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埼玉の「鴨川」と伊奈忠次

「鴨川」と、それにかかる橋をめぐるにあたって、重要な人物として伊奈忠次がいます。

伊奈忠次は、徳川政権の重要な行政官だったにもかかわらず、案外と評伝的な本は多くありません。

本間清利氏の『時代を創る伊奈忠次』(叢文社 1998)くらいしか見当たりませんが、この本はとてもよかったです。

伊奈忠次と「鴨川」の関わりは、1596(慶長元)年の大洪水に際して、関東の治水の必要性が生じた時、鴨川と合流していた旧入間川の流路を変えて荒川と合流させ、それによって「鴨川」は独立した河川として成立したという部分です。

伊奈忠次はもともと家康配下で、父が一向一揆に関わって、出奔して、各地を放浪し、そこで治水や土木について学んだりしたようです。

その後、長篠の戦いで、再度取り立てられますが、松平信康の謀反に連座してふたたび出奔、堺で商業的な仕事をしていたそうです。

本能寺の変で、家康が伊賀越えをするときに、忠次はみたび家康に仕え、それを成し遂げます。

天正壬午の乱(旧武田領に侵攻して、北条、真田と領土争いしたこと)の際に、鷹狩りに出た家康。あたりに盗賊が出ると聞いて、忠次はそれを探索、隠れ家をみつけて武辺で討ち取ります。

その報告をしに行くと、家康は「一統の指揮者が、自ら賊とわたり合うのは血気の勇だ」と言われ、以後はなるべく弁舌によって懐柔することを覚えたといいます。ちなみに、この甲州仕置きの際に、信玄堤を観察して、治水の妙を習得したとかなんとか。

秀吉の北条攻めでは、渡河を急ぐ秀吉をなだめ、小田原開城後は貯蔵米穀の調査を担当しました。その際、北条方の米蔵奉行を登用し、帳簿を確認させ、かなり正確な貯蔵米穀のリストを提示したことで秀吉はいたくよろこんだといいます。

そんな忠次は、家康の関東入封に際し、小室丸山を領土とし、在地の土豪たちを手なずけながら、治水を行っていきました。その一つが、旧入間川の流路変更で、これによって「鴨川」が旧入間川に流れ込む支流扱いではなく、入間川からの分流を吸収したりしながら、荒川へ流れ込むようになりました。

忠次は、利根川の流路を付け替えたり、綾瀬川分流口を改修したり、関東や尾張の検地をしたり、評定衆で裁定したりで、大活躍。初期、徳川幕府の行政を大久保長安なんかと一緒に支えた立役者になりました。長安は、汚職などで処分されるのですが、忠次は実直な人で、最期まで家康に仕えた人でした。

伊奈忠次は、関東の川をめぐる際には、必ず出て来る人物なので、ちょっと紹介しておきました。

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