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インターネットは世界を退屈にしている

『働きアリの法則』というものがある。説明は wikipedia から引用する。

・働き蟻のうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。
・よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。

働きアリの法則 - Wikipedia

なぜこのようなことが起きるか、についても wikipedia から引用する。

働く蟻と働かない蟻の差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」によるという。アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く、という形で、仕事の分担がなされている。

遺伝子的な差なのか分からないが、そういう事らしい。

この法則が人間にもある意味で当てはまっており、それがインターネットによって割合が崩れてしまって”よく働くアリ”の割合が減ってしまって、結果的に世界を退屈にしてしまっているんじゃないだろうか、と思ったので書き殴ってみる。


人間界において、『働きアリの法則』の話は会社などでも同様だと言われていたりする。2割が凄く頑張って、6割が普通に頑張って、2割は良くサボっている。

個人的な感覚で言えば、企業をする人は良く働く2割の人という気がする。そして、雇われるのが普通に働く6割とサボる2割。会社の規模が大きくなると雇われても”よく働く”状況になる人が表れて、そういう部長がいたりいなかったりする気がする。そして、そういうポジションの人が急に引退したり転職したりすると内部の人がどうにか頑張って”よく働く”2割に移行していく。そうしないと会社が保たれず、場合によってはそのタイミングで会社はなくなる。

さて、この働きアリの法則を人間界においてどのように置き換えてとらえるか。個人的には「能動的な人」と「受動的な人」と考えるとそれなりにしっくりくる。何らかの集団があれば、その中で能動的に判断し行動する人が少数派であり、多くの人はそれに追従していく。

これが、学校や会社など特定の範囲の集団になれば全体が把握しやすく、その中で「能動的な人」になるか「受動的な人」になるかは徐々に決定していく。

例えば学校のクラスで「学級委員を決めよう!」という話になる。多少の人数の差はあれど、おそらくどのクラスでも0~3人程度の希望者が表れて決定される。0人の時も、数秒の間に誰かが「じゃあ私が」と挙手するようなこともきっとあるだろう。これが人間界でいう”働きアリの法則”のイメージに凄く個人的には結びつく。集団の中で必要に迫られて行動する際に、その集団の中でより能動的な人が率先して行動していく。

授業中の問題に対する挙手や、話し合いの際に意見を言う人やまとめる人などもそうだ。徐々に役割が決まっていって特定の人だけが話したり行動して、それに他の人は追従するだけになっていく。きっと集団で行動するにはこれが適しているのだろう。『船頭多くして船山に上る』という諺もあるように、能動的な人の割合が高すぎる集団がまとまった状態で維持されるのは難し過ぎる。


今回話したいのは、そういう”よく働く”人がインターネットで世界中が繋がっている場合にどうなるだろうか、ということだ。例えば、youtube というサービスの利用者や運営陣がいて、この youtube における”よく働く”人を考えてみる。

まず運営陣について考えるが、この全員がyoutubeにとっての”よく働くアリ”ではない。きっと youtube のチームの中でも働きアリの法則がある程度適用されて、youtube チームの中の 2割が”よく働く”状態になっているのだろうと思う。この部分は一般的な会社と同じで限られた集団として機能しており、働きアリの法則が通常通り適用されている気がするので今回は気にしない。

ただ、サービス利用者側を考えた場合はそうはならない気がしている。動画を観る人と作る人、その他色々いるのだが、それらの人はインターネットを通してサービスを利用しており、自分の環境を正確に把握していないはずだ。利用者の上位 2割が自動的に”よく働く”という状態になるのは難しい環境ではないだろうか。

オフラインの状況で考えれば、例えば100人でどこかに遊びに行ったが訳あって何もすることがない状況になった。そういう状況であればその中の20人が他の人を楽しませるためにトークを回したり手品を披露したりして、他の人はそれを観たり、それに追従して何かをしたりするのはまだイメージ出来る。

youtube の場合、暇な人が100人いても、その大多数がただ動画を観るだけになり、コンテンツの作成をするのはごくわずかだ。例えば日本では数%だというアンケート結果も出ているし、感覚値としてもそんなもんだろうという気がする。

性年代別でのYouTuber(動画をYouTubeに投稿している人)の比率は、全体で4.3%で、男性が全体で6%、女性が2.6%となった。

Impress Watch

そして、きっとこの投稿する人の中にも”よく働くアリ”は2割しかいない、それ以下かもしれない、と考えるとそんな気がしてくる。何となく他人の企画を真似しているだけの人などが大量にいる。


世界を退屈にしていると考えている理由の1つはそれだ。”よく働くアリ”がインターネットによって2割より低い状況になっているのではないか、と思うのだ。

インターネットがもたらしたのは圧倒的な情報網である。それにより得られたものと失ったものがきっと沢山ある。今回の話に繋げるならば、誰かにとっての”よく働くアリ”を簡単に見つけられるようになってしまったことにより得られたものと失ったものがある。失ってしまったのは、インターネットが無ければローカルな集団の中で”よく働くアリ”として活躍したかもしれない人ではないだろうか。そういう人を”普通に働くアリ”にしてしまっているのではないだろうか。

