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【小説】タシカユカシタ #22

 浩太が、後を追いかけようか悩んでいるときだった。教室の後ろの整理箱の付近の床が、一瞬、揺らいだように見えた。その後ぱしゃばしゃと音が聞こえたかと思うと、なんと整理箱のある後ろの壁から不思議なものが、飛び出してきたのだ。
 それは、ありえないものだった。少なくとも、教室の中では…

(ああ!吉崎先生!)

 それは、隣のクラスの担任の吉崎という中年の女の先生だった。
 吉崎先生は、父方がギリシャ系の、クオーターだった。背が高くて、黒髪で、瞳は青みがかった灰色で、鼻筋が通った鷲鼻に、丸眼鏡をひっかけて、いつも眼鏡越しに、前を、にらんでいるような感じだった。どう見ても、外国の映画によく出てくる女学校の修身の先生か、魔法使いにしか見えなかった。
 先生なら、教室にいても不思議じゃないけど、なにしろ後ろの壁から出てきたのだ。そして吉崎先生の格好をしたそいつはスクール水着を着ていて、頭には水泳帽、目にはゴーグルを付け、腰に浮き輪をはめて床にぷかぷかと浮いていた。

「なんかえらいさわぎだねえ」

 そいつは浮き輪を付けたまま仰向けになり、のんきそうにばしゃばしゃと、バタ足をした。床に波紋が広がり、床の正方形が脈打つように乱れた。

「ジャックのところの坊やだね。どうだい?天井の住み心地は?」

 床にぷかぷか浮いているそいつは、天井の浩太に気付いて声をかけた。

「あなたは、もしかして…アクア?」

「私の名前を、知ってるのかい?…ああ、ティラノから聞いたんだね。坊やもえらい羽目になったねえ。ジャックも、よりによって呪文、教えずに行ってしまうとはねえ。そんな話聞いたことがないよ」

「ああ…よかった。あなたを探していたんです。ティラノが、あなたなら知恵を貸してくれるだろうって…助けてください。僕は、ここから出たいんです」

 アクアは、浩太を一瞥して、教室の後ろに空いているスペースをすいーっと一回りして、また元の位置に戻った。

「実際問題として、今の坊やの立場は、難しいんだ。この『惜別の部屋』は、人を閉じ込めておく牢獄なんかじゃない。《夢語り》たちが、自分を創り出してくれた主人に感謝し、自分たちに気付いてくれた主人を、もてなして互いに別れを惜しむ場所なんだ。そして楽しんだら主人は、元の世界に帰って行く。呪文は、そのひとつの手続きに過ぎない。たまに自分を創りだした主人を逆恨みをして、なんとか主人に仕返しをしようと企む輩がいるが、そんなやつは、間違いなく『後悔の泉』行きさ。ジャックは、理由は、どうあれ主人である坊やを、ここに置き去りにした。『後悔の泉』行きは、逃れられない。そして坊や」

 アクアは、浩太を、指差した。

「坊やもいけない。坊やは、ジャックを、否定した。お前なんか生み出してない。こんなの、夢なんかじゃない、早く元に戻せと…つまりこの『惜別の部屋』にいること自体を、不快に思い、この『惜別の部屋』自体を否定した。それが、いけない」

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