【第34回】JATO 日本人ATCリレー形式紹介企画:大石益代さん
今回は、現在、JISS(国立スポーツ科学センター)のパラリンピック競技担当トレーニング指導員をされている大石益代さんです。
アスレティックトレーナーになろうとしたきっかけから、学生時代のお話、そして現在の働き方など興味深く聞かせていただきました。是非一読下さい!
アスレティックトレーナー(ATC)になろうとしたきっかけを教えて下さい。
私の場合、そもそもAT/トレーナーという職種がほとんど知られていない時代に学生だったので、少し遡って話をしなければなりません。
高校ではソフトボール部だったのですが、1年夏に左股関節の臼蓋形成不全の手術を経験。1年かけてリハビリや体力強化に励んだのですが、2年の秋の新人戦の直前に、左ハムストリングスを挫傷してしまいました(後で骨盤の疲労骨折も判明)。
1984年当時は今のような競技復帰までのアスレティックリハビリテーションというものがなく、リハビリといえば院内リハビリで、日常生活レベルに戻るまでのものでした。学外でフィットネスクラブに通って体力強化をしてはいたものの、今なら当たり前にわかる「本当にやるべき補強・強化エクササイズ」をやっていなかったので、必然的な二次的外傷だったと思います。
この怪我を負う数週間前から左脚を挙げづらくなったり痛みが出ていたりしたのですが、そういった状態を相談できる人が当時は周りに誰もいなくて、「このまま続けていたらやばいかも…」と不安を抱えつつも、目前に迫った新人戦に向けてガンガンやってしまった結果の怪我でした。
1年かけてやっとの思いで復帰したところだったので、今振り返っても人生で一番のどん底に落ちました。その苦しい経験から、「相談できる”トレーナー”という人がいたらなぁ…」という思いが、「トレーナーになりたい!」という決意に変化しました。
アメリカでのアスレティックトレーニング学生時代に苦労したことや大変だったことはありますか?
いま振り返っても、「英語力」が苦労・大変の根底にあったことは間違いないのですが、かれこれ20年以上前のことになるので、パンチドランカー気味の私は苦労した記憶が薄れてしまいました(苦笑)。私の場合、学生トレーナーやりながら、並行してボクサーをやっちゃったりしていたので、自分で余計に負荷をかけるようなことをやっていましたね。
朝起きて1時間半ぐらい勉強してから大学に行き、午前中は講義受けて、午後はトレーナー実習して、夜はジムに行ってボクシング。帰宅して洗濯・勉強して寝るのが0時過ぎ。今考えると、よくあんな生活ができたな…と思いますが、当時は、「ATCになるために来たのだから、講義と実習は最優先。ボクシングはオマケだけど今しかできないからやる!」と燃えていました。
時々顔に殴られたアザをつくりながらも必死で選手のテープを巻いていたので、屈強なアメフト選手達からも一目置かれる存在になっていたようです(笑)。
その他、アメリカで印象に残っている出来事がありましたら、教えてください。
Seniorの時の夏休みに、MFR(Mofascial Release:筋膜リリース)と、当時まだ出始めのファンクショナルトレーニングのセミナーに参加。日本でのトレーナー業務はきっとマルチタスクになると思っていたので、徒手療法とトレーニング指導の引き出しを持っておこうと考えていました。
その後2年の間に、MFRは5回ほど集中セミナー受講とインターンシップを経験し、心と体のつながりについて身をもって体験できたことは非常に大きかったですし、ファンクショナルトレーニングで「動作を鍛える」という考え方が学べたことは、その後トレーニング指導をする上でも「核」になりました。
1999年、プロ組織化して間もないWPSL(Women's Professional Softball League)のチーム Georgia Prideで1シーズン チームトレーナーを経験できました。3か月半のシーズンで65試合だったかな…大型バスで長時間移動して、野球のマイナーリーグのようなタフな競技日程でしたが、もともとやりたかったソフトボールのチームトレーナーとしてボールパークで仕事ができた時の嬉しさ・充実感は今でも覚えています。
2000年の2月に、アリゾナのAthletes’ Performance(当時)で1か月ほどインターンをやらせてもらいました。まだ立派な施設ができる前で、アリゾナ州立大学の一角を間借りしてAPを運営していた頃の話で、代表のMark Verstegen宅のゲストルームに滞在させてもらいました。
