大学前半でやって良かった8つの事とやらなくて良かった3つの事: 10年後の答え合わせ
就活で学生時代の経験を聞かれるが、それを用意するためにウケのいい経験を積むことはあまり得策ではない。
いやむしろ、何にでもなれる多能で多感な時期という貴重な時間を、面接官ウケのいい企業戦士になるために費やすというのはあまりにも勿体無い。
自分が合格通知を受け取って高校に報告に行った時、高校の先生たちに「大学でやっておけばよかったと思っていることはありますか」と聞いて回った。
驚くことに8割近くの先生が「もっと勉強をしておけば良かった」と答え、残りが「もっと旅行に行けば良かった」と答えた。今となってはどちらもある程度教え子にカッコつけたい気持ちから出た回答かもしれないが、それでもこの回答は頭の片隅において大学に進んだ。
さてそれから10年程度が経った。まだ人生を総括するには早いが、とはいえかつて想像もしなかったくらい遠くに来たので10年間の答え合わせをしながら、やって良かったこと、やらなくて良かったこと各項目を箇条書きにしていくことにする。やらなくて良かった事のが少ないし、そっちから列挙していこう。
あと早寝早起き、友達付き合い、筋トレみたいな当たり前なことは書いていないので、「やって良かったこと」にないことは全部やらなくていいとかそういう極端な解釈はナシな。
やらなくて良かったこと
完璧主義
進学校でもない学校から難関大学に入った人は高校の間相当な熱量で勉強してたと思うし、それを大学生活でも続けがちだけど、当然長続きしない。
村上春樹だって言っている。完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね、と。
むしろ高校までは何らかの数直線の上での極北を目指すものなら大学以降というのは定まり切った完璧より、その状況や場所で最適であることがより重要になる。これは次の要素にも影響する。
「いつか使う」情報の保存・整理
大学生なんて可能性の塊だ。何にだってなれる。ほんとだよ。だからその時点における「いつか使う」かもというのは事実上の森羅万象を含む。ハタチ前後の頃の「将来」などどんな精緻な未来予想図を描いても良かれ悪しかれどちらにもぶれる。
「いつか使う」が無駄なのは本の積読でも、雑誌の切り抜きでも、ネット上のファイルでもエロ画像でも等しく同じだ。今使ってないなら「いつか」は来ない。来たとしてもその時に今自分が用意した情報が未来の自分のニーズにマッチしていることはまずない。いいか、NOW or NEVERだ。
これは勉強でも同じで、この勉強はいつか役に立つだろうというノリでやったやつは結局役に立つ機会がくるより先に忘れてるか、情報が時代遅れになる。一方でこれは今後コレをアレする時に役に立つかもしれない、くらい算段できてると、その通りのタイミング出なくても何かしら役に立つことがあった。「次のステップで使う」ならやってもいい。だが「いつか使う」はダメだ。
早すぎる判断
じゃあさっさと判断すればするほど良いかというとそうでもない。自分の例で言えば大学で取りたい一般教養の授業時間と部活の練習時間が重なった。入部前は授業を優先して良いよとのことだったけど、入部後にあれば嘘で練習には毎回来いと言われたので、じゃあ辞めますって即答して、別の部活に入り直した。今から思えばもう少し熟慮しても良かった気がする。どうしてもその学問がやりたいなら本を読むなり先生の教室の扉を叩くなり方法はあったわけだし。
これは統計的裏付けのない経験則だがものにもよるけど生活リズムに関するものは大体1-2ヶ月の判断期間が自分にはちょうど良かった。無理なものはそれでわかるし、逆に1-2週間だとうまい立ち振る舞いを見つける前に諦めることになる。
やって良かったこと
距離ガバ
これはもう本当にこれに尽きる。距離ガバとは異常な距離を移動すること。人によって微妙にニュアンスが違うが、異常というのは「本来ならその時間にその手段で移動しようと思わない距離を移動する」という意味で理解している。だから新幹線で大阪から東京に行くのは距離ガバでもないけど、平日夜に思い立って京都から鳥取砂丘の夜明けを見に行って、そのまままた京都に戻ってくるのは距離ガバだろう。
