誇りと安心
あくまで「自分の周り」レベルの話ではありますが、私が初めて日本の高校の部活動に関わった2012年から比べて、日本の高校サッカー界の指導者の能力はさらに向上してきたように感じます。
メディアが「教育現場の労働環境の悪質さ」を糾弾してくれているおかげで、学校の教員にもスポーツ指導の勉強時間がとれるくらいには、それ以外の学校業務の負担が減ったのでしょうか。
あるいは単純にスポーツ指導に専念できる外部委託コーチが増えたのでしょうか。
個人的には学校業務の負担は減っていないが、それでも努力してサッカーの研究を続けている教師が増え、かつ外部コーチも増えたイメージがあります。
いずれにしても体罰、パワハラ問題の報道のせいで世間的にはネガティブなイメージが抜けないものの、逆に報道がそれらの抑止力になっているのか、全体を通しては感情的な発言や行動をする大人や、自身の勉強不足を精神論でごまかす指導者がだいぶ減ってきたように感じるのはあながち間違いではないでしょう。
能力の高い指導者、特に教師兼コーチに出会うたびに頭の下がる思いがします。
優秀で熱心な教育者が増えるのは個人的には好ましい事でありますが、これらの教育者どうしが特定のスポーツに対しての持論を展開すると「結局大事なのは人間性」となり、それらを作り上げる「学校教育の在り方」がやり玉に挙げられ、サッカーの場合だと「今の学校教育のままでは日本サッカーは強くならない」的な論調で討論は締めくくられます。
集会での校長先生の話に惹きこまれた試しがないことからも分かるように、基本、教育者の話というものは関係者以外が聞いたら(私自身も含めて)長くてつまらないものですが、論じている当人たちは(やはり私自身も含めて)この手の話でいつも大いに盛り上がります。
盛り上がりはするのですが、私は学校教育や社会全体、あるいは日本人の国民性の批判になると実はいつも懐疑的な反応を見せます。
ところで私は4年ほど前アイルランドの4部に相当するリーグで、その年にチャンピオンになり昇格するクラブのファーストチームとリザーブチームを指導していました。
4年前の2016年と言えばちょうどEUROが開催されていた年でもあり、私は新しい戦術や論理の発見のために、試合時刻が被っているせいで片方しか選べない場合を除き全ての試合を、外国人たちとシェアしていた家のウェイティングルームやパブで観戦しました。
私が住んでいた首都ダブリンの街全体も、いくつかの幸運が重なり最終的には決勝トーナメントに駒を進めることになる自国アイルランド代表を応援するムードに包まれていました。
そしてその熱気に沸くお祭りもまだも2、3日目の頃、ウェールズの初戦を自宅で観戦しながらルームメイトのクロアチア人と幸福論について話をすることになります。
世界屈指のストライカー、ウェールズのギャレス・ベイルのプレーを見て、自陣のゴール前から相手のゴールへ向かって一人でボールを運ぶプロセスの中で、ユニット内やユニット間の連携ではなく、独立した個人の能力を戦術に組み込むことが出来る、戦術として算段が出来る彼のようなタイプの超一流をレアル・マドリーは何人も抱えている、ズルい、というところから始まった話でした。
「レアルも試合に負けることがあるが、あれだけの条件がそろっていてどうやって負けられるのかが、逆に分からない」
このレアル絶賛を受けてルームメイトは、どこまでが因果の噛み合った正しい情報かは分かりませんが、「でも大金のかかる彼らの獲得金のために銀行が無理な工面をして、それのせいでスペイン全体の経済が落ち込んでいる。若者の失業者数も一向に減らない」という旨のことを言いました。
ネット上の情報はどうか知りませんが、私も当時の友人のスペイン人たちから「若者世代の半分以上は、少なくとも合法的な仕事は持てていない」と聞かされたことがあり、ルームメイトの話には一考させられるものがもちろんありましたが、その時私が返した言葉は
「でも経済的に安定しているだけの国と、安定してはいないけど世界に誇れるスポーツ団体を持っている国の国民とでは、どちらが幸せか一概には言えない」
というものでした。
(個人的にはスペインの誇りはレアルではなくバルサだと思っていますが。)
私の周りの初海外生活経験者たちは、多くの割合で「海外(滞在している/していた国)崇拝」タイプになり、少ない割合で「やっぱ日本が一番だよ」の「日本万歳」タイプになります。
このどちらかに偏るというのは、特に一か国でしか居住経験がない人に多い傾向です。