日中はMarkたちのトレーニング指導に全部つきあわせてもらい、夜は、「書斎の書籍やビデオは好きなように見ていいよ」と 言われていたので、片っ端から見させてもらい、できるだけ吸収して帰ろうと思いました。たった1か月ほどでしたが、APのコンセプトやシステムからは多大なる影響を受けました。その後Markの活躍は皆さんご存知かと思います。
帰国後から現在の仕事に至るまでの過程を教えてください。
留学中の夏期休暇帰国時に日本ソフトボール協会と接点を持った関係で、シドニー五輪前に女子日本代表の強化合宿時の臨時トレーニングコーチ的な単発の仕事を何度かやらせてもらいました。
これがきっかけで、2001年から愛知県にあるデンソー 女子ソフトボールのチームトレーナーを3年間、2003年12月からはJISS(国立スポーツ科学センター)でトレーニング指導員をフルタイムで勤めました。
デンソーのチームトレーナー時代からソフトボールU23女子日本代表のトレーナー(大会・合宿派遣)もやっていた関係で、2005年9月からは、女子日本代表チームトレーナーをメインに日本ソフトボール協会でメディカル関連業務を担当し、JISSでは非常勤~嘱託指導員となって、ソフトボールの他、女子レスリングや女子柔道などのトレーニングサポートを担当しました。
15年にわたってソフトボールをメインにしたトレーナー活動を行ってきましたが、JISSでパラリンピックアスリートのサポートを開始するにあたり、パラ担当のトレーニング専門職の定員枠の募集があったため、2015年3月末でソフトボール関係の仕事は卒業させて頂き、2015年4月よりJISSのパラリンピック競技担当トレーニング指導員(定員専門職員)となり、現在に至ります。
現在の仕事内容を教えて下さい。
JISSは国際競技力向上のための支援と研究および診療事業を行う場所ですので、トレーニング分野のスタッフは、アスリートへの直接的なトレーニング指導がメインの業務となりますが、さらに常勤以上のスタッフは、トレーニング体育館の安全管理・運営業務も担いますし、我々定員スタッフは、トレーニング分野だけにとどまらない、多角的サポートのためのリハ・栄養・心理分野スタッフからなる「コンディショニング課」ミーティングや他部署連携のための会議、東京オリパラのサポート拠点準備、その他JISS外部との連携など、組織の中での役割という部分も増えてきています。
特にパラ担当として、JPC(日本パラリンピック委員会)との連携は非常に重要ですので、ここ数年はパラアスリート強化に関わる様々な環境づくりのために頻繁にやりとりをしています。
一言で「トレーニング指導」といっても、サポート計画立案には、知見の収集(研究員との連携)や、個別の既往歴と改善方法の確認(ドクター/リハとの連携)、個別の課題と改善方法の確認(選手/コーチ/研究員との連携)、そして体力要素の確認(測定評価)が必要で、アスリートが目指すところへの方向性に合致したトレーニングを日々実践していくことが求められます。
そして、試合結果だけでは評価できないパフォーマンス向上の成果をとらえるには、体力測定を実施して、進捗を評価し、トレーニングプログラムの更新に反映させる、というこの一連の流れを意識してトレーニング指導を行っています。
現在の1日の流れを教えて下さい。
勤務開始はやはり大量のメールチェックから始まり、その対処で30分程度要することもしばしばあります。
トレーニング指導は予約制のため、日によって違いますが、多くはマンツーマン指導ですが、時々対グループでの指導が日に2〜3件。1回のサポートは2時間前後が多いです。終了後はトレーニング記録を入力。私が担当しているアスリートはパラ競技全般と、オリンピック競技で唯一担当しているソフトボールのピッチャー数名です。
そしてほぼ毎日、何らかの大小の会議/MTGに出席。特に、昨年からは2020東京オリパラに向けた様々な準備業務に割く時間も少なくないです。
空いた時間には、アスリートの競技動画をチェックしたり、トレーニング記録を検証・プログラム更新を行います。
年齢・役割的に仕方ないとは思うのですが、「中間管理職」的業務もかなり多く、そちらに費やされる労力が半端ないこの頃です。
大石さんにとってJATOとはどのような存在でしょうか?
