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草木と生きた日本人 橘



一、序

 橘の みをりの里に 父を置きて 道の長道(ながち)は 行きかてのかも (『万葉集』巻二十・四三四一)
 (橘のみをりの里に父上を置いてきて、この長い道のりは行き辛いものです)

 右の一首は、駿河国の防人である丈部足麻呂の歌です。「行きかてのかも」といふところに、東国の訛りが表れてゐますね。
 前回は、続・東国人と花といふことで、防人歌を見てきました。東国人と、都人は同じ感性で草木を愛し、花に親しんでゐました。そして、その感性は今を生きる私どもも同じであり、防人の魂は今も私どもの中に生きてゐることにも触れました。

 梅雨が明け、八月も半ばとなり、連日の猛暑が続きます。
 私どもはかうした暑い季節を「夏」と認識してゐますが、実は旧暦を用ゐてゐたいにしへはもう「秋」でした。しかしながら現実には、まだまだ秋とは思へませんし感じられませんね。
 夏、面白いことに春と秋に挟まれたこの季節は『万葉集』に詠まれた歌がとても少ないのです。季節ごとに歌を分類した巻第八を見ても、その数は明白です。興味があつたら、一度開いてみてくださいね。
 そして、夏といへばほととぎすなど季節の風物がいくつも想像されますが、今回は特に橘を見てみませう。

二、橘

 その橘をまづ『日本国語大辞典』で見てみませう。

 「ミカン科の常緑低木。日本で唯一の野生のミカンで近畿地方以西の山地に生え、観賞用に栽植される。高さ三~四メートル。枝は密生し小さなとげがある。葉は長さ三~六センチメートルの楕円状披針形で先はとがらず縁に鋸歯がある。葉柄の翼は狭い。初夏、枝先に白い五弁花を開く。果実は径二~三センチメートルの偏球形で一一月下旬~一二月に黄熟する。肉は苦く酸味が強いので生食できないが、台湾では調味料に用いる。やまとたちばな。にほんたちばな。」

とあります。
 橘はその実、そして花、どちらも古くから私どもの先祖に愛されました。『日本書紀』の「垂仁天皇紀」及び『古事記』には、田道間守を常世の国に遣はして「ときじくのかくのこのみ(『古事記』に、登岐士玖能迦玖能木実)」を求めさせたことが書かれてゐますが、この「ときじくのかくのこのみ」が橘です。
 橘は、和歌の世界ではほととぎすと合はせてしばしば詠まれました。

 橘の 花散る里の ほととぎす 片恋ひしつつ 鳴く日しそ多き (『万葉集』巻八・一四七三)
 (橘の花が散つてしまつた里で鳴くほととぎすは、花を偲んで片恋をしながら鳴く日こそ多いことです)

 右は、大伴家持の父親である大伴旅人の歌で、その一例です。まさに、橘は夏の歌でした。
 また、『古今和歌集』には、

 さつき待つ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする (『古今和歌集』巻三・夏・一三九)
 (五月を待つて咲くたちばなの香をかぐと、むかしの恋人の袖の香がすることだ)
 
とあります。誰の作つた歌かわかりませんが、見事な歌です。
 また平安時代、平安京の内裏にある紫宸殿には「右近の桜、左近の橘」があつたことも知られてゐます。

 橘は『日本国語大辞典』にあつたやうに、常緑樹です。花のみではなく、実もなります。ゆゑに、夏以外にも歌に詠まれてゐました。
 『万葉集』において、よく知られたのは次の御歌でせう。声に出して読んでみてください。

 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜ふれど いや常葉の木(巻六・一〇〇九)
 (橘は、実も花もその葉も、枝に霜が降りてもますます青くある木であることよ)
 
 この御歌は、聖武天皇の御製で、和銅元年十一月九日(『万葉集』左注、『続日本紀』には十一日)に、葛城王と佐為王たちが橘の姓をたまはることになりました。その時に、聖武天皇が宮殿で宴を催され、その場でお詠みになられました。このやうなことが御製の左注に書かれてゐます。
 葛城王は後の橘諸兄で、右大臣や左大臣などを歴任しました。『万葉集』にも後述する優れた歌を詠み、大伴家持とも深いつながりがあつたと見られます。
 この時、橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、
 
