デザイナーなら誰しも日常にあるデザインのスゴさを語りたい時が、誰しもあるだろう。
生まれ育った地元を車でドライブするのはノスタルジーのジャングル・クルーズみたいなもので、何を見ても新鮮に感じられるから面白い。ここの写真は一見普通の光景かもしれないが、実は最高傑作なのだというのに気づいてほしい。
デザインに尖ってたあの頃の自分をぶん殴りたい現代の自分
高校を卒業して、京都の芸術大学に通ってから商業デザイナーになってから最初の上司に「街にあふれるデザインを見て、自分だったらどう作るか、なぜこんなデザインなのかを考えるのが一番の上達の早道だ」と教えられてから、常々目を配り考えるクセがついた。(あの頃は素直だったなぁ)
それまでデザインで記憶に残るくらい気になるものは、斬新なコピーだったり、不思議なアングルで撮られた写真、整った顔立ちのタレントのアップ写真だったりしたものだった。ありきたりなデザインなんてFU◯Kと中指立てたくなるくらい、尖ってた。(10年以上前の美大生なんてそんな奴らしかいなかったんだよ、本当)
普通の広告を作るのがいかに大変か気づいて苦労をした
しかし、デザイナーになってからの視点でいえば、一般の人が「普通の広告」と感じるものほど奥深くて難しい。何が難しいって、「普通」を作るのがとにかく難しい。自分がいいと思ってたデザインを提案してもすぐボツになるし、諸先輩方のデザインが、なぜこんなに落ち着いて見えるんだろう?特別なことなんてしてないのに、キマって見える。(「おい、そっちにだけいいフォント入ってねぇか?」と詰め寄りたくもなった。結果、同じフォントしか入ってなかった。)
それらを当たり前に世に出し続ける商業デザイナーの技とセンスがとにかく眩しかった。
普通のデザインが受け入れられる理由とは?
日本で商品やサービスを売るには、まず「普通」の水準に立つことが大事だ。どんなものでも、日常に溶け込むことができないものは、怪しい、ぼったくられる、損をする、といったイメージが先行する。(もちろんそういう変わったものに吸い寄せられる人もいると思うが、大多数ではない)
それは集団心理に影響されやすい国民性だとか、個性を認めない人が多すぎる、とかではなくて選択的知覚という行動経済学に基づいた消費者心理行動なので、人間がそういうふうに進化してきたという結果だ。日本人は特にその傾向が強いのだ。(情報コンセンサスがどの国の人よりも高いという結果だ、喜んで受け入れて前に進もう)
鉄道マニアの自由は、不自由のたまもの
そう言っておきながら、日常に溶け込むということは、目立たなくなるということで、広告というのは目立たないと意味がないのだから、実に矛盾している。だけど自由ってそういうものだろう。大学時代の恩師から教えられたことの一つに「自由というのは、不自由を定義するところから始まる」といった言葉がある。不自由さがない自由は、無秩序なだけで本当の自由とは違うということだ。
理解してほしい。鉄道マニアと言っても様々で、乗り鉄は電車に乗ることに興奮を覚えるし、鉄道模型マニアは実物よりも模型であることに熱をいれる。乗り鉄は、日常の「電車に乗れない」不自由から開放されるために、電車に乗るし、鉄道模型マニアは「手で持てない・所有できない」不自由があるから、模型を集めるのだ。
で、結局オレが一番言いたいことは、日本の化粧品売り場ってものすごい広告クオリティが高いってことだ。そしてそれ同様の、気づかぬ工夫に満ちたクライアントの希望を形にしているデザイナーの努力はそこら中に溢れているということに気づいてほしい。
世の中は誰かのデザインで満ちている
とにかく日常はデザインに溢れている。目を開けて、だれかがデザインしたものが目の前にある。チラシやCMだけでなく、スマホのプロダクトデザインも、朝起きたときに見た天井のクロスの柄も。それらは素晴らしいし、考えられて溶け込んでいるだけで、もっと皆で享受すべきだと思う。俺はこんな日常のデザインクオリティが高い現代にマジで感謝する5秒前だ。
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