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コミュニケーション頻度が減り、まとまりない下書きが貯まる

在宅リモートでコミュニケーションの機会が大幅に減った。更に最近、少しずつ出社する機会が増え、ひさびさに人と会って対面でのコミュニケーションを実感する。人と会わないなら会わないで、リモートに慣れたような感覚もある。

先日、高校生のランチ時にひとりでいる率、みたいな統計をみた。男女差が大きく出るらしい。僕はひとりのほうが気楽だったので、ひとりで食べていた。人といるのが嫌いというわけでもない。リモートでも、誰かといたい人、ひとりでも大丈夫な人などいそう。

リモートで慣れると、見えなくなることもありそう。それは、100ページある物語から、いつの間に80ページ抜き取られても、なんとも気にせずに読み終えてしまえそうなことで。20ページが100%だと思う人を、不憫に思う必要はないのかもしれない。Youtubeに上がっているドラマやアニメのダイジェスト版をみると、意外とそれで満足してしまったことがある。

普段は対面で話すような、言わばちょっとした演劇や映画のようなコミュニケーションから、ビジネスチャットのテキスト、しかもシチュエーションや心理描写に関係なく、宛先の明確なカギカッコ内の記号だけ交わしあうコミュニケーションに変わる。完全に独立独歩のスタンドアローン型ならいいのかもしれない。うすらうすらと、行き先不明の「 」が蓄積する。

いま僕のスマホのメモアプリや、evernoteや、noteの下書きには、けっこうな量が貯まっている。日頃からあることないことをテキストとして書き留めている。でも最近の内容をみると、どれも共通してまとまりがない。この文章より更にまとまりのない言葉がたくさん。それらを眺めていると、どうも、ひとりで考えてまとまらない言葉なんだ、と思えてきた。

ひさびさに人と会って、話して、感じること。当たり前だけど、人はコミュニケーションを通して、考え、行動している。いざ離れてみると、人間社会の中で、個人が整理されているような気がする。

考えると、慌ただしく動いていた以前は、数日に1記事ペースで書いていた。繰り返す生活のなかで、犠牲にしていた部分もあったので、以前のようなペースに戻ろうとは思わないけれど。

リモート慣れしてる人も少ないし、自分自身もこんな機会に考える。不慣れな部分もあれど、リモートと対面それぞれに良し悪しがある。でも適度でないコミュニケーションがずっと続くと、息がつまってしまう。

だから引き続き、下書きでもなんでも、場所を選んで、まとまらないものを書き出しておこう。まとまってないと、と思いつめないほうがよい。そして適度に息を抜こう。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。