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草木と生きた日本人 百合


一、序

 たまに貫く あふちを家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離
れず来むかも (『万葉集』巻十七・三九一〇)
 (ほととぎすがたまとして緒に通すせんだんの花を家に植ゑたのならば、山ほととぎすが絶えず来るでせうか)

 大伴家持の弟である書持の歌です。
 前回、栴檀の花、つまりあふちの花について紹介しました。その白く美しい花を、この季節に見た方もをられるのではないでせうか。私も、多摩の某所で栴檀の花を眺め、いにしへ人の感性や歌を思ひ起こしました。
 いよいよ暑くなり、夏を感じる季節になりました。梅雨の雨に、心いぶせくある人もをられるでせう。しかし、このお話しが皆様の御目に触れるころ、すなはち七月はいにしへ人にとつて秋でした。七月には多く、七夕の歌が詠まれました。そのせゐでせうか、『万葉集』には花の歌はあまり多くありません。
 今回は、あまり多くない花の歌の中から、『万葉集』の百合の花について皆様と学んでいきませう。

二、百合の花

 いつものやうに、『日本国語大辞典』で百合の花を見てみませう。

 「ユリ科ユリ属の植物の総称。地中に、白・淡黄または紫色の鱗茎がある。葉は線形または披針形。春から夏にかけ、大きな両性花が咲く。花は六個の花被片からなり、赤・桃・白・黄・紫色など。雄しべは丁字形の葯がめだつ。ヤマユリ・オニユリなどの鱗茎は食用ともなる。北半球の温帯に広く分布、観賞用に栽培されるものが多い。」

とあります。
 百合の花といへば、多くの方がヤマユリを想像されるでせう。私もさうです。その花言葉は「荘厳」。美しいお花です。小さいころ、母の故郷である山口県の某地で、草むらに咲くヤマユリのとても美しかつたことを見て未だに忘れられません。
 また江戸時代には、酒井抱一によつて「風雨草花図」が描かれました(東京国立博物館蔵)。その絵の中にはまさに雨風になびくヤマユリの姿が見られます。
 また、美しい女性を言ひあらはす言葉で「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」があります。私は、生まれてから一度もそのやうに言はれたことがありません。
 そのやうな素敵な百合の花ですが、『万葉集』ではどのやうに詠まれたのか、見ていきませう。

三、防人歌における百合

 私は以前、「続・東国人と花」の中で次のやうに書きました。引用してみませう。

 「筑波嶺の さゆるの花の ゆとこにも かなしけ妹そ 昼もかなしけ(巻二十・四三六九)
 (筑波山に咲く小百合のやうに、旅の夜の寝床でも、私の恋しい妻は昼も愛しいものです)

 この歌を作つた大舎人部千文は、常陸国那賀郡の出身です。
前回の東歌と同じく、東国のなまりが顕著に出てゐるのが特徴的です。「さゆる」は小百合。「ゆどこ」は夜床。「かなしけ」は愛しきです。民謡のやうに軽快な調べで、一見して防人歌とは思へない感じもするでせう。」

 この歌には明らかに百合の花が詠まれてゐますね。そして、「さゆる」と訛りが出てゐるやうに、関東の防人である大舎人部千文によつて作られました。東歌を含め、防人歌で百合の花が詠まれたのは、故郷に残してきた妻を思ふこの一首のみです。

四、大伴坂上郎女と百合

 では、都の人の場合はどうでせうか。まづは次の歌を読んでみてください。

 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ (『万葉集』巻八・一五〇〇)
 (夏草の茂る野に咲いてゐる姫百合のやうに、人知れず想ふ恋といふものは、苦しいものです)

 大伴坂上郎女の歌です。彼女は、大伴安麻呂の娘で、その生没年についてまつたくわかつてゐません。母は石川内命婦です。
 穂積皇子に嫁しますが、親王の薨去後、藤原麻呂に求婚されます。後に、異母兄である宿奈麻呂との間に坂上大嬢と坂上二嬢を生みました。坂上の名は、平城京北方の坂上里に住んだための通称です。兄の旅人(家持の父です)の薨去後、家刀自として大伴家を切り盛りしたと考へられてゐます。『万葉集』に、長歌六首、短歌七十七首を録されました。
 郎女の「夏の野の…」の歌ですが、見事な歌ですね。私の尊敬する犬養孝先生は、『万葉の人びと』(新潮社)の中でこの歌について次のやうに述べてゐました。引用長くなりますが、ご了承ください。
 
 「知らえぬ恋」というのは、人に知られない恋、片恋です。自分はその人を思っているけれども、むこうはちっとも思ってくれないのが”知らえぬ恋”。ああ、なんて苦しいものよ、というんですね。それは苦しいでしょう。自分だけ思ってむこうにちっとも通じないのですから。
 ところが、その心持ちが生きてくるのは、「夏の野の繁みに咲ける姫百合の」という言葉です。「姫百合」というのは、赤や黄色の花をつける小さい百合のこと。それが夏の野の、雑草がいっぱい茂っている中で、こっそり咲いているんですね。人が見ていないからといって、汚くは咲かない、きれいに咲いている。それはそのまま私の心です。相手には通じないけれど、自分だけ心燃やして、心の花を開いている。それは姫百合そっくりだということ。これまたうまい歌ですね。知らえぬ恋っていうのが本当に生きています。

 先生のお話しが、この歌の評価としてまことにふさはしく思ひます。もしかしたら、郎女も穂積皇子や大伴宿奈麻呂以外の誰かを密かに想つてゐたのか、また想像で作つた歌なのか、真実は坂上郎女のみが知ることでせう。しかし、巧みな歌です。読者の方にも、このやうな「知らえぬ恋」を経験された方がをられるのではないでせうか。

五、大伴家持と百合

 坂上郎女は、大伴家持にとつて叔母にあたります。そして、その家持にも百合の花を詠んだ歌があります。

 あぶら火の 光に見ゆる 我がかづら さ百合の花の 笑まはしきかも (『万葉集』巻十八・四〇八六)
 (ともし火の中に見える私のかづら。この百合の花が微笑ましいことです)

 天平感宝元年(七四九)、五月九日のこと。家持をはじめとした役人たちが宴をしました。なほ、当時の家持は越中守。現在の富山県知事です。この時、秦石竹が、百合の花蘰を三枚作つてさし上げました。その際に家持の作つた歌です。蘰とは、草花を髪に巻きつけて飾りとしたものです。
 この歌に対して、

 ともし火の 光に見ゆる さ百合花 ゆりも会はむと 思ひそめてき (巻十八・四〇八七)
 (ともし火の中に見えるさ百合の花、後にも会ひたいと思ひはじめましたよ)

と、この席にゐた内蔵伊美吉縄麻呂は応じて詠みました。四句目の「ゆり」は上代語で後のことです。百合と後(ゆり)をかけ合わせて詠むことは、この歌以外にも用例があります。

 関東の防人は、小百合の花に「かなしけ」妻を思ひ、都の人は姫百合にたとへて「知らえぬ恋の苦し」みを歌ひました。そして、髪に巻きつけて飾りとし愛したのでした。それぞれ、かたちは違へど、花の美しさへの心持ちは同じやうに感じてゐます。

 茅屋の近くにある民家の庭に咲く小百合の花、その花を見て私は自身の、そして坂上郎女の苦しき「知らえぬ恋」を、そしていにしへ人が暑い季節にひとときの清涼として百合の花の美しさを思ふのです。

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