9/8 愛されるよりも愛したい?

なりたい自分20選:美容にお金をかける、クリア

美容院行って来ました!!16000円!!!
やっぱり、Yさんにお願いすると納得の仕上がり(たった2回目w)。
お金を出してもこの人にお願いしたい、って思わせるの、やっぱりプロだなぁと思えるし、今までほとんど美容にお金をかけてこなかった自分がそう思える人と出会えたこともすごく嬉しい。
今までほとんどセルフカラー、歴が長くなればそれなりに上手くもなり、髪が強いこともあってトリートメントしなくてもなんとかなってて、たまーにカットだけしに行くという怠慢をしていたんだけど、
この歳になるとセルフでは限界が。。歳のせいにはしたくないけども、見た目だけじゃなくてマインドも多少変わったのか、お金をかけてあげたいって少し思えるようになりました。
それでも服は同じようなのばっかり着てるし(好きで着てるからいいんだけど)、たまに買ってもGUだし(流行りものが安く手に入れられるし気軽に着れるしで助かってます)、ファンデーションはいまだにデビューしてないし(ファンデを塗ると乾燥肌がここぞとばかりに粉ふきを見せつけてくる&塗ってます!感が出ちゃってBBクリーム止まり)、ネイルはほとんどしない(時々セルフでジェルネイルする、ジェルネイルも趣味)から、ヘアぐらいしかお金かけるところ今のところないんだけどね。
肩につくぐらいのボブにしてバレイヤージュ風にしてもらいました!
ネットでこのヘアスタイルが好き、ってのをあれこれ見せて、こちらの好みを吸い取ってもらってあとはお任せ。100%信頼してお任せできます。
次に行くのも楽しみ!次も美容院行くのめんどっ、って思ってた今までと比べると、楽しみが増えたって嬉しいことですね。

美容師Yさんとの会話での気付き

Yさんは私の2つぐらい上だったかな?ほぼ同世代ってことで気軽にお話しできるのも行きつけになった理由の一つなんだけど、
Yさんはユーモアもあって、自分の仕事や技術に誇りを持ってて、「自分」というものがある、アーティストタイプの美容師さんだと私は思う。
そのYさんとした今日の会話で気付いたことを忘れないようにメモ。
・大事なのは「目的」であって「手段」ではない
→例:縮毛矯正に来たお客さん。でも、その人の髪質によっては縮毛矯正じゃなくても、トリートメントでサラサラになるケースもあったり、癖毛を活かしたりすることもできるから、Yさんは他の方法も提案するそう。でも大体のお客さんは、「縮毛矯正がしたい」ってなってしまうそうで、
Yさん的には、「かわいくなりたい」が目標なんじゃないの?と。
どうなろうとも「縮毛矯正をかける」が目標なのであればやるけど、「かわいくなりたい」が目標なら他の手段を使えばいいのに、って。
ほんまそれな。「目標」がズレてしまうことって、度々ある。
常に目標はなんだったか?手段が目標になっていないか?を自分に問いながら人生の選択をしていかないとだな。目標は途中で変っちゃっても良くて、
目標と手段を混同しないように、目標を見失わないように、ってのが大切だなぁと思いました。

・俺は夜頑張るんで
自己啓発系では朝活をしようって言われてて私も挑戦したいけどいまだに一度も早朝に起きれたことがない、って話をしたら。
Yさんも夜型で、一度早朝に起きて趣味をしてから仕事をしたけど、ボロボロで上手くいかなったとのこと。なんなら夕日を見るとアドレナリンが出てやる気と幸福感を味わえるそうw
ここでYさん「俺は夜型だからその分夜に頑張るんで。」って言ってて、かっこいいなぁと思いました。無理に世間で言われてる「素晴らしいこと」に合わせずに、自分に合っていて、自分にできる範囲のことをする。自分を分かってる、ってことですね。
と同時に、夕日を見るとお腹の中から嬉しい!のエネルギーを感じるそうで、それほどまでに楽しい!と思えるものを見つけられているYさんは幸せだなぁ、とも思いました。
それでも私は毎夜、明日こそは朝活!と思いながら寝てます。w
一度でいいから朝活を体験してみて、それで自分の心と体がどう思うか判断したいんだよね。でも起きられない・・低血圧のせいにさせてください。

・立場が変わると
それから、スレッズで人間観察してます、って話から、
飲食店とか自営されている方が自分の店舗の名前を出してお客様の文句を書いてるのを見ると、うーんと思っちゃう、って話をしたところ、Yさんは、自分もお客様の文句をああ言ったところに書くのはどうかって思うけど、もし自分が個人で経営していたら、自衛のために書いちゃうかも。
ほう!!なるほど!!!と思いました。
自衛の手段。たしかに。個人で経営される方は、自分で自分を守るしかないもんね。そうなると、大手よりもっと店側が客を選ぶことも出てきて当然だし、そうしないとやってられないよね、と思いました。
これぞ、昨日のタロットの「視点を変える」って話なのかな?
(そして美容院には3時間ほど滞在しました。終わる頃には自分しかお客さんいなくて掃除始まってた・・Yさん、長いこと&遅くまでありがとうございました!)

