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ハレとケとは?

皆さんおはこんばんにちは!
(4618文字/約6分で読めると思います。)

今年の「緊急事態宣言」期間と「まん延防止等重点措置」の適用期間を除く「何でもない日」というのが、たったの28日しかなかったというのを聞きつつも、本当の緊急感があったのは、それこそ最初の1,2ヶ月だったのではと個人的には感じていたので、人間の慣れというのは適応能力としては高いけど、それはそれで恐ろしいなぁ思った今日この頃です。

そんな緊急事態宣言も最近になって緩和されはじめて、仕事終わりに同僚と飲みに行って、話すみたいなこともできるようになってきましたが、そんな昔は何でもなかったような時間がとっても楽しく感じますし、そんな予定がある前日は、旅行前のようにワクワクしますし、当日会う前は少し緊張なんかしたり。

「人と会って、呑んで話す」という行為だけを見れば何か特別なことではないですし、それこそコロナ前では当たり前の日常であったわけでしたが、その当たり前を長らく体験しないと、その日常体験は非日常になるんだなぁと改めて実感しました。

そんな日常と、非日常ですが、日本には古来より「ハレ」と「ケ」という考え方があることを知り、つまりは日常と非日常を表すものですが、エンタメにせよ、ビジネスにせよ非日常というのは、希少価値が高いので、そこに価値が生まれるわけで、今回はそんな「ハレ」と「ケ」について触れていきたいと思います!

ハレとケ

ハレとケとは?と聞くと、普段から馴染みのない言葉の組み合わせなので、聞こえ自体は違和感がありますが、実は日本人の伝統的な世界観の一つであり、「ハレ」はお祭りや年中行事などを行う特別な日、非日常という意味があり、「ケ」は普段の生活を表し、日常という意味を持ちます。

この言葉を定義したのは、日本を代表する民俗学者、柳田國男さんで、日本人の伝統的な世界観を表現するために定義した言葉だそうです。

ハレの語源は「晴れ」であり、非日常に関連付いた空間、服装という意味でも、晴れの舞台、晴れ着という言い回しが使われていますね。晴れというと天候のように感じますが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録があったりと、天候に関連する表現であったことも窺えます。(これに対し、普段着のことは「ケ着」と表現されていたそうですが、明治以降からは使われなくなったそうです)

非日常はハレで、日常はケというのは分かりましたが、なぜこのような言葉を定義したのかというと、それは日本人という民俗の変容を指摘するためにあったと言われています。昔の日本におけるハレの日というのは、普段は口にすることができない白米や魚、酒などが振る舞われ、それらは決して日常的に手に入れられるものではない非日常のものでした。

しかし、戦後から高度経済成長を経た日本にとって、美味しいものや派手な物を手に入れられる機会は増え、大量消費社会へと進んでいったことによって、それまで捉えられていたハレとケの区別が曖昧に変容していることを指摘しました。このように、日本人というものが、過去・現在の比較から未来へどのように変容していくのか、という分析の軸の一つとしてハレとケが定義されたと言えます。

そんなハレとケですが、1970年代に入ると、新たに「ケガレ」という概念を足そう!という新しい視点が生まれ、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯れていってしまう、ケが枯れてしまうということを「ケガレ」とし、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復するものといった議論や考え方が展開されました。今日に至っても、統一的な定義はなされていないそうですが、分析モデルとしては非常に面白そうです。

現代のハレとケとは?

ハレとケの言葉の定義やその変遷について触れてきましたが、翻って現代におけるハレとケとはどういったものでしょうか?自分だと大学在学中に入っていたダンスサークルにおける本番のステージなどがハレだったような気がしますが、インターネットやSNSによってハレばかり気にするようになったという記事も見つけて、なるほど、、となってしまいました。

例えばインスタグラムのストーリーは非日常的な場面や、映えるようなシーンを抽出して乗せることが多く、自分の身の回りがハレばかりで埋め尽くされてしまい、ハレ以外のことは共有しにくい雰囲気すらあります。

このように、その場で記録したものを、切り取ったり、ハレっぽく編集したりしてすぐに共有できる時代だからこそ、本来は非日常であったはずのハレが溢れ過ぎて、ケが見当たらないという状況になっているのかもしれません。

よく父が言っていたのは、一昔前まではデートを申し込むとき、相手のご実家に緊張しながら電話して、なんとか日取りまで抑えてこぎつけたとしても、当日は待ち合わせ場所で無事に会えるのか、なんて緊張感もあったそうで、まさにハレといった感じですが、今ではLINEで日程を決めて、当日は現在地を送れば一瞬で会うことができます。

このような変容に対してやや寂しく感じてしまうかもしれませんが、それは時代の変化によるものであり、あの子からLINE聞けるかな。。?みたいなドキドキ感は今でもあったりするかもしれないので、そのような変化を捉える一つの軸として、ハレとケを考え直してみるというのは重要かもしれません。

サービスやエンタメにおけるハレとケ

昔はハレだったけど、今ではケになりつつあるよねみたいなものあるかなぁと考えてみたところ、映像作品などはどんどんケになっている気がしました。

映画は基本的には映画館に行って鑑賞するか、公開終了後であれば、ゲオやTSUTAYAに借りにいくというのが普通でしたし、新作は1泊2日でもかなりの料金なので、準新作になるまで待つ、、なんてこともあったので、映画館で見るという行為はかなりハレに近かったと思います。

