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ロックダウンから生まれる社会  アマルティア・セン

(以下は、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが『フィナンシャル・タイムズ』に寄せた論考の仮訳です。見出し・太字・写真は原文にはありません。"A better society can emerge from the lockdowns," The Financial Times, April 15)

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エリザベス女王のことば

「またお会いしましょう」。エリザベス女王は最近のスピーチで、1939年に流行した歌の一句を引いてそう述べた。心動かされる一言であり、今まさに人々が求めている言葉だった。だがこのパンデミックののちに、私たちはどのような世界で再会することになるのだろうか。人々が連帯して危機に立ち向かうという経験は、未来に何かを残してくれるのだろうか。

コロナウィルスが蔓延するよりずっと前から、世界はすでに深刻な問題に満ち満ちていた。国と国の間だけでなく同じ国の中にも不平等が至るところに存在した。世界で最もゆたかな国であるはずのアメリカ合衆国では、何百万という人々が医療保険に加入せず、それが防げたはずの病の元凶ともなっていた。正当な計画を欠いた緊縮財政がEUの機能を損ない、弱い立場にある人々への公的支援を困難にしていた。そして反民主主義が大きなうねりになろうとしていた。ブラジルやボリビア、ポーランドからハンガリーまで、世界中でだ。

パンデミックという体験を世界中が共有すると、すでに存在していたそうした問題は緩和されてゆくのだろうか?

危機と公共政策

 連帯して行動する必要性が高まると、公共政策の重要さが強調されるようになる。第二次世界大戦が人々に国際的な協調行動の重要性を認識させたごとくである。1944〜45年にかけて国連、IMF、世界銀行が相次いで生み出されたのも、あのヴェラ・リンの歌が流行してほどなくのことだった(注:冒頭のエリザベス女王の「またお会いしましょう」の言葉は、英国の歌手ヴェラ・リンが戦争中に唄った流行歌 "We'll Meet Again" から採られている)。

英国では、そうした危機体験によって社会問題は改善されていったのだろうか。そう、改善されたのである

例えば第二次世界大戦のさなか、英国でも食糧不足が深刻な問題となったが、栄養失調の発生件数は逆に急激に減少している。食料の総供給量が大幅に減少するという事態に直面した英国政府が、配給制度と公的支援を通じて、以前よりも平等な食料分配を行ったからである。慢性的な栄養失調だった階層の人々の食事は、戦争前よりも良好になったのだ。同様のことが医療サービスの提供でも起こった。

その結果は驚くべきものだ。戦争が続いていたはずの1940年代の十年間で、イングランドとウェールズでは男性の出生時平均余命がそれ以前と比べて6.5年、女性で7年も伸びた(それぞれ1930年代の十年間にはわずか1.2年と1.5年の伸びにすぎなかった)。公平性を追求し恵まれぬ人々に関心を向けることですばらしい成果が得られたという教訓が、英国における後の福祉国家の出現を準備する。戦中戦後に公平な社会の実現を訴えていたアナイリン・ベバンが、マンチェスターの病院を改組して英国における最初のNHS(国立保険サービス)病院を発足させたのは1948年のことである。

これと同様に明るい成果が、現在の危機の体験から生じてくるだろうか。危機を経てどのような教訓が残されるかは、人々がどのように危機に対処したか、危機において何を重要と考えていたか、に大きく左右される。

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(病院の前に設営された臨時テント。ニューヨーク、5月10日撮影)

危機と不平等

ここで重要な役割を果たすのは、統治・被統治の関係をどのように考えるかまでを含めた、政治の力である。戦時中、英国社会で食料や医療の公正な再分配が行われたのとまったく対照的に、1943年に英領インドで発生したベンガル大飢饉においては約300万もの人々が命を落とした。ラージ(統治者側)が、これを防ぐためほとんど何もしなかったからである。

現在のパンデミック対策において、衡平性は特にきわだった優先事項となっていない。米国において、アフリカ系アメリカ人のCOVID-19による死亡率は白人よりもはるかに高い。シカゴでは、全住民の3分の1にすぎない数のアフリカ系アメリカ人が、死者の70%以上を占めている。くるしみの中にひそむ不平等性は、ブラジルやハンガリー、インドなど他の国でも同様に見られる。

インドのケースは、とりわけショッキングだ。依然として不平等があまりに大きいのだ。独立インドにおいて、民主主義体制が確立したのちに大規模な飢饉が発生しなかったことは事実である。しかし公共の場にひらかれた議論に対して、報道の自由への直接間接の圧力も含め、政府からの制限は日々強まっている。しかし持たざる人々の厳しい境遇に社会の目を向けさせ、彼らを政治的に見過ごしがたい存在に変え、そして窮乏から救いだすのは、そうしたオープンな議論である。

さらに富裕層には適切な医療施設がある一方で、貧困層の大半にはまともなプライマリー・ヘルスケアすら準備されていない。近代化されたカースト制度の不平等という残酷な非対称性が重くのししかるインドでは、パンデミックにおいて衡平性に配慮した対処がなされれば、大きな恩恵を受けることができたかもしれない。しかしそのような平等主義的な対処の気配はほとんど見受けられない。逆に、自宅から何百マイルも離れた場所で暮らす移民労働者・失職した日雇い労働者といった、貧困層の中でも最も貧しい人々に対する何らの配慮も示されることのないまま、鉄道やバスの運行休止をふくむ突然のロックダウンや、きびしい監視が行われている。

たしかに、ソーシャル・ディスタンシングはウィルスの拡散を抑制する(そこに大きな利点があることに疑いの余地はない)。しかしそれはロックダウンによって壊滅的な影響をこうむる人々に対する、収入の・食料の・移動の・医療の、補償的配慮と組み合わせて行われねばならない。インドは他の多くの国と同じように、英国のNHSのようなものを必要としている。しかし現在の途方もない不平等を見ると、パンデミックに対処する中からそうした教訓が汲み取られるとはほとんど考えがたい。

残念ながら、私たちが以前よりもさらに不平等が悪化した世界で再会する可能性は高まっていると言うほかない。しかしそうではない道も示されている。危機に対処するなかで衡平性に配慮して人々の苦しみを軽減することは多くの国で可能だし、そうした経験は今後、より平等な世界を築いてゆくための思想を準備しうるだろう。まだ危機半ばにある今の時点だからこそ、敢えてそのように考えてみたいと思う。


Vera Lynn, "We'll Meet Again" (1939)