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『伊藤博文と韓国併合』 自治的な植民地目指した元老政治家〜伊藤博文と宮城県のゆかりの地の考察〜


⑴日本の首相を暗殺した人物の碑に参る韓国人と〜千葉十七〜
 宮城県北部の若柳町の「大林寺」に、伊藤博文を旅順で暗殺したとされる安重根の碑があるのをご存知だろうか。大韓民国から歴史学者や政治家だけではなく観光客が墓参よろしく、安重根の碑に参る様は、あまり報じられてもいない現実がある。
 これは、韓国にあるアン・ジュングン(安重根)義士記念館※2を訪れては、「侵略国日本」の再確認と、残酷で無慈悲な国と言う印象を国民に刷り込む彼の国の教育の一環であり、宮城県若柳町の「大林寺」に、伊藤博文を旅順で暗殺したとされる安重根の碑を訪れる事と同じだと言う論説もあるが、その様な論説はあるにせよ、多面的な視点による日韓関係を構築する上では、慰安婦問題や徴用工問題など、日韓間で幾度も繰り返される歴史認識問題や、さらには自国に都合よく歴史を捉える歴史修正主義も蔓延している現在、今一度冷静な視点に立ち返る意味で、重要な「点」であると小職は理解する。

 安重根は暗殺に成功した後、旅順監獄に投獄され、彼の担当になった看守が千葉十七という若柳出身の人でした。千葉十七は当初、伊藤博文を暗殺した彼を憎んでいた様ですが、安重根の世話をしつつ会話をするうちに、安重根にある意味の共感を覚えるようになり、自分のために記念となるような一筆を依頼したとのことです。
 安重根は処刑直前「為国献身軍人本分」と書き署名刻印をします。そして、千葉十七に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえった時、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったと言います。
千葉十七は終生、安の供養を欠かさなかったと伝えられ、千葉十七の遺族は、安重根の生誕100年(1979年)に際して、この書を韓国に贈り、その返礼として韓国から遺墨を刻んだ碑が贈られ、千葉十七夫妻が眠る若柳の大林寺に碑が建てられました。
 碑の裏に、当時の宮城県知事、山本壮一郎(自民党公認)の「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれています。
 
⑵伊藤博文の思いと暗殺
 「馬鹿な奴(やつ)だ」。ハルビン駅頭で狙撃された前韓国統監の伊藤博文は「犯人は韓国人」と聞き、虫の息でそう呻(うめ)いたという。※1
 伊藤博文は数ヶ月前につぶやいたという、「私がいなくなれば、日本の韓国侵略の手綱がゆるむと考えていただろうが、それは逆だ。私のうしろには、韓国を踏み台にして大陸に攻めのぼろうとして、うずうずしている軍人集団がいる。彼ら日本陸軍の軍人は併合を実行するために私を消そうとしている」と。
 
 韓国人にとって伊藤博文は豊臣秀吉と並ぶ「侵略国日本」のシンボルとも言える存在であり、日露戦争終結の一九〇五(明治三八)年、軍隊の威圧下で第二次日韓協約を調印させて韓国を保護国化し自ら初代の統監となった「悪役」であり、その四年後に伊藤殺害を実行した安重根は、民族の恨みを晴らした「義士」に他ならない。
 
 しかし小職は、そのような一面だけを抜き出して画一化された伊藤博文のイメージを多少なりとも修正する必要がある疑問点があると想うのである。
首相や枢密院議長を四度も務めた元老政治家伊藤博文は、現在思われているような大陸への拡張主義者ではなく、国際協調重視派であり、そもそも大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥とはしばしば対立していたことはよく知られているが、小職はさらに進めて、伊藤博文が将来的な緩やかな日韓併合には賛成しつつも、あくまでも武断的な統治ではなく、大韓國と言う国名が残り、一定の行政権・立法権を持つ「自治植民地」を目指していたのだと、言論や行動から読み取れると見る。
 伊藤博文は、国の支配には被支配者の内面的合意が必要であり、それを育成するのが先決であるという漸進論だったと見る。
事実、伊藤博文の死を待ったかのように、事態は急展開し、半年後には寺内正毅が初の軍人統監に就任し、その三か月後、1910年、「韓国皇帝陛下は一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」(併合条約第一条)と言う道を辿るのである。
 