それが今ではNETFLIXやAmazon Primeなどの配信サービスを通じて世界中の最新作が定額で、いつでもどこでも鑑賞することができます。便利かつ、お値打ちなので、これはこれで嬉しいことですが、映画を鑑賞するという行為がハレではなくなってきているという見方もできそうです。

映画館に映画を見にいくという行為そのものがハレでなくなったいま、ただ面白い作品だから、広告費を沢山かけているから見にいくということは減っているような気がします。(かくいう自分も映画館で映画を見ることは以前より減りました)

では、何を持ってハレとなるのか、という部分ですが、キンコン西野さんはコミュニティを絡めているか否かという答えを出していました。最近見た映画は「シン・エヴァンゲリオン 劇場版」ですが、公開終了後、1ヶ月と経たずにamazonで配信されていたので、内容を知りたいというだけであればわざわざ観に行く必要はなかったと思います。

ただ、エヴァのアニメシリーズが始まったのは僕と誕生年と同じで、そこから新劇場版シリーズが始まったのが2007年ということで、当時小学生だった自分にとってはかなり衝撃的な作品でしたし、そんなエヴァシリーズがついに終わりを迎えるとなれば、作品を見にいくというよりかは庵野さんの付けたケジメをこの目で見届けるという意味合いが強かったと思います。

映画館の中の雰囲気も、「お互い、見届けましょうね」という謎の結束感のようなものが出来上がっていて、その空間はまさにハレであったと言えます。

このように、作品自体に紐づいたファンのコミュニティが濃ければ濃い ほど、一つの映像作品という枠を超え、視聴体験や、同じ体験をしたもの同士の会話や、その場を共有するというハレの要素が強くなっていき、それがなければわざわざ見に行かなくても、配信されるまで待とうということで、ケとして処理されてしまう、残酷でありながらも、現代のハレとケにはこのようなコミュニティ内での共同作業という要素が不可欠なのかもしれません。

変身ベルトはあるか?

西野さんはハレについて、変身ベルトの有無についても言及していました。体験であれ、空間であれ、そこに居合わせた者が、普段とは違う何者かになれるのか否かという線引きがハレとケに関わってくるということです。
結婚式のウェディングドレスは晴れ着と言われるので、分かりやすいですが、ここでいう変身というのは見た目や役割のことを指しています。

先に述べた学生時代のダンス公演も、誰からも求められているわけではありませんし、ましてやギャランティーが出るわけでもありませんが、自ら衣装を買って、スタジオ代を払って、公民館を貸し切って、時間とお金を投下しまくって一つの舞台に立ちました。

その舞台に立った一瞬はまさに変身ベルトを付けた瞬間であり、スポットライトを浴びて踊るという一場面は普段の自分が変身した姿そのものであり、あの空間、体験というのはハレそのものだったはずです。

このように、ギャラが支払われるどころか、自分からお金を払ってハレを体験しにいくというのは現代のサービスでもよく見られることで、BBQやキャンプなど、普段できない火付け役や、食材の調理、テントの組み立て作業などの役割、変身ベルトがあるので、お金を払って仕事をするというのが成立しています。

他にも、チームラボの作品などはこのハレの典型なのではと感じました。建て付けとしてはデジタルアートの鑑賞体験というもので、美術的な側面が強いですが、圧倒的な空間演出と没入感から、誰でも特別な空間にいる登場人物の一人に変身して写真を撮ることができます。

このように変身ベルトの有無というのは、BBQのように自らお金を払って参加するハレとしてのサービスが成り立つのか否かと同義であることが分かってきましたが、変身ベルトがない現場というのはいわゆるギャランティーをお支払いしてケとして働いてもらうという判断軸にもなってきそうです。

いずれにせよ、自分が考えてるサービスなり、商品なり、それはハレそのものを担えるものなのか、それとも、ケとして動いてもらうもなのか、ハレを楽しむためのケをサポートするものなのか、などハレとケの基準で整理するのは面白いかもしれません。

めくるめくハレとケの世界

ハレとケの言葉の定義から、現代における捉え方、サービスへの転用などを見てきましたが、この感覚は、古くからのお祭りや儀礼が多い日本だからこそ生まれたものであり、サービスや商品、空間設計など様々な領域で求められる考え方だなぁと感じました。

同時に、インターネットやコロナ禍において色々な価値観が動き、時代の変化スピードも早くなっているので、ハレとケの線引きやそれぞれの条件などの変わり方も早くなっていきそうですし、何か商品なりサービスを設計する上でも、これはハレとして提供するのか、できるのか?という点は考えていければと思いました。

とはいえ、ハレがあるからこそ人はケのなか感じる辛さやキツさを乗り越えて頑張れるわけで、どちらも必要であることには変わりないですし、最近は友達と飲みにいくという行為だけが自分にとってのハレとなっているので、各々の行動パターンによって、個人レベルで変わりうるものでもあるような気がします。

世間一般で言われるハレ(ライブやフェスとか?)も純粋に楽しみながら、何をハレとするかは自分で決められるような気もしますし、その方がケも頑張れそうな気がするので、ビジネス面での転用も考えながらハレとケの移ろいも楽しんでいければと思いました!ではまた!

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