サッカー関係者もしかりで、クラブに対して国や地域から助成金が出たり、チャリティーの文化が根付いていたり、学校教育の単位取得の仕組みがサッカー選手に肩入れしているかのように思える実情を目の当たりにすると
「日本も見習うべきだ」
という感想を持つ方が多数派になります。
ちなみに私はこれに対しては先ほどとは逆に
「でも見習ったせいで今の日本の経済、福祉、治安、その他諸々の水準は下がっていくかもしれないよ」
と、否定はせずとも釘を刺す反応は見せます。
私自身は天邪鬼な方かもしれませんが、それが故の態度ではありません。
ある分野の人間がその分野での成功を志すとき、その分野以外の人間をも含めた、より多くの人間の幸福について考えないと狭角的な利益に結実する恐れがある、という思いがあるからです。
がしかし、これに照らし合わせると、先ほどの「世界的に人気のあるサッカークラブに託したプライドで国民の幸福を賄えるかも」というアイディアは実に一元的な逆説にも聞こえます。
つまり私は恥ずかしながら、日本人にとっての、あるいはスペインや世界全体の多くの人にとっての幸福とは何か、という以前に自分の好みすら未だ思考中の段階なのであります。
とはいえこれに関しては私だけでなく指導者や教育者と呼ばれる人たち全てが意識しながら職務に当たらないといけないところであります。
サッカーの指導者は教え子にサッカーを続けさせることが常に正しいという思考停止の絶対正義があるが、本人の幸福を多角的に考えた場合必ずしもそうとは言い切れない、というどこにでもあるこの手のストーリーも、言ってみればこの話と同類であります。
メディアなどを通した宣伝、営業、説得後の意思表示や、限られた条件の中での消去法的選択、羞恥心や一般常識と呼ばれるものによって心に制限がかかった条件で望む利益や信条のことを言っているのではありません。
説くだけ野暮なのですが、心の好き嫌いの反応は、善悪の知識とは別のところにあるので、故に人様の幸せを考えることはおろか、自分にとっての幸せを考えることさえ、時に非常に難しく感じるのです。
話は変わりますが、幸せと言えばそこからさらに一年前に、東京に住んでいた私は、幸福大国デンマークに住むドイツ人の友人に頼まれて、彼女の友人二人を東京でガイドしたことがありました。
ガイドと言っても、そのドイツ人の友人と同じロウイング(ボート)クラブに所属しているデンマーク人カップルが日本に観光に来るとのことで、彼らの在京時に僕が知っているラーメン屋に連れて行っただけの話です。
新宿はゴールデン街にある有名店に行き、店の前に出来ている行列で待つ間、お互いの自己紹介や彼らの馴れ初めは聞き終えて、しかし話し足りなかったのか、食事を終えて店を出た後も飲もうかということで、歌舞伎町にある半屋台のような店の長椅子に腰を落ち着かせました。
「実は彼女のお腹の中に子供がいる」という話の流れで、彼らの国の福祉の手厚さに関する話になり、僕自身が賛成しているかはともかく、挨拶のような社交辞令で「デンマークは幸福大国だもんな」という反応を示してあげました。
これに対して彼氏の方が
「でも幸せの感じ方は人それぞれ。リサーチの指数では人の幸せを測れない」
という真っ当な返しをして
「例えばスペイン人なんてあんなに酷い失業率にもかかわらず、いつも楽しそうじゃないか」
とも付け加えました。
さて、我々日本人はどのように幸せを感じるのでしょうか。
指数では測れない個々の幸福感を最大公約数的に、あるいは多数決的に保護していこうと努力するのが、その国々や地域の政治の仕事であります。
教育も福祉も治安も経済も取り仕切る当局が出した答えと実行が、我々が関わる一スポーツの理念や利益と異なろうとも、我々指導者がすべきことは、その限られた材料と条件で、その限られた環境の中で、しかし我々自身は自分たちのクラブの選手、スタッフ、ファンの幸福感を最大公約数的に、あるいは多数決的に求めていく志を持つことではないでしょうか。
ちなみに学習指導要綱が変わって2020年から大学入試にも変化が起きましたが、これが日本人の国民性にどう影響を及ぼすのか見守っていきたいところであります。
私自身は「100年経って、日本人はちょっと変わる」くらいに推測しています。
この変化の速度はポジティブなものだと思います。
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