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2021/03/20 ハラスメントの境界線

ハラスメントの議論が湧き上がるたびに、

「その境界線って難しいよね」

「当事者じゃないからわからない。外野は黙ってろ」

「ハラスメントってなんでも言ってしまう風潮がハラスメントだ」

「もう何も言えないよ」

「何がいけないのか議論することは権利だ」

みたいなことをたくさん聞く。

向き合うことが大事、でも当事者じゃないなら無関心を貫くのも大事、でも身近な人が悩んでいたらそれに自分の考えを述べるのも必要、、、。

人生は矛盾に溢れてる。

人間食べてるもの全てが毒だけど、食べないと生きていけないし、でもファスティングはいいよ、みたいななんか取り止めもない議論(注:どの説も個人的には尊重しています。)のなかに自分たちはいる。

僕は、結局は身近な人をしっかりと大事にできるか、話はそこからだと思う。

十分に身近な人だって大事にできているかわからない。距離が近くたって知らないことだってある。例えば僕は他人と腕時計について比較される(僕は興味がなくていわゆる“高級時計”をしないが、それって男性として、経営者としてどうなのみたいな言われ方したことある。)のは好きじゃないし、極端な話ハラスメントだと思っている。

だから「Apple Watchなんですね。ヒデさんらしいですね。」なんて言われることも僕にとってはモヤっとする一言ではある。

でもそれって絶対悪気ないですよね。時計気にしてる件なんて知らんし、という話でもあるし。ハラスメントの議論はおそらく大体がこうやって悪気がない。僕だって他の人に対してこういったことをたくさん言ってしまっている。

ここで大事なのは、それがハラスメントの境界線であるかどうかの議論ではなく、その人を傷つけていないか、大事にできているかどうかだと思う。

時計の話をされても、その人に大事にされているなと思えば受け流したり言わないで欲しいと意思表示できる。何を話すかではなく二人がどうありたいかだから。

インターネットでハラスメントの議論が大きくなりがちなのは「身近でも大事にする気もない人」がコメントできてしまうことだと思う。

悪気があるかないか、その内容が適切であるかないかに議論が行きがちだけど、「愛」がない(主に自分の承認欲求や議論欲を満たしたいだけ)発言というのはすぐわかる。

だから改めて身近な人から考えていくのがいいと思う。もちろん自分から遠い世界をみて意見を考えることは大事だと思う。知らないことを知るのはその先会う人を傷つけないための資産になる。

でもその際に発言をしたいという欲が出たのであれば、そこに愛を持てるか、相手を大事にする気持ちが本当に持てるかは考えて行動したい。

「多様性」というワードが大きく膨らんできている今だからこそ、一つ一つの関係性を大事にしていきたい。

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