愛されるよりも愛したい、について

先々週ぐらいから、心理学系のYoutubeを聞いていて気付いたことがあって、私はずっと、「自分は愛されない」と幼少期から思っていた、と思っていたんだけど、本当は愛せないって思ってるんじゃないか?という疑念が。
大体、恋愛って「愛されること」に焦点を置きがちだけど、実は「愛すること」も同じぐらい大事なことで(ってカウンセラーが言ってた)。
私は普通の家族の元に生まれ、愛情もお金も教育もかけて育てられてきて、はたから見ればどれだけ甘やかされて来たんだってぐらいらしいんだけど、
両親が共働きだったこともあって小さい頃は寂しい思いもしていたんだけど、だからって、決定的に「愛されていない」って思うような事象もなく。
もちろん、生まれ持った気質で愛情を感じ難いとかってのもあるのかもしれないんだけど。で、なんで、どちらかと言えば恵まれた境遇なのに愛されないって思ってるんだろう?って違和感みたいなのがあって。
そこで、もしかして、「愛されないんじゃなく、愛せないんじゃないか?」って疑惑が生じたわけです。
愛せない、って誰のことも愛せないとか生理的にムリとかそういう話ではなくて、愛された分、こちらも愛する(お返しする)自信がない、って感じで。ちょっと上手く説明できないので、もう少し理解が進んだら再度この件について書こうかな。
で、愛せなかった経験ってなんかあるかなぁと思いながらここ2週間ほど過ごして来て。覚えてるのは、いつからか写真に撮られるのがすごく嫌になって、かわいくないのに、とか、私なんか撮ってどうすんの?みたいな捻くれた発想で、小学校低学年以降の写真はほぼ仏頂面w
旅行に行ったり、何かイベントがあれば写真を撮ろうとしていた両親からは愛情は感じていたはず、なのに受け取ろうとしなかったんだな、ってのは分かるんだけど、なんかもっと強いのがあるはずって思ってて(私は上に兄が2人いて、5歳ずつ離れている&兄がヤンチャで手がかかったこともあり、両親は常に兄の心配をしていてあまり構ってもらえなかった、ってのはあるんだけど。この想いはまた後日)。
そして今日、寝ぼけてる時にふと思い出したことがありまして。
私は両親と兄二人と、母方の祖父母と生まれた時から住んでいたんだけど(ちなみに祖父には溺愛されておりました)、父方の祖父母は四国にいまして。
四国のばあちゃん、私が小3の時だったかな、心臓病で亡くなってしまったんだけど、
ばあちゃんは、毎日、私の声が聞きたくて、電話をくれていたんだけど、
当時の私は、毎日話すこともないし、TVが見たかったりで、電話を取ったのが他の家族だった場合はTV見てるから、とかって理由で出なかったり(サザエさん見てるからって言って!ってお父さんに言ったのをすごく覚えてる。で、実際サザエさんはそんなに夢中で見てなかったと思う。ただ面倒だっただけ。)。
このことを、すっっっっっっっっごく後悔してる。
ばあちゃんに、なんてひどいことをしたんだろう。このサザエ居留守の件では、お父さんからすれば実の母親に対して孫が冷たくしているのを受け止めさせたわけだし、本当に、土下座して謝りたいぐらい、後悔している。
こちらからばあちゃんちに電話をかけると、ほぼばあちゃんが電話をとるんだけど、その声は今でも耳に残ってて、「はい、○○です。」その後私がもしもしとかなんとか言って声で私だと分かると、「あ、あーちゃん?」ってすごく声が嬉しそうになる。あーー〜ー今これ書いてて泣けてくるわ。
もう30年ぐらい前のことだし、ばあちゃんとは人生で数回、数十回ぐらいしか会ったことがないんだろうけど、この電話の声は鮮明に今でも聞こえてくる。ばあちゃんの、私の声が聞けて嬉しいって気持ちも伝わってくる。
ばあちゃんにとっては私は初孫じゃないし、従姉妹たちと違って近くにいて愛着が湧くような距離でもないのに、とてもとても愛してくれて、大切にしてくれた(物質的にも、雛人形やらランドセルやら、金目のものはばあちゃんが払ってくれていたそうです)。

