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遺構は露と消え【仙台・宮城の常】

【時代考証は不明な部分も多数あります】
旅籠町「常盤町遊郭」と明治屋旅館の面影【見越しの松・旅館の門構え・意匠を凝らした塀】は梅雨明けの時に露と消えました!

 スクラップ&ビルドは、企業で採算や効率の悪い部門を整理し、新たな部門を設けることや、建造物や設備で老朽化・陳腐化したものを廃棄し、新しい設備に置き換えることを指しますが、現在の日本では古い建物・住宅は余っている現状が多く見られます。
 高度成長期を経て経済の発展や人口の増加によって、あちらこちらに鉄筋コンクリートづくりの建物が建てられ、半世紀を経た現在。空き家が問題になっているように、現在の日本では世帯数より住戸数の方が多いため、古い建物は使われずに余ってしまっているのですが現状と言われてから久しい。 
 今後も少子高齢化が進み、その傾向は顕著になるでしょう。使える建物も壊して新しいものを造る「スクラップアンドビルド」の時代ではなくなり、「今あるものをどう活用するか」という考え方をする方々も多く居られると聞きます。古い町屋を改修し、宿泊施設やモダンな住まいとして生まれ変わったケースがよく見受けられます。
 また木造の古い建物をリノベーションが普及し、柱や梁に大きな丸太を使用してとても贅沢なつくりになっている住宅に憧れる自分もいたりします。このような「隠れた価値」を大幅な改装によって活用することで人が集まり、街の活性化にもつながる様な気がします。

令和6年7月の中旬以降に、毎日通りかかるご近所である仙台市青葉区小田原六丁目付近の古くからあるである旅籠町の旅館の建物の遺構建物の一部の門構えと塀、見越しの松が取り壊されそうになっておりました。

そして遂に、令和6年8月4日の朝、確認に行きました所、跡形無く更地となっていました。

【歴史に見る新常盤町遊郭】 
 この地は仙台城下町の第3次拡張が延宝年間(1678~1681年)に実施され,宮城郡小田原村の一部が城下町に組み込まれました。このとき,車通・山本丁・金剛院丁・広丁・大行院丁・清水沼通・牛小屋丁・蜂屋敷の「小田原八丁」が町割りされました。この「小田原八丁」のうちの1つ『小田原蜂屋敷』※1に立地。遊郭は当時の仙台市の外れに位置し,江戸時代を通じて中級から下級の武士が住む武家屋敷が並ぶ地であり、幕末御一新を経て、広い区画の武家屋敷が並ぶ地は、武家は没落し屋敷を切り売りしたり、帰農して田畑にしたり、鬱蒼とした杜は手入れもされず荒廃したと伝わります。 

またこの地には、幕末の仙台領にあって建白書を上程した150石の武家 玉蟲十蔵の屋敷がありました。玉蟲十蔵は後に観察力と筆まめを買われ遣米使節団入りした玉蟲左太夫の縁戚でした。
1860(安政7)年1月、2隻の船が横浜港を出帆した。初の幕府遣米使節団を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号と、その護衛艦である咸臨丸だ。使節派遣の目的は、2年前に調印された日米通商条約の批准書交換とともに、海外事情や西洋文化の調査・探索にあった勝海舟、福澤諭吉、ジョン万次郎、小栗忠順ら、そうそうたる顔ぶれが並ぶ一行の中に、玉虫左太夫という仙台藩士がいました。
       
 常盤町遊郭は,広瀬川を挟んで陸軍第二師団の向かい側北一番丁の西のはずれにあった「常盤町遊郭」(現・仙台市民会館周辺に所在)が,陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないという理由や,日清戦争に伴う綱紀粛正により1894年(明治27年)に同じ北一番丁の東はずれにあたる当地小田原蜂屋敷跡に,楼閣,楼主,そこで働く全員が集団で移転させられ「新常盤町」と呼ばれるようになりました。
 敷地面積は約4.7haあり,現在の仙台市青葉区小田原6丁目の西半分,宮町3丁目のごく一部,および,宮町2丁目のごく一部に広がる広大な土地でした。
明治27年から昭和20年まで、軍都、商都仙台という背景をもとに常盤町遊郭は隆盛を極めました。

昭和20年7月10日未明の仙台急襲では焼けずに、仙台市中心部の焼け野が原で焼き出された住民の多くが、常盤町遊郭の建物にそのまま家族ごとに、小分けにされたお女郎さんの部屋に居住まいする状況となり、敗戦後の昭和21年GHQの命令により解散させられた。

明治27年から昭和33年3月31日に買春防止法が施行されるまで、常盤町遊郭は、妓楼の形態も店舗も街並みも固定されたものでは無く、年月を経るごとに楼閣も変遷し、昭和20年以降は戦災で焼け出された市民の窮状を救った事や、アパートメントやマンション、昭和25〜6年頃からは旅籠屋、旅館やホテルとして機能し、旅籠町と街の名称も変化しました。

大門通りのすぐ上に五城楼は第一ホテルに業種がえし、昌南楼と「不明」と記載の場所は明治屋旅館と業種替えをしたと思われます。


常盤町遊郭の区割り妓楼の並ぶ街並み

昌南楼と「不明」と記載の場所は昌南楼と「不明」と記載の場所は明治屋旅館と業種替えし、昭和50年頃には小生も建物を見ていました。

そんな明治屋旅館の面影は露と消え去りました。

①旅籠町時代の仙台市青葉区小田原【手前左側前旅館:第一ホテル】【中央奥左側:明治屋旅館】
②1枚目の写真の中央奥に映る明治屋旅館の面影 見越しの松に旅館時代の門構えが残る
③明治屋旅館の跡地は建物が取り壊され、環境開発の事務所や駐車場になる
④明治屋旅館後の門構えと見越しの松が風情を残していた


⑤明治屋旅館の面影が残る風情


⑥門構えと塀は曲線が取られ趣向を凝らす意匠が見られる
⑦令和6年8月4日現在 明治屋旅館の門構えと見越しの松は撤去された
⑧明治屋旅館の風情出会った見越しの松と門構えと意匠を凝らした塀は跡形無く消え去った

【資料編】
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
   1892年(M25)、192人・21軒
   1900年(M33)、325人・32軒
   1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)

<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた 
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%

* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退 
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった

【出 典】:仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391 目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)

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