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奇想の絵師・伊藤若冲【好きな物を好きなように描いた人生】

伊藤若冲に関心がある人なら、2016年に開催された若冲展をご覧になったかもしれません。
最長で4時間待ちの行列ができる盛況ぶりで、待ち時間の長さが記事になったほどです。

江戸中期に活躍した若冲は、曽我蕭白や長沢芦雪らと並んで「奇想派」と称される絵師です。
40代で画壇にデビューし、当時としては異例といえる85年の長寿を全うしました。
しばしば円山応挙のライバルとして名が挙がりますが、生前の知名度は応挙のほうが上でした。
しかし現在では、応挙をはるかに凌ぐ人気絵師として知られています。

この記事では、若冲の生涯と作品を中心に解説します。彼の代表作の1つとされる《動植綵絵》から2点を厳選しました。
日本美術が好きな人や若冲ファンにとって興味深い内容になっています。
最後まで読めば、奇想の絵師の魅力を理解できるでしょう。

伊藤若冲の生い立ち

まずは若冲の人生について簡潔に説明します。

京の青物問屋に生まれる

時は1716年、京の錦小路にあった青物問屋「枡屋」に跡継ぎの長男が誕生しました。
この男児が後の伊藤若冲です。
青物問屋とは、現代でいうところの野菜の卸売業。升屋は裕福な商家だったため、若冲は晩年になるまで経済的に恵まれていました。

1738年に父の宗清が亡くなり、若冲は23歳で家督を継ぎ4代目の当主となります。
彼の盟友だった大典和尚が著した『藤景和画記』には「女遊びや酒の付き合いといった人の娯しみにもとんと興味がなかった」と記されています。
この一文から、商売人に向いていなかったことが伺えるでしょう。

若冲は敬虔な仏教徒で、とりわけ禅の教えに傾倒します。そのため若冲は禁欲的な生活を送りました。
妻を娶らなかったのも、おそらくそれが理由だと考えられます。

40歳で絵師の道に進む

不惑の歳を迎えた若冲は、弟の宗厳に家業を託して画業に没頭します。
そんなに早く引退して大丈夫かと心配になるかもしれませんが、いわば前社長という立場だったため生活には困らなかったのです。兄を敬愛していた宗厳は、若冲への援助を惜しみませんでした。
つまり好きな物を好きなように描ける経済的な自由があったのです。

若冲が本格的に絵を描き始めたのは30代頃といわれています。
狩野派の流れを汲む絵師から基礎を学び、写生や模写を通じて独自のセンスを開花させました。
「若冲」という名を使いだしたのもこの頃で、仏門に帰依して在家の仏教徒になった後の通称です。

1768年には『平安人物誌』の画家部門に初めて名前が掲載され、絵師として着実に実績を積んでいたことがわかります。
私生活では3年前に自身の後継者と目されていた末弟が早世しており、その10日後に《釈迦三尊像》を相国寺に寄進しました。おそらく供養の意味が込められていたのでしょう。

晩年は生活に困窮する

1788年、73歳になった若冲は人生最大の危機に見舞われます。
京の町を襲った天明の大火により、住居や画室など家財道具を全て失ってしまったのです。
火事の2年後には大病を患うなど、年齢を重ねるにつれて確実に老いが忍び寄っていました。

その後は石峰寺の門前に庵を構えて、未亡人となった義妹(末弟の妻)と同居します。
心身ともにサポートしてくれる存在を得た若冲は画業に没頭し、晩年の代表作となる《仙人掌群鶏図》などを生み出しました。

若冲の生活ぶりは大火後に目に見えて苦しくなり、即興で描いた水墨画を売って米を手に入れたという逸話が残されています。
1800年、若冲は85歳で逝去しました。亡骸は石峰寺に埋葬され、今も静かに眠っています。

《動植綵絵》の魅力

続いては、今回のテーマである《動植綵絵》について解説します。
《動植綵絵》はもともと京都にある相国寺が所有しており、1889年に宮内庁へ献上されました。
現在は宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。
(リニューアルのため休館中、令和5年11月3日に一部開館予定)