⑶歴史を検証する閣下との共通な視点
 この数年来、歴史を学ぶ者同士としてお逢いする機会に恵まれ、元◯務省出身の元◯使閣下に度々薫陶を受ける。閣下曰く、歴史に「もし」は存在しないが、伊藤博文の暗殺なかりせば、昭和に至る軍国日本の足取りはいくらか違ったものになったのではないかと想像に難く無い。と小職に説いた。
 ちなみに小職も又、歴史の証言者達の著書や、その後の日本陸軍や関東軍が成してきた歴史の痕跡を辿って行けば見えてくる事象を組み合わせて見て行けば、安重根単独暗殺犯説とは想わず、当時、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と密接だった日本軍閥と日本陸軍関係者が関与した二重狙撃説を唱える。
安重根本人は、思想的に敵対する相手に単独で暗殺を担ったのだと思っているであろう。しかし、陸軍軍閥と密接だった日本軍閥と日本陸軍関係者が関与して、内偵が進んでいた安重根本人に、当時の日韓関係と思想とを巧みに刷り込み、暗殺犯を仕立てて行く事など、工作部隊や特務機関※3に取り、赤子の手を捻るが如く容易いことであろう。
 
⑷伊藤博文の幕末の事犯と因果は巡る
 初代総理大臣の伊藤博文は、若い頃は攘夷(排外主義)思想に傾倒する危険な◯ロ◯ストだった事は、歴史として記録されているが、教科書や書籍などで紹介される事はほぼ無い。
 文久2年(1862年)11月、イギリス公使の殺害計画を企てたことで、伊藤博文は高杉言作らと長州から謹慎処分を下されています。しかし12月12日、謹慎中の身でありながら性照りもなく品川御殿山に建設中のイギリス公使館に侵入、焼き払う所業を行います。もともとイギリスは品川の東禅寺を公使館として使用していたのですが、攘夷派の人斬り暗殺犯により2度も襲撃され死傷者を出したので、御殿山に公使館を新築していたところでした。
 この焼き打ち事件から9日後の12月21日夜、伊藤博文は同志の山尾庸三と共に、国学者の塙次郎(和学講談所をつくった保己一の子) を江戸の九段坂で暗殺したのです。塙次郎は老中安藤信正の命で廃帝の調査をしていました。すると、孝明天皇を廃すため幕府が塙次郎に前例を調べさせたという噂が立ち、伊藤博文は「そんなことに手を貸すとはけしからん」と激怒し、犯行に及んだといいます。
 こうした過激な事件を立て続けに起こした翌年に、伊藤博文はなんとイギリスへ留学※4します。敵情を探り、蒸気船の航海術を学ぶため長州公認の留学生になったのです。幕府※5は当時、日本人の海外渡航を禁じておりこの留学は「密航」でした。井上馨らと上海へ渡った伊藤は、わずか300トンの帆船でイギリスへ向かいました。
 イギリスに着くと、ロンドン大学のウィリアムソンの屋敷に間借りして勉学に励みました。ただ、滞在は数カ月で終わり長州が外国船に砲撃したため列強諸国が激怒、武力衝突に発展しそうな事態を知ったため帰国しました。
伊藤博文は衝突を食い止めようと横浜へ戻り、イギリス公使のオールコックに事情を話して豊後国姫島まで移送してもらいました。相手は、自分が2年前に殺そうとしていた人物で、攘夷、攘夷と英国人を襲う人斬りの伊藤博文が、英国公使と“交渉”をするのでした。人斬りが外交官になった訳なのです。
 すでに伊藤博文は、数カ月のイギリス留学で完全に攘夷思想を捨て去っていて列強には戦っても勝てない。まずは日本にヨーロッパ型の近代的統一国家をつくり、植民地への転落を防ぐべきだと180度意識を転換したのでした。まさに百聞は一見にしかず、です。
英国大使館を焼き打ちした張本人である伊藤博文が、政府高官として英国公使のハリー・パークスやオールコックと「パブリック」について語っているわけですから、幕末の伊藤俊輔を知っている人間からすれば「喜劇」のような構図に見えたことでしょう。
 結局、「権力は獲ったもん勝ち」で、元勲にも上り詰めますが、しかし、その伊藤博文も暗殺者の手に掛かり落命するのでした。近代国家樹立に奔走した伊藤博文は、大久保利通や山縣有朋とともに明治の国づくりの中にあって富国強兵を推し進め外国に負けない強くて豊かな明治の世をつくりたいと切望し、思い切った政策を推し進めたこれら元勲の元に生まれた旧日本陸軍の後の特務機関の工作により、安重根と言う暗殺犯を画策工作により暗殺されてしまいます。因果は巡るとはこの事でしょうか。
 
 
 
※1 伊藤博文暗殺事件は、1909年(明治42年)10月26日、清の吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区・道裏区)のハルビン駅で、伊藤博文が襲撃され死亡した暗殺事件。大韓帝国の安重根による犯行であった。
 