少し話はそれるが、スポーツ選手には4,5,6月生まれが多いという説がある。劇的に違う訳ではないが、その傾向はあるらしい。東大合格者なども。

その理由として上げられていることの1つに「幼少期における同学年との相対的な優位性」があげられる。それによって自信がつくとか、モチベが上がる等でより頑張れるらしい。

狭い世界ではそういうことが起きたはずだ。良くも悪くも「自分が世界で一番だ!」と思っている井の中の蛙がオフラインのローカルでは大量に発生する。自分の世代の男で言うと「俺が一番スマブラ強いよ!」という人が大量にいる、みたいな話だ。

だが、スマブラがインターネットで簡単に対戦できるようになり、インターネットで世界大会が簡単に見れるようになった今「俺が一番スマブラ強いよ!」と言える人は圧倒的に減っている。「俺もそれなりには上手いけれど、世界一に比べたらまだまだだな」と思ってしまう機会が圧倒的に増えたし、そのゲーム内の数値などで簡単に比較出来てしまう。

自撮りをSNSに上げている女の子も、インターネットが無い世界だったなら学校で1番だったり、住んでる地域で1番だったり、働いている会社やビルで1番だったりしたはずだ。それが、SNSで他人を見て「私はそうでもない。あの子の方が可愛い」と思ってしまう機会が増えた。隣の芝は青い。


そんな状況が何を引き起こすか。「自分より凄い人がいるから、その人を参考にしよう」と思って行動してしまう機会が増えるのではないだろうか。その結果が、昨今の原作ありドラマや映画、実写映画の大量発生を招いているんじゃないか!と思ったのだ。

「コンテンツは大量にある。簡単に安く楽しめる。世界から退屈はなくなった!」と思う人もいるだろう。本当にそうだろうか。本当に”退屈”じゃないだろうか。何となく番組を観ながら、何となくアプリで遊びながら、何となく日々を過ごして”退屈”じゃないと思いこんでいるんじゃないだろうか。

称賛も批判もSNSであっという間に広がるようになった。例えばコンテンツ発信者はその声を浴びせられる立場に立たざるを得ない。ランキングやフォロワー数、チャンネル登録者数、など数字も意識させられ続ける。

インターネットによって優秀な何かを参考にしやすい環境になり、優秀な人は増えた可能性は高い。誰でも学べるようになり、情報にアクセスしやすくなったことでどんどん優秀な人が増えている気はする。それが余計に”退屈”を加速させている気もする。上手に参考にして何となく良いものを作ってしまうのだ。

大親友のA君だけが爆笑してくれた一言。中学の時の部活のメンバーだけが分かる大爆笑モノマネ。そういう何かの延長にあった、誰かにだけ分かる面白い尖った何かが生まれにくくなっているんじゃないだろうか。

以上。


またどうでも良いことを書き殴ってしまったね。今日、ダウ90000900000000を観て、ホリエモンのyoutubeを観てたらそんなことを思った。

動画の中で、優秀な側の人とそうではない人との会話が繰り広げられている。能動的な人とそうではない人、という違いもある気がする。両者の主張と感情とが入り混じっている。

最近、自分の仕事のことで色々考えていることがあって悩んでいることがあって、その中で「優秀か否か」という軸と「能動的か否か」という軸があるのかもしれないと今日動画を観ていて思った。多くの場合、大活躍している著名人は優秀であり能動的である。

その人が何か意見した時に「優秀ではない人」がどこまで意見を理解出来ているのか、という話と「能動的ではない人」がどこまで感情的に理解出来ているのか、という話がある気がしている。

そんな話はまた今度するとして、今回はその中の「能動的か否か」という話が働きアリの法則で説明つきそうな気がして書き始めた。ホリエモンが「優秀で東大行ってんのに企業しないで就活してるのバカじゃないの?」みたいな発言をしていたが、きっとそれは「優秀か否か」ではなく「能動的か否か」の問題であり、能動的じゃない人は誰かの会社に入って働く方が楽だしそれで良いと思っているんじゃなかろうか。

Xでも今日たまたま見かけたポストで「管理職になりたがらないって話がよくわからない。管理職のメリットはどうのこうの」ってのがあって、その時にも上で書いたことを思った。それは性格の違いによるものだ!と。さっき見たらそのツイート主が鍵かけてたのでツイートは貼れないけれども。

長くなっちゃったので蛇足も終わり。

更に蛇足だけれど、最近youtubeでチャンネル登録したのは2nds-セカンズ-さん。tiktokでたまたま流れてきていくつか観てたら面白かったのでyoutubeも登録したら面白いw結局”退屈”とか良いながら、何かを見つけて生きていくんだろうし、俺は結局能動的側の人間なんだろうとも思っている。


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