距離ガバとは旅行(移動)好きというだけでも、フットワークが軽いというだけでもない。その二つが常軌を逸していると距離ガバになる。距離ガバになると余計に移動するように、フッ軽になる。そして人間の感覚というのは自分の経験に応じてどんどん拡張される。つまり、距離ガバな人間にとっての近所とそうでない人間の近所には大きな差が生じる。
想像してみてほしい。畳4畳ほどの庭があるのと、広大な庭を持ちその中に本屋にカフェ、美術館、森があるのとでは大違いだ。ちょっとサンダルを履いて庭に出る感覚で新羅万象にアクセスできるというのは全く何か新しいものに触れるハードルが違ってくる。また距離が2倍になれば面積は4倍になるから指数関数的に自分の庭が広がっていく。
距離ガバになればなるほど、加速度的にあらゆる体験の密度は増えていく。これは早めに距離ガバになるしかないね。
イキらない
うん。これなんだ。こればっかりは相当難しいと思う。でもこれはどんな人にでも起こりうる。例えば志望大学に入ったら、それを自慢したい気持ちはあるだろうし、志望大学に落ちて滑り止め行ったら自分のポテンシャルはこんなもんじゃないぞって思うのは自然な心理だ。
別に学歴アピールに限らず、酒がどれくらい強いとか、イケてる(と本人が思っている)バイトをしているとか難しい資格を通ったとかイキりの形は様々だけど、共通しているのはイキっても何の得にもならんということだ。イキリを止めるのは難しいと書いたけどとっておきの方法が一つだけある。
周りを見て、一番イキり倒している人がいたら見ていて恥ずかしく思うだろう。そう、それこそが君がイキった時周囲に催させている感情だ。え?周りにイキり倒している奴がいない?ーおめでとう!君のコミュニティで一番イキってるのは君だ。
イキるの辞めると、イキられることも減る、というか気にならなくなる。より正確に言えば、イキらない人たちから発せられる「へぇーそうなんだすごいね」が「へぇーそうなんだすごいね(笑)」であることに気づけるようになるし、不毛なマウンティング合戦に巻き込まれにくくなる。
過去や現在より未来なら誇ってもいい
イキるのがなんでダサいかと言えば、それは過去や現在の状況を自慢しているからなんだよ。もちろんそれは努力の末に獲得したものもあるかもしれない。けどその努力の目的はイキり倒す肩書きがほしくて頑張った訳じゃないのに、その努力の果てにあるのが単なる自慢というのが滑稽だからダサいんだよね。
だから未来なら誇ってもいいと思う。いろんな言い方がある。ビジョンだとか、将来設計だとか、使命だとか。例えば起業を目指す人がいたとして、自分のビジョンを語ることはイキリでも何でもない立派なことだよ。でも起業家である自分を語るならそれは滑稽だよね。それと同じ。
自分も大学に入って前半の頃は大学合格が目指していた未来だったのでしばらく夢がなく、漫然と遊んだり部活をしたり単位を取るための勉強をして、大学が社会人になるまでのカウントダウンのように思えていた。けど、脳の研究でやりたいこと見つけてからは(より詳細が決まったのは院からだけど)カウントダウンどころか大学というものが自分の人生を加速するためのカタパルトのように感じられるようになった。
これは単に感覚の問題かもしれないけど、それでも中々に爽快なものだよ。今日は何ができるだろうか、どんな点で目標に近づける1日になるだろうかと思って過ごすことができる。それに自分は将来的にこういう目的があって今はこれをあれしている、という道筋が通ったものであれば、代わり映えのしない日常でも胸を張って毎日エキサイティングに過ごすことができる。
履歴書フォルダを作っておく
さっきの心構えみたいな話から一変、一気に実務的な話になる。けど白い背景で撮った証明写真のJPEG画像、資格や証書のPDF、そして簡単な履歴書を常に最新の状態にしておくと、いざ何らかの履歴書の提出が必要な時に非常に便利だ。
中学からの卒業校や年度は廃校にでもならない限り加筆事項はないから使いまわせるし、学会での発表やなんらかの賞といった実績も、提出書類に書く書かないは別として、一箇所に網羅しておくとあれこれ当時の記録を遡らなくて済む。