私がまだ学生トレーナーだった頃、日本人ATCの先輩方が総会時に集まって、組織の名称を考案されていた初期のころから知っています。日本でまだATCの認知度が低い時代であり、そしてインターネットもない時代、JATOは帰国後の日本で個々に活動していくことが日常だった中で欠かせない「同志の会」「情報共有の場」でした。
最近は、S&Cとしての仕事がメインの私にとって、JATOシンポジウムは「原点」「初心」を思い出させてくれる貴重な「時空間」です。そして、同志の皆さんの活躍に刺激を受けて、もっとがんばろう!と思える存在です。また、ATという職種の存在感・必要性・認知度を高めていくうえでも重要な中核組織であると思っています。
いつも参加させてもらっているばかりでJATOには直接的に協力できていませんが、未開の分野で働くATCバックグラウンドの専門家として、一つの足跡を残すことができるようにがんばります。
JATOに加入するメリットを教えて下さい。
職場によっては、「トレーナー」が複数いる環境にないことも多いかと思います。私もそうでしたが、特にプロではないマイナー競技のチームトレーナーをやっていたりすると、自分一人でケアもフィジカルトレーニングもすべてやらなきゃいけないような…。もちろんとても良い経験にもなり得るのですが、自分のやっていることが「独りよがり」にならないためにも、ATCの諸先輩方と話ができるのは初期のころはありがたかったですし、そこから発展して、毎年のJATOシンポジウムやセミナーでは、たくさんのATCの方々にお会でき、日本人ATCの知り合いが増えましたね。
ATCは一人一人の個性が強く、好奇心のポイントが多様なので、会話の中から発見があったり新たな視点が持てたりするのも貴重です。
それに、人って、一度でも会って話をすれば印象が残るので、例えば何らかの「トレーナー募集」の話を聞きつけた時に、「あ!あの人いいかも…。連絡入れてみよう!」という紹介・斡旋につながることもありますよね。なので、就職に有利という点も挙げられるかと思います。
あとは、やはりCEUを稼げるセミナーを企画して頂けるので、なかなかアメリカの総会に行けない身としては非常にありがたいです。
これからATCを取得してアスレティックトレーナーを目指している学生にメッセージをお願いします。
まず、「少年よ大志を抱け!」かな。大志を抱いてほしいです。
壮大なことを言うようですが、私自身ATC目指して渡米した際、「いつかは日本のスポーツ界に役立つ人間になるぞ!」という志を持ち、日々しんどいことに追いまくられながらもその志を持ち続けました。
すると、自分という小さな人間のエネルギーを超えたがんばりができることをしばしば体験しました。「自分が成長することが、日本のスポーツ界のためになる!」という勝手な思い込みが踏ん張る力となり、その力が蓄えられ、相応しい時が来たときに未来を拓いてくれました。実話です(笑)。
そして、学生時代はとにかく「地力」をつけることに努める。知識もそう、実技実習もそう、毎日の小さな「入力」をどう濃くするか?!は自分次第だと思います。何をやるのでも心構えをしっかりと持つ。テーピングであれば、一球入魂ならぬ一巻入魂!いろんな形の足関節を巻かせてもらえることに感謝しつつ、私が巻く足関節は絶対に怪我をさせないぞ!と念を入れながら巻いていました。暑苦しい話ですかね(苦笑)。
それと、「種まき」=人脈づくりも大事です。自ら足を運んで人に会い、自己紹介しておく。いろんなところに種まきしておくと、いつその芽が出るかはわからないけれど、それが一つのチャンスを引き寄せてくれると思います。私も学生トレーナー時代に休暇帰国した際、日本ソフトボール協会に出向いて、「今、アメリカでトレーナーになるための勉強をしています。今後多少なりともお役に立てることがあるかと思いますので、何かありましたらご連絡ください。」とアピールしました。
その1年後ぐらいに、静岡で行われた女子ソフトボール世界選手権の大会医療スタッフ(ボランティア)のお話を頂き、そこからU19代表の帯同トレーナー、日本代表の臨時トレーニングコーチへと繋がっていきました。チャンスをもらえたら「ええ仕事しまっせ!」とできるように地力を蓄える努力をしつつ、チャンスを引き寄せてモノにするための心がけも必要だと思います。
【編集後記】大石さん、JATOの設立初期の頃からアスレティックトレーナーとして道を切り開いてきたお話、そして、これからATを目指す方々への熱いメッセージ、ありがとうございました。今年のパラリンピックでのご活躍も楽しみですね。応援しております。
この記事は、3/15/2020にJATOウェブサイト、およびJATO公式フェイスブックページに掲載したブログ記事を再編集したものです。
----
▼JATOウェブサイトはこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?