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日本人に合った指導法

以前に記事でも少し触れましたが、現在のサッカー指導界は細かいところまで定義化、体系化、言語化した超論理的思考の指導スタイルが流行っています。

一方古き悪しき不勉強をごまかすためのブラック企業的「理屈じゃないんだ」スタイルの精神論指導を多めの割合で用いる指導も未だにはびこっています。


この二極化は以前の記事でも述べた若者と年配者の対立構図に似ています。


サッカーのいいところは国技や国技的スポーツと違って内向的な自己満足を良しとしていないところです。

サッカーに限ったことではないですが、国際的な戦いの場を多く用意されているスポーツは世界に追いつけ追い越せとばかりに、海外の成功例を取り入れようという姿勢があります。


これには歴史的、宗教的、地理的背景も大いに関係していることと思いますが、そもそも島国で育った我々日本人は閉鎖的な自己満足や自己憐憫を得意としながらも、それと相反する西洋に対する憧れというものがスポーツに関係なく(主にファッションなどの文化に対しても)国民性として根付いているように思えます。

これには憧れの対象となっている国や地域の広報(イメージ戦略、プロモーション)が上手くいっているといった側面もあります。


話をサッカーに戻しますが、ここ最近の論理派は一様に戦術的理解と思考と判断の重要性を説き、そこに働きかける練習メニューや練習スタイルを好んで用います。

他ならぬ私自身にもその嫌いはあり、自分で言うのもなんですが、このスタイルを肯定的に受け止めています。


ただここで考えなくてはいけないのは、限られた練習時間の中である分野をメインに成長させようと目論んで練習に取り組む、取り組ませるということは他の何かを捨てている、ということを自覚しなくてはいけないということです。


数年前に天皇杯でJのクラブを破り話題になった地域リーグのチームも、当然と言えば当然ですが、練習にフィジカル系のトレーニング時間が割かれる割合は大きいと聞いています。


ここ数年の世界的トレンドを無視し続けるようにスピード、高さ、パワー勝負のストークのようなスタイルを身につけるには、それ相応の選手をラインナップにそろえると同時に練習メニューの割合もそれに見合ったものになるのは、想像に難くないでしょう。


以前の記事でも述べたように日本一国に限らず世界的に見ても、昔の選手に比べると現代の選手の方があり得ないようなケアレスミスを実践で犯してしまう頻度が増えたと言われています。


このように、何を優先するかを決断するときに日本人に馴染みやすい、武道で言うところの「型」のようなものを持った指導スタイルがいいのかどうかは一考する必要があるかと思います。


指導者の言うことを聞かない南米人やヨーロッパのローマン系言語の民族はその指導スタイルに緻密さを用います。

プレーの定義化だけでも様々です。


一方、日本人と国民性が幾分近いと感じられているドイツやイングランドの指導者講習では基礎概念、原理原則の理解の徹底に時間を費やされます。

後は現場で学んでこい、というスタイルです。(そのくせイングランドのライセンス試験の合格率は10%を切るくらい難しいですが)


「その国の国民性に対してストレスのかからない指導法を用いると、良くも悪くも(主に悪くもですが)その国民性が助長されたいびつな有様に結実してしまう。

よって各国のサッカー協会は自国の国民性と反対の指導スタイルを用いているのではないか。」


確かこのようなことを元日本代表コーチの小野剛さんが著書の中で語っていたと思います。

これには考えさせられるものがあります。


私自身の実体験では上記に上がった国の中ではイングランドについてしか語れないので、ドイツの指導業界にどのような文化があるかは分かりかねますが、サッカー用語一つをとってもスペインに対してイングランドは共通言語が少ないことに私は気づいています。


英語を話せる人間がローマン系言語(ここではスペイン語としておきます)を学ぶときのあるあるに、スペイン語を訳すときに単語やフレーズを調べるにあたって、西日辞書よりも西英辞書の方が理解が進みやすいというものがあります。


というわけで私もこの例に漏れずにAnkiアプリにスペイン語とその英訳を一組にして打ち込んでいきましたが、サッカー用語を書くときにどうも英語と馬が合わないものにしばしば出会います。

それに該当する一般的な単語や短いフレーズが英語には無いからです。


ちなみにスペイン式の指導法を好んで学んでいる日本人の同僚にDesmarque(マークを外す動き)を、分かりやすい一単語で指導に用いたかったのでしょう、日本語に該当するものが無いその単語を英語に置き換えて用いてみようと、その英訳を私に尋ねてきましたが、英語こそ共通言語化しているものは無かったので、「強いて言うならOff The Man、日本風にアレンジするならOff The Markってところかな」と答えるくらいしかできなかった、という経験もあります。


話が逸れかけましたが、どの国の指導法であろうとカリキュラムであろうと要項であろうと、定義化や言語化、体系化しているものは伝達がしやすく流布もしやすくあります。

一つのコンテンツとしてパッケージ化しやすいとも言えます。


商品としては売れやすいし、指導者がそれを勉強したいと思うのはあって然るべき、というより尊敬すべき姿勢でもありますが、これも以前の記事で触れたとおり、指導者というのは知識欲と同時に知識を持っていることを示したい欲も持ちがちです。


そんな人種である我々指導者はその傾向をまずはしっかりと自覚し、戒め、選手にどのタイミングでどのスタイルの訓練を用いて成長を働きかけるかは、きちんと吟味しなければいけないところであります。

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