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清流には、森が溶けている ~四万十川の森紀行~ その①


中学3年生のとき、「四万十川・あつよしの夏」という小説が大好きでした。高知県西土佐村出身の笹山久三さんが、郵便局に勤める傍ら書いた物語で、名前の通り舞台は四万十川流域。小学校3年生の主人公・篤義(あつよし)が、四万十川の大自然に抱かれながら逞しく成長していく姿を追った大河小説です。

この小説の中には、四万十の人々の生活・風景・自然に関する描写が散りばめられています。それらを読み味わって、四国の大自然の中での暮らしを追体験するのがとてつもなく楽しかったのです。

四万十川と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは「清流」というワード。現在でも、四万十川は「日本最後の清流」として全国にその名を轟かせています。神戸のドブ川の側で生まれ育った僕は、「四万十」という清らかな地名に並々ならぬ憧憬の念を抱いていました。「四万十川」の小説が心に沁みたのも、その影響だと思います。

あれから経つこと5年。ひょんなことから、四万十の森を訪ねる機会を得ました。清流のみなもとには、必ず良い森がある。
小説の中でしか行ったことがなかった世界に、実際に飛び込めるんだ…。ワクワク感を胸の中で温めながら、現地へと出発しました。

(※)今回の旅では、公益財団法人「四万十川財団」の神田修さん、池田十三生さんに四万十川流域のご案内をいただきました。ご協力いただき、本当にありがとうございました。


四万十川のあらまし

四万十川は、高知県西部を流れる四国最長の一級河川。その全長は196kmにも達します。

四万十川の地図。四国南西部の山地を、逆S字の流路でぶった斬る。これだけ長い河川なのにも関わらず、本流に大きなダムはひとつもない。(オープンストリートマップより作成)

地図を見るとわかるのですが、四万十川はとにかく蛇行が多い。四国山地の不入山(いらずやま)で産声を上げた流れは、細かな湾曲を何回も繰り返しながら、大きな逆S字型のルートをとって土佐湾へと向かいます。こういった「二段階の湾曲」は、川の流れに大幅な遠回りを強いる。源流の不入山から河口の土佐湾までの直線距離はわずか54kmなのにも関わらず、本流の全長はその4倍まで膨れ上がっているのです…。

中流域・高知県四万十町の四万十川。流れが緩いところでは、川面に水鏡が出来上がる。

一般に、日本の河川は傾斜が急だと言われますが、四万十川はその数少ない例外です。四万十川の1kmあたりの高低差は、わずか5m。勾配が緩いところでは、水の流れがシチューのようにトロトロになり、水鏡が出来上がります。山奥深くを流れているのに、大平原の川のような緩やかさ。これも、地形の凹凸を丸ごと抱き込む蛇行流路のおかげでしょう。

有名な岩間沈下橋(高知県四万十市)からの眺め。
ずっと前に行った山形県の最上川も、こんな感じの緩やかな流れだったな…。

四万十川独特の、おおらかな流れを眺めていると、自然と心が安らぎます。おっとりとした流れざまからは、無限の包容力を感じます。
しかし視線を上げると、とぐろを巻きながら山々を分断する太い川筋が見える。山を呑み込むような、ダイナミックな湾曲は、大蛇を連想させます。そういう貫禄もまた、味わい深い。
懐の深さと、大河としての威厳を両方兼ね備えているところが、四万十川の良さなのではないでしょうか。

四万十川の上流域の淵。これでもまだ、濁っているほうらしい…。


原生的な森は少ない四万十流域

さて、本命の”四万十の森”へと向かおう。そう意気込んだのも束の間、四万十川財団の池田さんからこんな話が。

「四万十の山は、戦後の拡大造林で殆どがヒノキの人工林に変えられたんです。四万十流域は、良質なヒノキ材が採れる場所として昔から有名でしたからね…。辛うじて広葉樹の森が残されたところも、薪炭林として利用されていましたから、細い樹ばかりの二次林になっています。原生的な森が残っている場所は、ほんの僅かですねえ。」

むむむ。これは盲点だった。「清流四万十川」というと、人里離れた深山幽谷という感じがして、いかにも深い森が残っていそうな気がするのですが、実際にはその逆。

気候が温暖で、簡単に水資源を確保できる四万十流域は、有史以前から人が生活しやすい土地でした。それゆえ、当地にはかなり古い時代から人が侵入していたのです。少なくとも7000年以上前(縄文時代早期)には、四万十流域に人が定住していたと考えられています。日本で最も早く農耕が始まった地域のひとつでもあり、縄文後期には、稲作が行われていたとのこと。

