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日本史は楽しく学ぶのが一番 藤原仲麻呂 和気広虫 道祖王 奈良時代を生きたこの3名に共通することは?

数か月前から、本当に久々に留学生や理系の生徒ではなく、文学部を希望する生徒を教えることになりました。で、今日は私の日本史の教え方を書いてみたいと思います。

私は奈良時代から日本史の入試対策を本格的に始めるのがいいと思っています。

それは、

期間が短い。
神話から歴史への時代。
国家仏教の時代。

時代も短く、貴族と仏教中心の時代で登場する人物が少なく、全く関係のないように思える人物同士がすぐに結びつくことで歴史を学ぶ楽しさを感じることができるからです。

さて、問題です。

藤原仲麻呂
和気広虫(女性です)
道祖王(ふなどおう)

この3名に共通することはなんでしょうか?

わかりますか?

藤原仲麻呂は706年生まれ764年没で、太政大臣を務めて孝謙天皇と淳仁天皇時の最高権力者です。

和気広虫は730年生まれ799年没で、女官でありましたが、出家して法均と号されました。和気清麻呂の姉でもあります。

道祖王は生まれた年は不明ですが、757年没で、皇太子にもなった天武天皇の孫です。

生まれた時代は被っていますが、歴史書を見ても直接つながりがあるようには思えない3人でもあります。

実はこの3名は、改名をした。(藤原仲麻呂)改名をさせられた。(和気広虫、道祖王)3名です。

藤原仲麻呂は、孝謙天皇が女性であり、かつ、独身だったために跡継ぎになる子供がいなかったわけです。そこで、同じ天武天皇系で、とても仲の良かった大炊王を次期天皇に推薦します。そして、淳仁天皇が誕生しました。

全く次期天皇候補にも名前が挙がらなかった淳仁天皇はその喜びで、藤原仲麻呂に恵美押勝という名前を与えます。764年に起きた藤原仲麻呂の乱は恵美押勝の乱ともいわれています。

次に和気広虫は女官時代に孝謙天皇に仕えており、孝謙天皇が譲位して上皇になった後に一緒に出家して法均を号しました。

宇佐八幡宮神託事件では、孝謙天皇から神託を請うための勅使に任じられましたが、病弱と女性であることで弟で仲の良い清麻呂を代行させています。この宇佐八幡宮神託事件は日本の歴史の中、特に天皇を語る上でとても重大な事件でもあります。ただこの事件で、称徳天皇(孝謙天皇)が怒り、広虫には、狭虫(せまむし)または広虫売(ひろむしめ)<遊び人>と改名させられました。後に、改名は取り消されました。

最後に道祖王ですが、孝謙天皇が女帝でかつ独身であることから、次期天皇を長屋王の子である黄文王を擁立する動きがありました。これは男性の皇位継承者を求める動きからの行動でありました。

聖武太上天皇が崩御すると遺言によって道祖王が立太子となった。しかし、素行がとても悪くすぐに廃位させられてしまい、そのうえ橘奈良麻呂で謀反の連帯責任を取られて、麻度比と改名させられてしまいます。麻度比とは、惑い者、遊び人という意味です。そのうえで捕えられた上で獄死してしまいます。

3人とも孝謙天皇を通してつながってきたのがわかります。また、橘奈良麻呂の乱は藤原の仲麻呂に不満を持つ者の乱であるので、道祖王と藤原仲麻呂もつながってきました。

さらに、宇佐八幡宮神託事件は、称徳天皇(重祚)<同じ人物が再度天皇に返り咲くこと>と愛人?である道鏡が結託した事件で、この二人は藤原仲麻呂の乱で藤原仲麻呂とその一族を潰したわけです。その時に、広虫(法均)は、連坐して斬刑する予定だった375人を広虫が頼み減刑にさせたという流れです。

こうして少しずつ3人の関係性がつながってきて、この3人からいろいろな事件にもつながってくるわけです。

道祖王は天武天皇の孫ですが、持統天皇の孫ではなく、五百重娘との子供で、この五百重娘は藤原仲麻呂の祖父に当たる、藤原不比等の妻でもあり、藤原四子の藤原麻呂の母でもあります。

また、私が奈良時代の改名で一番強烈なインパクトを受けたのは

和気清麻呂の改名で

清はすがすがしい、クリーンなどの意味があるために

別部穢麻呂と改名させられたことです。

ぴんと来ないですよね。穢とはどう読むのか。

穢とは穢れ(けがれ)と読み、それを当て字で、きたなまろと読ませたわけです。

ここまでいくと、小学生のいじめのレベルですよね。

歴史は年代順に合わせて覚えることも一つの受験対策としての勉強方法だと思います。しかし、このようによくわからないがインパクトのある名前から歴史を学ぶことも一つの勉強方法ですし、インパクトのある名前だからこそ記憶にも残ります。

聖武天皇の母は藤原宮子で藤原不比等の娘で、この宮子は7歳の時に心身障害で療養して、聖武天皇が37歳で再会するまで30年間会っていなかった。という、昔のサスペンスドラマになりそうなストーリーを持っています。

奈良時代だけで、このような話はまだ数十倍は最低でもあります。このように単なる勉強として、ひたすら暗記、暗記、暗記と拷問を受けているかのように学ぶよりも、ストレスの感じない学び方をする方が、点ではなく、線になって、それが組み合わさって四角形になったり、不規則な形になったり、その図形が交わったりしながら記憶を容易に蘇らせることができると思います。

2年前に東京大学に合格した生徒とは、このような勉強方法を行ってきました。つまり、考えたり、問題を解いたりするだけでなく、集中力がないときや、リラックスしたい時は、生徒が完全に聞き手に回って、聞いていく中で自由に質問をする。

例えば、藤原仲麻呂の乱は、英語でrebellion ですか war ですか、incident ですか。また、歴史の事件の乱や戦争はどのような基準で訳せばいいですか。

のような質問があったり、

先日は、孝謙天皇は大炊王に皇位を譲渡した。を英語に訳したらどうなりますか?

と、質問されたので、

Empress Koken abdicated in favor of Oi Shinno.

辺りが妥当だと伝えました。このin favor of はいくつかの選択肢の中から選んだというニュアンスを出す場合に使うと効果的です。

他にも歴史表現の英語では、孝謙天皇の女官だったら、lady in waiting
墾田永年私財法だったら、konden einenn shizai ho というのは冗談で、いろいろな訳がありますが、わかりやすいなと思うのは、the Law Permitting Permanent Ownership of Newly Cultivated Land あたりが妥当では。

歴史で英語を学ぶのも面白いです。翻訳能力がつきます。

とにかく、歴史は楽しく学ぶこと。そして、これからの歴史の勉強は単なる暗記に頼るだけでなく、歴史から何を学べるかを深く考えること。それが、歴史だけでなく、歴史を含めた小論文対策にもなります。

特に、奈良時代の文化が現代まで残っているものはたくさんあります。例えば代表的なことでは、

藤原氏多すぎ問題

歴史を勉強する中で、奈良時代や平安時代でびっくりするほど登場する藤原氏。当時は、そのような状況ですから、相手は役柄や地名などで読んでいたようです。

これが今の、上司のことを課長や社長と読んだり、千代田区の渡部さん、莉穂さんのお母さんなど、英語圏では考えられない呼び方をするのも、この時代の名残のような気がします。

歴史の勉強は楽しく。これが大切です。


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