※2 独立運動家、安重根を知る展示館 韓国で最も有名な独立運動家の一人として知られる人物、安重根(アン・ジュングン)。その遺品や関連資料により彼の思想や精神、生涯を知ることを目的につくられたのが、南山(ナムサン)の中腹に位置する「安重根義士記念館」です。
1970年の設立後、2000年代に入り国の支援金と有志の募金などにより建物を全面拡張。安重根没後100年にあたる2010年に完成、10月26日に新たな施設で再オープンしました。
韓国の義士、安重根
安重根(1879~1910年)は大韓帝国末期の教育者、民族運動家。黄海道(ファンヘド。現在の朝鮮民主主義人民共和国)にて出生、青年期にカトリックの洗礼を受けました。
学校設立などの教育活動を経て、「義兵運動」に参加。大陸を中心に抗日闘争を繰り広げます。1909年10月26日に中国大陸のハルビンにて韓国統監府初代統監・伊藤博文を狙撃、殺害した罪で死刑となり生涯を閉じました。韓国では抗日抗争に身を捧げたとして義士(ウィサ)と呼ばれ、その死は殉国と称えられています。
死後に韓国で勲章が追叙されたほか、現在でも彼を題材にした演劇や書籍などが発表されています。
 
※3 特務機関は、日本軍の特殊軍事組織をいい、諜報・宣撫工作・対反乱作戦・秘密作戦などを占領地域、作戦地域で行っていた機関。日露戦争中の明石元二郎大佐による「明石機関」の活動を契機として、シベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを「特務機関」と呼ぶようになった。
 
※4 駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン (企業家)(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。
 
 この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。
 
 渡航時の年齢は、井上馨(28)・遠藤謹助(27)・山尾庸三(26)・伊藤博文(22)・井上勝(20)である。一方没年は、遠藤謹助(1893年57歳)・伊藤博文(1909年68歳)・井上勝(1910年66歳)・井上馨(1915年79歳)・山尾庸三(1917年80歳)。
 
 身分は、正式な徴収の家臣である井上馨・井上勝・遠藤謹助に対し、伊藤博文・山尾庸三は武家奉公人の立場であった。渡航直前に両者は士分に取り立てられているものの、海外渡航は幕府により禁止されているため長州内では5人とも脱國・※5国抜けしたことになっている。
 
※5 江戸時代の国の考えと呼称
 私たちは現在、江戸時代の大名領のことを「藩」と呼び、宮城県でも仙台藩や伊達藩などと呼んでいますが、江戸時代の儒学者が中国の制度を真似て呼んだ漢語に由来するもので、「藩」の呼称は、新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』など、元禄以降に極々僅かに散見される程度にとどまります。
つまり、江戸時代には「藩」という言葉は儒学文献上の名称であって、公式の制度上「藩」と称されたことは無く、例えば「伊達家」、「前田家」、「津軽家」などのように呼ばれており、
「仙台藩士」とは言わず、公的には伊達陸奥守家来または伊達家中と称されました。
また「領主」も、封地に侯をつけて呼びあらわされることが多く、例えば仙台侯、尾張侯、姫路侯というような呼称で呼ばれました。
 
 ※明治政府は、明治2年6月17日(太陽暦:1869年7月25日)、かねて各諸侯(旧大名)から出されていた版籍奉還の願い出が許可され,明治政府の下での行政区画とされて諸侯たちは順次知藩事に任命されました。この結果,政府直轄の府・県と並立して諸侯の管轄下にある藩により全国(北海道と沖縄を除く)が統治される、いわゆる府藩県三治体制が確立し、幕府直轄領のうち城代、所司代、奉行の支配であった地方に「府」とし、郡代や代官の支配であった地方に「県」を置き、大名領を「藩」としました。この処置は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県によってすべての藩が廃止されるまで続きます。
 
①大名家が自署した場合 奥州仙台 松平陸奥守 秀忠 花押
②大名家を呼称した場合の例
天正十四年(既に1587)十二月三日 伊達左京大夫殿と呼称した豊臣秀次
天正十八年(1590)一月九日 伊達左京公と呼称した蒲生氏郷忠三郎
天正十九年(1591]卯月三日 羽柴伊達侍従殿と呼称した徳川家康
天正十九年(1591] 卯月廿七日 羽柴長井待徒殿と呼称した浅野長吉
天正十九年(1591年)5月10日 羽柴睦侍従殿と呼称した宇喜田中納言秀家
天正19年(1591年)8月3日 羽柴侍従殿と呼称した浅野長吉
文禄二年(1593) 初月 うつきみそか日 大崎侍従殿と呼称した徳川家康
大崎少将殿と呼称した大阪五奉行連書
慶長五年(1600) 九月十一日 羽柴越前守殿と呼称した一通斎
慶長十年(既に1606] 極月四日 松奥州様と呼称した中納言秀家
慶長要十五年(1610) 十月三日 松平陸奥守と呼称した酒井雅楽頭忠世等三名連書
元和元年(1618年)6月16日 仙台宰相殿と呼称した徳川秀忠 
東永4年(1627年)陰暦正月12日 伊達中納言殿 と呼称した徳川秀忠

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