数千年にわたって人間活動が続けられてきた結果、四万十流域の自然はすっかり里地里山化したのです。深い原始性を湛えたエリアは、殆ど残っていない、というのも納得。

四万十川の脇に広がる、広大なヒノキ人工林。四万十川流域の山々は、ことごとくヒノキ林に植え替えられており、本来の植生が残っている山はほんのわずか。
モコモコしたフォルムの照葉樹林。天然の森に見えるが、こちらはツブラジイ、アカガシなどを主体とする二次林。薪炭林として利用されていた広葉樹林で、内部に入ると細い樹ばかり。薪炭林と聞くとコナラ・クヌギのイメージが強いが、四万十川流域ではナラ類の分布は標高が高いところに限られるので、里山二次林で優占するのはカシ・シイ類となる。

さらに前述の通り、その昔四万十川流域からは、「幡多檜」と呼ばれる良質なヒノキ材がとれました。幡多檜は、薄くピンク色がかっているのが特徴で、その木目の美しさ、香りの良さは古来から多くの人を虜にしてきました。16世紀、当時の土佐国の大名であった長宗我部元親が、豊臣秀吉に幡多ヒノキを献上した記録も残っています。

莫大な利益をもたらす四万十のヒノキは、長い年月に渡って伐採され続けてきました。四万十流域の隅々まで木こりが入り込み、ヒノキの大木を伐り出して都へと運び出したのです。四万十の森は、そういった林業活動による利用圧を強く受けてきたため、「大木が生い茂る原生林」とは程遠い状態になっているのです。実際、四万十流域に、天然のヒノキの大木(略してテンピと呼ばれる)は今や殆ど残っていません。

高知県四万十町松葉川温泉付近に残る、切り通し。1930年代〜1950年代にかけて運営されていた、森林鉄道の跡地。ケヤキ、ヒノキの大木が軌道によって運ばれたらしい。

戦後の拡大造林の時代には、幡多檜の歴史を受け継いだ大規模なヒノキ造林が行われ、流域の山々は急速にその姿を変えていきました。照葉樹の天然林は一斉にヒノキ植林地へと植え替えられてしまったのです。四万十川沿いの国道を走り、広大なヒノキ植林地の脇を通過すると、大規模造林の歴史の一端を垣間見ることができます…。

これら諸々の事情により、四万十川流域には原生的な森が殆ど残っていないのです。

森の侵食にはムラがある

ただ、森が完全に消え失せたわけではない。

池田さんや、森林管理局の森下さんにお聞きしたところ、四万十川流域の中でも特に山深いエリアには、それほど広くはないものの原生的な森が残されているとのこと。

四万十川近辺の地形は、かなり複雑です。東京都とほぼ同じ2186㎢の流域に広がっているのは、ひたすら山、山、山…。200km弱の長大な流路は、ずーっと深い山の中を彷徨い続けるのです。
さらに、四万十川には300を超える支流が流れ込みます。大小さまざまな支流は、複雑に交錯した山並みの中で何回もとぐろを巻きながら谷を削り、地形の”彫り”をいっそう深くするのです…。四万十流域の山の奥深くに入り込むと、谷のレイアウトがあまりにも複雑すぎて、方向感覚が狂ってきます。

四万十川源流に近い、高知県津野町の山々。
とぐろを巻く無数の谷が、地形を複雑なものにしてゆく…。

そういう複雑怪奇な地形が広がる場所では、人間による森の侵食に、いくらかの”ムラ”が出ます。あまりにも山が深すぎたり、地形が急すぎたりする箇所では、産業的な森の改変を行うことができないため、原生的な植生が残されるのです。

四万十川流域もその例に漏れずで、支流の現頭部や、四万十川本流の源流一帯では、山深さが砦となって原生的な森が守られているとのこと。
池田さんにオススメの森をお聞きしたところ、こんな答えが帰ってきました

「四万十町大正の『市ノ又(いちのまた)渓谷風景林』の尾根沿いに行けば、天然ヒノキの大木が見れます。そんなに数は多くないですけどね。あとは、四万十源流の不入山(いらずやま)かな。あそこは、昔から禁伐林として保護されてきたので、大木が多いですよ。」

往時の幡多ヒノキ天然林の繁栄を感じ取れる森が残っているとは…。これは行かなくちゃいかん、ということで現地へと向かいました。

その②へ続く

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