ようやく取れた障害者手帳


3からの続きです。

今から思い返すと本当に色々ありました。
記憶を辿っているので話が前後するかもしれませんが、お付き合いお願いします。

徳島大に診断書を送ったものの、中々書いて貰えず、主人が徳島大の主治医に連絡して、徳島大の予約を取り、向こうまで行って書いてもらいました。助手席に座ってるのも辛い状況で。出来ないことが余りにも多くて、両上肢、両下肢共2級合わせて1級という診断。まさか1級とは?と。少しショック!ここまで悪かったのかと.......

区役所の支所に提出したのが2014年7月。審議会にかけないと出せないと言われて、本来9月にある審議会が12月迄ないと言われて。それと書類に不備があるとも。どこが不備なのかとどう書けば良いのかリハビリセンターの職員の方に何度も聞いて、リハビリセンターの先生の助言も聞いて先生に伝えて、それを何度も繰り返し12月にようやく障害者手帳を貰うことが出来ました。

指定疾患になってて認知度が高い疾患は身体障害者手帳が簡単に交付されますね。これは不公平だと感じました。余談ですが、現に歩けるのに指定難病であるのをいい事に役所に行く時とかだけ車椅子で出掛け、普段は普通に働いてる人もいました。

母なんてペルスメータを入れただけで、入院中に身体障害の1級が貰えたのですから、分かって貰えない病気は本当に大変だと思います。

その後は役所の方が段取り良く進めて下さって、ヘルパーさんの事業所とか障害程度区分とか1日で終わらせて貰えました。

病院は相変わらず京都医療センターに通い、徳島大で障害者手帳発行して貰えたと言えば、主治医はじゃあ此処には来なくていいね。これからは武田病院で診てもらってと。これ迄の事は病院に送っておくからと。本当になんて言う先生なんだろうと。そして後心療内科にもかかるようにと。完全に精神を病んでると思われてたのだと。プライドだけなんだなと。

心療内科にも行きましたが話す事は何も無く、行くだけ無駄だと思い行かなくなりました。

電動車椅子を玄関に入れやすいように工事をするのと、古くなったお風呂をバリアフリーにする工事をする事に。
どうせするなら工務店をしている父に頼みたくて、市の指定業者に登録するのに書類を作成。
一緒に市役所迄行きました。それは簡単に通りましたがその後も色々と書類やカタログが必要で、全て終わった時に倒れてしまいました。

病気になってから少しづつ痩せ始め、初めは気にしてなかったのですが、流石に40kgを切るとおかしいと感じ始め食べるようにしてましたが、それでも減っていく。

ある夜晩御飯を食べた後胃が凄く痛くなり、実家から自宅まで(5分程度の距離)を父と娘についてきてもらい、何とか帰りました。痛みは全く収まらず救急車で医療センターで診てもらうと、胃の中に食べ物が貯まっていて鼻から吸い出すことに。初めは細いチューブだったようですが、固まっていたらしく出なくて太いのに変えられて、鼻が痛くて痛くて涙が出るくらい。
何とか出してもらって痛みは消えましたが、そのまま帰されて。
その余りの痛みに食べるのが恐怖になって水分も取れず、医療センターに行き、丁度年末に近かったので入院させてもらいました。今思うとこれも病気のせいだったのだと分かりますが。
退院する時に先生からこれは繰り返しますからと言われて、余計に恐怖になりました。そして神経内科の先生も武田病院に送られたから、こちらもこれからは武田病院でお願いしますねと。診たくないということかと。

この後も又食べられなくなり、自宅で訪問医さんに来てもらい点滴をしてもらいましたが、入院した方が良いと言われ、武田病院に紹介状を書いて貰い行ったのですが、入院の必要は無いと言われ、そこでヘルパーさんが粘ってくれて神経内科で診てもらったり、先生に食べられないんですと訴えてようやく入院出来ました。

でも体重がどんどん減っていき、血圧も下がり寝返りだけでも目眩がする。それでも普通の水分補給の点滴のみ。このままでは死んでしまうと。私の命もここまでかと本当に思いました。

5へ続く


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