さらにばあちゃんが亡くなってお葬式、って時にも、子供ながらに亡くなった人間に会うのが怖い、と思って、算数の授業についていけなくなるのが嫌だから、って言い訳をしてお葬式には行かなかった(最初から連れてくつもりは両親にはなかったかもだけど)。それもとても後悔している。
その後、49日だったかでばあちゃんの家に行った時に、お父さんが骨壷を持ってきて、お骨を見ろ、と。もちろん人間の骨なんか見たこともないし恐怖でしかなくて、やだー!って泣いたけど、普段優しいお父さんなんだけど線引きはしっかりしてる人で、その時は「しっかり見ろ。これがばあちゃんだ。」って、骨壷の蓋を開けた。お骨そのものはあんまり覚えてないんだけど、やけに厳しいトーンの父親のことをすごく覚えてる。
父親はどういう気持ちだったんだろう。
母親(ばあちゃん)への愛だったのか。
私がばあちゃんの愛を受け取っていないことを知っていて、せめても、と思ったのか。
人は死んだらこうなる、と教えたかったのか。
少なくとも、ばあちゃんへの愛ゆえ、だったのは間違いないだろうな。
なんか記憶では、その時、多分法事だったんだけど遊びに来た感覚で私は多分はしゃいでたから。ばあちゃんが亡くなった(人が亡くなった)という感覚も分からず。父親は、最愛の母親の死を悲しんでいない(ように見えた)自分の娘に思うところがあったのは確かだろうな。と思うと、父ちゃんもごめん…ばあちゃんのことがどうでも良かったんじゃなくて、死というものが分からず、また死に対してどういったリアクションを取る(受け止め方をする)かが分からなかった。ばあちゃんのことは大好きでした。

きっと、このばあちゃんの愛に応えられなかった罪悪感を、今でもずっと引きずっているんだと思う。
似たような、祖父母の愛に対して反抗したストーリーはいくつもあるんだけど、特にばあちゃんとは距離もあるし亡くなったのも9歳で、一つもばあちゃんのために何かしてあげた、ってことがないから余計に罪悪感が重いのかもしれない。もう今は何もしてあげられなくて、せいぜい罪悪感を一生背負って、私があちらに行った時に謝るぐらいしかないのか。
でもそんなの嫌なので(え)、どうにかこの罪悪感を癒して、またばあちゃんの思いに遅きながらも応えられる方法はないのか?と考えた結果、「あーちゃん?」というばあちゃんの声を思い出して、その後、心の中で今の私からばあちゃんに話しかけていこうと思ってます。
ばあちゃん、今日は美容院に行ったよ。
ばあちゃんに似て濃い顔に生まれたもんだから、派手髪が似合うんだよ。
それから無印良品に行って旅行グッズでも買おうかと思ったけど、結局バームクーヘンを2個買って帰って来ちゃった。夜ご飯はうどんを作って食べたよ。生姜を入れるとおいしいんだよ。それからジムに行って運動をして、汗をかいたけど今日はもうシャンプーしないから汗まみれで寝るよ、シャワーで体の汗は流したけどね。明日から月曜日でまた仕事だけど、楽しみながら頑張るよ。もう自分でお給料を貰えるようになってるよ。
きっとばあちゃんは、「ほうね、あーちゃんは賢いけんねぇ。」って言ってくれるんだろうな。
あああ。ポエムみたいなこと書いて一人で号泣してます。アホか。
死後の世界があるかは分からない(あるって信じたい派)。
私がばあちゃん含め亡くなった家族を想ったとして、それが故人に届くのかも分からない。
だけど今初めて、ばあちゃんに語りかけて、なんかちょっと優しい気持ちになれて、ばあちゃんの愛に包まれたような気がします。
とりあえずはそれでいいや。
ばあちゃんだけじゃなくて、他にも亡くなった家族に謝りたいことは山ほどある。どう償えるんだろう。そうやって考えていくことが仏教でいう修行なのか。私にはまだ分からん。
ひとまず今日のところはばあちゃん、愛をありがとう。私もばあちゃんが大好きだ。


明日のタロット

長くなり過ぎたので手短に。
ペンタクルのペイジ!!
真面目に仕事しましょう!!!以上!


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