30幅からなる大作で、それらの中から2点に絞ってまとめました。
ご興味があれば公式サイトから作品をご覧ください。

《桃花小禽図》

桃の花と戯れる小鳥を描いた1枚です。一連の作品の中でも柔和で優しい雰囲気が漂い、春らしさを感じられるでしょう。
枝ぶりから察するに、おそらく上に向かって枝が伸びる品種の花桃を描いたと考えられます。

葉と葉が重なり合う部分の間隔を空けて着色する堀塗りや、地の白を生かして鳩を描いた外隈など、高度な技法がさりげなく使われています。

注目すべきポイントは花のしべ。左から右へ移るにつれて「白→淡桃色→桃色」に変化します。
花の色そのものに絶妙なグラデーションが施されており、若冲の表現力が伝わるのではないでしょうか。じっくり細かい箇所を眺めてみると興味深いですね。

《牡丹小禽図》

画布全体に赤・薄紅・白などがちりばめられ、華やかさが際立つ作品です。
若冲は得意な裏彩色(うらざいしき)を封印し、顔料の濃淡を駆使してこの1枚を仕上げました。
裏彩色とは、絵の下地となる絹本(けんぽん)の裏から顔料を塗る技法。この技法を施した部分は、ない部分と比較すると仕上がりに微妙な違いがあります。

目の前に牡丹が咲き乱れているような錯覚を覚えるほど写実的に描かれており、耳を澄ますと鳥の鳴き声が聞こえてきそうです。

目立たないところにあって判別しにくいのですが、わずかに残された空間に「丹青活手妙通神」という印が見えます。
これは「神に通ずる」という意味で、若冲と同時代に活躍した文化人・売茶翁から贈られたメッセージに由来するそうです。

日本庭園に欠かせない桃と牡丹

桃と牡丹はいずれも中国原産の植物です。
ここではそれぞれの特徴と日本庭園との関係について説明します。

桃について

桃は3月から5月にかけて見頃を迎え、ソメイヨシノより少し早めに開花するのが特徴。
花はもちろん果実も人気があり、美しい花を咲かせる品種は「花桃」と呼ばれます。
種類が豊富で、以下の4つが代表的です。


  • 立性品種:枝が上向きに伸びるタイプ

  • 枝垂れ品種:枝が下向きに伸びるタイプ

  • 矮性品種:高さ1m程度の小型サイズ

  • 一才物品種:種をまいてから1〜2年で花をつけるタイプ。他の種類より寿命が短い

桃は中国では不老長寿の象徴とされ、邪気を払う神聖な植物とされています。
山梨県の「笛吹桃源郷」や長野県の「花桃の里」など、各地に見どころが点在しています。

牡丹について

奈良時代に薬用植物として日本に伝わったのが始まりで、今では多くの愛好家に親しまれる品種。
4月から5月が見頃です。
シャクヤクと似ているため間違われやすいですが、まったくの別物。牡丹にはほぼ香りがないため、容易に区別できるでしょう。

大輪の鮮やかな花を咲かせることから「百花の王」とも呼ばれ、可憐で柔らかそうな花弁が重なる姿は見応えがあります。
東京の「上野東照宮ぼたん苑」や埼玉県の「東松山ぼたん園」など、やはり日本各地に名所が存在します。

まとめ:近年になって再評価された絵師

若冲は長らく歴史に埋もれた絵師で、再評価されたのは2000年代に入ってからでした。
今でこそ展覧会が開催されるほど人気になりましたが、かつてはただの風変りな人物と思われていたのです。
奇想の絵師と称される所以となった奇抜な作風が、現代の日本人にも受け入れられたのでしょう。

若冲の人気は衰えるどころか増すばかりで、美術展の目玉として採り上げられています。
複数の美術館に作品が収蔵されているため、今後も鑑賞する機会が訪れるかもしれません。

《動植綵絵》の他にも若冲の名作は多数あります。この記事を読んで興味を持った人は、他の作品も調べてみてはいかがでしょうか。


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