それにいざ提出となった時に、そこから証明写真を撮ろうと思っても今日はスーツ着てないから明日にしよう、来週美容院行くから行った後にしよう、とどんどん先延ばしにしたり、あるいは撮った写真が気に食わなかったりもする。その点、事前に撮っておけば満足の行く1枚を用意できるし、どんなに忙しくてもフォルダのファイル1枚を添付するだけなのですぐに返事や提出ができる。
広く募集するタイプの応募なら早さはあまり関係ないけど、一対一のやりとりの場合、早く送れば相手も早く返事できるので出来るので話がサクサク進む。
悩みの大半はいずれ些細なものになると理解する
大学生は高校生より自由だけど、それでもまだ割と悩みは多い。人間関係だったり、就活事情だったり、悩みの種は尽きない。そんな時出典は忘れたが何らかの自己啓発本で
という一文を見た。まさかそんなと思いながら、SNSの過去の自分の発言を掘り返してみた。そしたら当時は絶体絶命だと思っていた危機も今から思えば大したことではなかったな、と思える。1年待つ必要もない、たった数ヶ月でさえこれなのだ。
もちろんこれには限界がある。若年層の自殺原因の一番は人間関係の悩みで、人間関係の悩みであれば環境がリセットされたらどうにでもなる。一方で高齢層の自殺原因の一位は病苦である。これは1年間寝かせても大したことない、とは思えないかもしれない。
ただ幸いなことに、自分は若く、これを読む人はもっと若い。だから世の中の多くの人(なんと日本人の平均年齢は48歳だ)よりは、このやり方で「大したことなかった」と思える確率は高いはずだ。
自分の詰み方と問題解決に習熟する
みんな大学入るのに過去問を解いて傾向を知り対策を立てるのに、なんでそれよりもっと大事な問題からは目を背けるのだろう。大事な問題というのは、自分がドツボにハマるさまざまな問題だ。悩みの項目とも重複するが、自分の場合、完全に詰んだ!と思った時の状況をメモして後日開封する。すると全然詰んでなかったわ、と思いながらなぜ解決できたかをメモする。
このやり方を数回やれば大体どんな時になぜ詰むかが見えてくる。というか毎回同じだったから3回目でパターンが見えた。ワンパターンすぎる。
自分の場合は、明らかに自分の手に負えないタスクに遭遇したときに、1自分の手に負えないと認識できない、2そのためどんだけ頑張っても対処できないことに絶望する、3絶望しながら取り組むが当然詰むという三段論法がキマる事が共通していた。
そこで2、できれば1のタイミングで早々と状況を周囲とシェアし、「これどうみてもやべータスクだろ」みたいな案件に早めに気づけるようにするのと、じゃあ誰に何を働きかけるべきかを意識するようになって詰みは減った。平たくいうと周囲に助けを求めるタイミングや頼り方に習熟することが解決につながった。最初は「人に頼る」もこの「やって良かったこと」リストに入れようと思っていたけど、むしろそれに気づくための方法論の方が一般性ありそうだったのでこっちを入れた。
レポートを真面目に書く(抽象化スキルを磨く)
一般性といえば個別の具体例から法則を演繹する能力を育てることはとても重要だ。大学生の能力は受験勉強がピークで、以後は頭打ちか、あるいは遊び呆けて低下してくイメージがあるけれど、実際は一般化や抽象化能力は少なくとも大学生の間は伸び続ける事が知られている。(このことは卒業間際の授業で知った。もっと早く知りたかった)
俺はあまり試験で単位認定する科目が好きじゃなくて、レポートで単位が取れる授業を好んで取ってたから、人よりはレポートを書いた枚数は多い。レポートの良いところは、(教員が手抜きで全員に優を出す神科目でない限りは)書いたクオリティが成績評価の判定と相関する、つまりフィードバックがかかるところにある。
良いレポートが書けたらいい成績が取れるし、そうでないなら悪い成績になる。こういうのは射倖心を煽るもので、一種のゲーム感覚でレポートを書けるようになる。レポートを書いたからと言ってすぐに良い文章がかけるとは限らないが、少なくとも2つのメリットがあった。
1つ目は抽象化や汎化の能力が向上する。具体例から抽出された概念の扱いというものは、アウトプットを通して得られる。もちろん会話や筆記試験もそれなりのアウトプットだが、アウトプットする情報量や密度、および投入することの出来る時間でいうとレポートには及ばない。
