変わっていくことはあっても、あの時の言葉は変わらない
誰しも、変わっていく。良い意味でも、悪い意味でも。
たとえば僕は最近、髭を伸ばしている。マスクをしているからあまり目立たないが、職場では驚かれる。そんな小さい変化もある。
他人を見て、この人はこんな人だったかと驚いたり失望することもあれば、ふとしたときに自分を振り返り、変わった(変わってしまった)と思うこともある。
生きている以上、変わっていくことは避けられない。誰でも。
そしてきっと、変わることを恐れても、いけない。
けれども、変わらないものはある。
30年近く生きていると、それなりの数の出会いと別れを繰り返す。僕のように親が転勤族でそもそも引っ越しが多かったりすれば、当然出会う人、別れる人の絶対数も多くなる(ただしこれは、必ずしもそれぞれの人とのつながりの濃さを意味するわけでもない。転々とするがゆえにそれぞれの場所での関係性が薄まることは往々にしてあった)。
疎遠になってしまった人も多い。小学校の友人などは、当時文通している間柄だったものがFacebookに置き換わり、そこからLINEを交換して今でもSNS上での繋がりがあるケースもある。けれどもその数は、出会ったきた人、関係を築いてきた人の数に比べれば、圧倒的に少ない。
変わらないものの話だった。
確かに出会いと別れを繰り返すと、その人の知らない部分は増えていく。あるいはお互いに変わった(変わってしまった)ことによって疎遠になってしまったり、喧嘩別れのようになってしまったケースもあるだろう。
それでも、あのときの言葉は変わらない。
それが、このnoteで最も書きたいことだった。
僕は断捨離があまり得意ではないので、他人からいただいた手紙などはそれがどんな小さな紙切れに書かれていても、捨てられずにとっておくことが多い。そしてそれらを見返すとき、同時にその人との思い出も蘇ってくる。
そもそも、そんな風に見返さなくても、忘れられない手紙、そこに書かれた言葉もある。
手紙のように物理的に残るもの以外にも、あのときかけてもらったあの言葉に救われた、そんな経験とともに、言葉そのものを覚えていることもあるだろう。
「心の底から尊敬します」と言ってもらったこと、「上手くいったとき、つらいとき、ぜひ共有してください」と言ってもらったこと。思い出せば、そんな言葉たちに支えられていることに気づく。
その言葉をくれた人たちとの関係性は変わっても、言葉は変わらずに残り続ける。きっと言葉を投げかけた側はそんなことはすっかり忘れているのかもしれないけれど、言われた側は覚えているものだ。
そしてどんなに変わっていくものが多くても、その言葉や、その言葉に付随して抱いた感情は何も変わらない。
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