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草木と生きた日本人 撫子



一、序

 おきて見んと 思ひしほどに 枯れにけり 露よりけなる 朝顔の花
 (朝起きて見てみようと思つたところが、枯れてしまつたよ。露よりもはかなき朝顔の花よ)

 『曾丹集』、または『新古今和歌集』の歌です。曾丹は、曾禰好忠のことです。丹後掾を長く務めたことから、さう呼ばれました。少し変はつた人でありつつも清新な歌を作りました。

 ゆらのとを 渡る舟人 かぢを絶え 行へも知らぬ 恋の道かな

この『百人一首』の歌はよく知られてゐませう。これも優れた歌ですね。

 甲子園での選手権大会も終はり、学校も始まり、いよいよ九月となりました。暑さはまだまだ続きます。しかし、夕暮れにはツクツクハフシやヒグラシの鳴く声が聞こえ、少しずつ涼しさを感じる時も多くなりませう。
 今回は、秋の七草の一つ、撫子の花について見ていきませう。

二、撫子の花

 いつものやうに、『日本国語大辞典』から撫子を開いてみませう。

 「ナデシコ科の多年草。北海道を除く各地の山野や河原に生える。茎は基部で伏臥し、分枝して後直立し、高さ約五〇センチメートルになる。葉は先のとがった広線形で緑白色を帯び、基部は連なって茎を抱き対生する。八、九月頃、枝先に淡紅色まれに白色で縁が細裂した径三~四センチメートルの五弁花を開く。果実は円筒形で中に黒い扁平な種子を生じる。北海道、東北にはエゾノカワラナデシコ、高山帯にはタカネナデシコなどの近縁種がある。秋の七草の一つ。漢名に瞿麦を用いる。かわらなでしこ。とこなつ。ひぐらしぐさ。なつかしぐさ。」

とあります。
 特に、『万葉集』はじめ歌に詠まれた撫子はカハラナデシコのことです。「撫でし子」(撫でるやうに大切に扱ふ子、愛する子、可愛い子)と語意が通じることから、女性に例へられました。
 清少納言の『枕草子』には、「草の花はなでしこ、唐のはさらなりやまともめでたし」とあり、当時の貴族から愛されてゐたことがうかがはれます。また、その異名である常夏は『源氏物語』の巻の名になつてゐます。
 さらに江戸時代には、平安時代に支那から渡来した石竹とカハラナデシコの交雑もあり、さまざまな品種がありました。
 前に記した通り、撫子は『万葉集』の時代から詠まれてきました。そして、その花を愛し、数多くの歌を残したのが大伴家持でした。

三、大伴家持と撫子

 『万葉集』を編纂したと考へられてゐる家持の撫子愛は強く、さまざまな歌を『万葉集』に残しました。
 その歌を見てみませう。

 秋さらば 見つつ忍へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも (『万葉集』巻三・四六四)
 (秋になつたら見て思ひ出してくださいネ、と妻が植ゑたわが家のなでしこの花が咲いてゐるよ)

 この歌は、砌の上の瞿麦(万葉ではしばしばさう表記されました)を見て作つた歌です。砌とは、軒下の雨水を受ける溝のことです。妹、つまり妻または恋人が植ゑたといふ点に心惹かれますね。この妹ですが、四六二番歌の題詞に「亡き妾を悲しびて作る」とあることから、下女または側室ではないかと考へられてゐます。または、虚構とする説もあります。どちらが正しいかは、わかりません。
 これに関連すると思はれる歌が、巻の八にあります。

 わがやどの なでしこの花 盛りなり 手折りて一目 見せむ子もがも (巻八・一四九六)
 (わが家のなでしこの花が今盛りです。手に折つて一目でもよいから見せるやうな人がゐてほしい)

 必ずしもさうとは言ひ切れませんが、「亡き妾」の姿を少なからず想像してゐるのではないでせうか。

 次の歌を見てみませう。

 なでしこの その花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日はなし (巻三・四〇八)
 (あなたはなでしこの花であつてほしいものです。さうならば、私は毎朝手にもつてあなたを恋ひしく思ふでせう)

 この歌は坂上大嬢に送られた歌です。大嬢は坂上郎女の娘で、のちに家持の妻になる人です。家持は撫子を植ゑた人を思ひ、撫子を妻のやうに思ふ人なのでした。
 また家持を想ふ人に、笠郎女がゐます。彼女は多くの歌を作り、家持に送りました。情熱的で、しかもはかない歌の数々、さう、彼女は片想ひでした。家持は彼女の想ひに満足行く応へをしませんでした。さうした中の笠郎女の一首。

 朝ごとに わが見るやどの なでしこが 花にも君は ありこせぬかも (巻八・一六一六)
 (毎朝いつも見るわが家のなでしこの花ででも、あなたは会つてくれないかナア)

なんと切ない歌でせう。彼女はきつと、家持が撫子の花を好きなことを知つてゐたのでせう。しかし、想ひは家持に届きませんでした。
 越中守の時にも家持は撫子を詠みました。「庭中の花」として、

 なでしこが 花見るごとに をとめらが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも (巻十八・四一一四)
 (なでしこの花を見るたびに、をとめの笑顔の美しさが思はれるよ)

歌中の「をとめ」ですが、妻である坂上大嬢のことでせう。やはり家持は妻を、そして撫子の花を愛したのでした。

四、やまとなでしこ

 前に記した通り、撫子はカハラナデシコのことでした。平安時代になると石竹が渡来しました。『万葉集』の中にも、撫子に石竹の字をあてたものがありますが、石竹ではありません。石竹について、『日本国語大辞典』を見てみませう。

 「ナデシコ科の多年草。中国原産で、観賞用として栽培される。茎は高さ三〇センチメートルぐらいになり、葉ともに粉白色を帯びる。葉は線状披針形で、対生。五~六月ごろ、茎頂に縁が鋸歯状に裂けた径二~三センチメートルの五弁花を開く。花色は紅・淡紅・白・紫紅色など。イセナデシコ、トコナツなど多数の園芸品種がある。からなでしこ。」

 この石竹と区別するためか、「やまとなでしこ」といふ呼び方が生まれました。

 あな恋ひし 今も見てしか 山がつの 垣ほに咲ける やまとなでしこ
 (ああ恋ひしい。今も見てみたいものです。粗末な家の垣根に生えたやまとなでしこを)

 『古今和歌集』に収められた詠み人知らずの歌です。この歌には、撫子に「可愛い子」といふ意味をもたせて恋の歌にしてゐます。
 もう一首。『後撰和歌集』の歌です。

 うちかえし 見まくぞほしき ふるさとの やまとなでしこ 色や変はれる
 (くり返して見たいふるさとのやまとなでしこの色は変はつてしまつたよ)

この歌も誰が作つたのかわかりません。前の歌と同じく、撫子に「可愛い子」といふ意味をもたせてゐます。

 江戸時代、陸奥へ旅する芭蕉は、

 かさねとは 八重なでしこの 名なるべし
 (馬についてきた少女に名を聞くと「かさね」と答へたので、かさねとは、花びらを幾重にも重ねた八重撫子の意味の名前であらう)

と詠みました。『おくのほそ道』の那須野のところに出てゐます。私は不案内ですが、俳句の世界では、撫子は夏の季語となりました。
 私は、旅先の野に咲ける撫子のその可憐な姿を見て、いつも心惹かれるのです。その美しさにあやかりたいものです。


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