 奥山の 真木の葉しのぎ 降る雪の 降りはますとも つちに落ちめやも (『万葉集』巻六・一〇一〇)
 (奥山の真木の葉をなびかせて降る雪が降りしきらうとも、橘実が地に落ちることなどありませうか)

と詠みました。
 聖武天皇は、これから橘姓を得て臣籍降下する諸兄に対し、実も花も葉も、霜が降つても「常葉」、永遠に色の変はらない、節を曲げない人であつてほしいと願はれたのでせう。そして諸兄は、その思ひにお応へするやうに、後に、

 降る雪の 白髪までに 大皇に つかへまつれば 貴くもあるか (『万葉集』巻十七・三九二二)
 (降り積もる雪のやうに、真白な髪になるまでも、天子様にお仕へさせていただけたことは、何と貴いことでせうか)

と歌ひました。
 それから数百年を経た、昭和の御代。大東亜戦争の戦闘が終はり、米軍に占領され、いばらの道を進むことになつた昭和二十一年。その年の年頭に詠まれた昭和天皇の御製が次のとほりです。

 降り積もる み雪に耐へて 色変へぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
 (降り積もる雪の重さに耐へて、その青々とした色を変へるkとのない松の雄々しさのやうに、わがおほみたからもあつてほしい)

聖武天皇は橘、昭和天皇は松。草木は違へど御心は似てゐるやうに思ひませんか。

三、橘諸兄の子孫


 さて、この御歌に詠まれた人物である橘諸兄ですが、彼の子孫といはれる偉人が、わが国の歴史上二人見出せます。
 一人は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐に加はり第一等の功績を挙げ、建武中興に貢献した楠木正成公。世に、大楠公と讃へられる人物です。
 彼を祀る湊川神社には、江戸時代に義公・徳川光圀が建てた墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」があり、幕末には吉田松陰先生をはじめとする志士たちからとても尊崇されました。その志士の一人、佐久良東雄先生は大楠公を「もののふの鑑」と讃へました。その大楠公の家の家紋、それは「菊水」でした。菊水とは、川に流れる菊の花を描いたものです。
 今一人は、同じく幕末の頃の人、福井の国学者にして歌人の橘曙覧先生です。彼はその生涯の中で「独楽吟」といふ形式の歌を五十二首作りました。そのうちの二首を見てみませう。

 楽しみは 朝起き出でて きのふまで なかりし花の 咲ける見るとき
 (私の楽しみは、朝起きて昨日まで咲いてゐなかつた花が咲いてゐるのを見る時です)

 「独楽吟」は、「楽しみは」で始まり、「とき」で終はる形の歌です。アメリカ大統領ビル・クリントンが来日した際に、引用したことでも知られてゐる歌ですね。そして橘曙覧先生も、大楠公を尊敬してゐました。ここでは紹介しませんが、大楠公を詠んだ歌が残つてゐます。
 他にも、

 たのしみは 庭に植ゑたる 春秋の 花のさかりに 逢へる時時
 (私の楽しみは、庭に植ゑてゐる春と秋の花の盛りに逢ふことができる時であるよ)

と詠み、春や秋の花に心を寄せたのでした。他にも曙覧先生には優れたお歌がたくさん残されてゐます。それらは、岩波文庫の『橘曙覧全歌集』によつて、今でも味はふことができます。

 楠公は、家の紋を菊水にし、曙覧先生は、「楽しみは花の咲けるを見、春秋の花のさかりに逢へる時」と歌ひました。
 私どもの先祖は、このやうに草木を愛し、歌に読み、家を現す印に用ゐてきました。さうして、結果的に精神をも同じくしてきたのでした。
 私は、山辺の道(東海自然歩道)を歩いてゐる時、道沿ひに植ゑられた橘を見る時に、いにしへの歌を思ひ出し、いつも古人の感性とつながる思ひがするのです。


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