2つ目はまとまった量の文章を組み立てて書く事が苦痛ではなくなる事、大量の文章を書いてもあまり疲れなくなる事だ。つまり自分にとっての文章生産コストを下げる事ができる。レポートの代わりにテスト一発科目を取れば一夜漬けに強くなるかもしれないし、本番に強くなるという効果はあるかもしれない。ただそれと同じくらい、長い人生の中で文章の生産コストを下げるというのはじわじわ効いてくるアドバンテージだ。
なぜならば文章のアウトプットを通して整理される知識というものもあり、同じ労力、同じ時間で倍の文章が書ければ、純粋に倍速で学びが加速できることを意味する。
闇学割を使う
最後はこれ。はい、一気に胡散臭くなったけどまだ帰らないで。
「何かを謙虚に学ぼうとする人」に対して社会は恐ろしいまでに寛容なんですよ。本当に。だってノーベル賞を取るような研究者が、無償で、大学新入生の研究を指導するのだって大学ではそんな珍しくない。例えばアップルに入社した新入社員が1ヶ月目からジョブズに定期的にマンツーマンでプレゼンの指導を受けるような行幸だよ。大学以外ではそうそう起こり得ない。
普通なら多くの対価ーそれは金銭以外にもコネや年単位の待ち時間などを含むーを払ってしかできないことを、「謙虚に学び吸収する姿勢」一つで突破できてしまう。
そして学生であるというだけで、ほぼ前提として「謙虚に学び吸収する姿勢」であると広く認知されている。そんな中で実際に謙虚で素直でいる、学ぶ姿勢があると示せたら、同じ情報を肩書きと行動で示しているだけなのに、学生なのになんと素直なんだ、という見られ方すらする。こんなんバグでしょ。
とはいうものの、社会人が学生に甘々なのも無理はない。彼らは一度何者かに分化してしまった後は、別の何者かになるのが難しいことを知っているし、それゆえに学生の持つ「可能性」というものを過大に評価しがちである。少なくとも、大学生本人が思っているよりは、可能性の力を信じている。
だから、ちゃんと学ぶ気さえ持って素直な気持ちで教えを乞えば、大抵のところで教えを受けられる。この特権は多くの場合、大学生の間だけ使える、いわば「闇学割」だ。その期間を終えた後は、この特権の発動にはそれ相応の熱意と学ぶ姿勢と、知識があることを実績として示す必要が出てくる。
だからまるで一見さんお断りの料亭のように、表向きは正規ルートでは学部生を受け入れていない研究室でも、直接見学に行けばそうそう断られることはない。それでさらに自分がそこで学びたいと願えば、未熟すぎるということを理由に断られる可能性はだいぶ低い。(既に満員で手が回らないとか、来年度の移転が決まっているというやむを得ない理由で断られることはあるかもしれない)
「闇学割」は何も大学の内側だけじゃなく、普通の社会や組織でも、そしてもちろん海外でも通用(最終段落で実例を紹介)する。例えば余所者に冷淡な京都人が大学生には比較的寛容なのは、「他所からはるばるこの町に学びに来ている学生さん」という視線での割引効果があるからに他ならない。
良い20代を
ここまででやらなくて良かった事3つとやって良かった事8つを紹介した。もし自分が大学入学の日に戻るとして、忘れずに持ち帰りたい11個の情報だ。この10年を振り返れば80点くらいはつけられそうだが、これがあれば20点分の間違いも減らせるだろう。100点満点も夢じゃないかもね。
でもね。別に今ここに書いたこと、これを全部忘れてしまってもいいと思うんだ。うまく行かない事だらけでもいい。何か間違い、そこからまた別の何かを学べるからね。
うまく行かないことは失敗のうちにも入らないよ。失敗というのは、うまく行かないことを恐れ、一歩も踏み出さず、何もなしえず、何も学べなくなることを言うんだ。木を植えるのに一番良いタイミングは10年前。でも2番目に良いタイミングは今日なんだ。
行動しよう。間違おう。楽しもう。後から振り返って、可もなく不可もなく、秀とは言わんまで優をつけられるような10年にしよう。
実際に使った闇学割の例
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