前の正体は工藤新一だと知っていると言った場合、どうなるのか気になる。番組側はそんなこと言っちゃダメ、と言うだろうし、着ぐるみのコナンくん側は、何のこと? みたいにとぼけるしかないだろう。でも、本当の本当なら(本当にコナンの世界、米花町から来た江戸川コナンだとしたら)、その芸能人のことをマークするに違いない。警察ですら知らないことを、一芸能人が知っているのはなぜだ、となる。
 そういう、誰もが虚構に本気、の世界を見てみたいなと思ったりする。(幼少期の子どもに対する、サンタクロースって、結構それに近いかも。)
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 脂肪吸引の具体的な光景
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 東京出張の間、毎日必ず事故現場を見ている気がする。パトカーと救急車も。そりゃ事故るよな と、でも事故りすぎじゃないか? とで頭がいっぱいになる。仕事が発生しているな とも思うし、人生が崩れた人がいるな とも思う。できる限り事故には関与しない人生でいたい。
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 人生は時間そのものであり、時間を豊かに使うことだけが人生を豊かにすることに繋がる。刻一刻と死は迫っているから慎重にしなければならない。他人に対してはそれはもっとそう(人の時間を奪うということは、人の人生を奪うということだから、コミュニケーションは豊かさを希求されていないといけないと思う)。

 思っている以上に、私たちは時間が無い。戦争やハラスメントに注ぎ込んでいる時間なんて、本来は無いはずなのに。
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 アパレル業界のことを全然知らない。百貨店に行くと、平日は特に、店員さんは立っているだけで客はそれを見てスルーして歩いていくばかりで。一体どうやって儲けを出しているか分からない。一日いくつの服や化粧品を売れば、その日の人件費が賄える仕組みなんだろう。今の時代通販があるから、そこの儲けから回ってきてるのか。
 本当にやっていけてます? と思って気が気でなくて、口紅とかのお店で、ちょっと買っちゃおうかな くらいの歩速で歩いてしまうことがよくある。自分の行動や思考の全てが、店員さんにとって余計だとは思っている。
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 この前、友だちと会って一緒に歩いていたら、全く関係ないスーツの人が、遠くの方で「おつかれさまです!」って言っているのが聞こえて、無意識に体が反応して、おつかれさまですって言いそうになった(喉を動かそうとしたので本当にぎりぎりだった)。
 それを伝えたら、友だちが「ええことやん」と言ってくれた。社会人になってきている自分、を無意識に動かした喉で感じるとは思わなかった。
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 使わない日本語フォルダ(日記「自分が使わない言葉」参照)、順調。

 最近入ってきたのは、「お熱」、「旗色(を伺う)」、「泣き落とし」、「とやかく言われる筋合いは無い」、「完膚無きまでに叩きのめす」、「大本営」、「胃袋を掴まれる」、「親の顔が見てみたい」。
 使わなすぎて、眺めているだけで笑えてくる。
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 昔のこと。母が働いている店では音楽が流れ続けており、それは僕にとっては苦痛なことだと思われたので、つらいでしょ、と聞いたとき、「今は小野リサの曲が流れてるからむしろ嬉しい」と言っていた。母は昔から小野リサの曲が好きなので、本当に嬉しいんだろうとその時は思ったが、多分それでも無理はしていたんだろうとは思う。
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 たとえ世界が滅んでも というフレーズを口にする時、想像する光景は人によって随分異なるんじゃないか。ウイルスとかで人がバタバタ倒れている様子だったり、戦争だったり、火山が噴火とか大氷河期の感じだったり、地球自体が爆発していたり。
 これと同じように、同じ言葉でも想像していることは人によってだいぶ違うんじゃないか。当たり前のことだけど、このことを忘れてしまっては、良い言語コミュニケーションは出来ない、と思う。
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 流行っていて耳にする「Chu! 可愛くてごめん 生まれてきちゃってごめん」の歌、どれだけ考えてもつらい。これが流行ってしまうこと、もつらいし、どれだけ言葉が重大でもそれを反射的にスラングとして楽しんで流行らせてしまう人たちのことも悲しいが、何よりつらいのは、こうなることを分かっているのに歌詞を変えようと思わなかった(バズって人気になる方をふつうに選択した)作詞作曲者のこと。自分だったら、思いついても出さないけどなー。''生まれてきちゃってごめん''て。文字にしたら終わってる。これを小学生がノリノリで歌うんだから怖い。
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 自分に出来る最大の力を発揮した状態が100としたとき、70くらいで遊べるゲームが一番やってて楽しい。
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 賽の河原 と毛筆で太く濃く書かれた看板
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 その人を嫌いになるのに十分な要素
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 自分の顔や声を、良いと思っている人の割合が気になる。
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あのときの自分は、冴えていたなあ と唐突に思うことがある。自分は、冴えているという状態をとても好ましく思っていて、冴えていないことを悲しいこととして捉えている。これから順調に僕は老いていくことになると思うけど、できるだけ冴えていたい。冴え、を期待している人間でいたいなと思う。


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