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「役に立つ」信仰②

『「役に立つ」信仰』という記事を書いてすぐ。
投稿された自分の記事をスクロールしていったらやらぽんさんのこんな記事に出会った。

そしてこの記事は、マッコレイさんのこの記事にインスパイアされて書かれたとのことで、そちらも読んだ。

たった数分で、「役に立つ」という尺度について2つも示唆を得ることができた。

やらぽんさんの、

人と向き合うときに、役に立つかの有用性や得をするかの損得勘定でしか向き合えないとしたら、あまりにも薄っぺらで悲しいと思う。
『役に立つのか得をするのかでは無く存在そのものを愛おしむ気持ちで向き合うことが大切かも!』やらぽん⭐︎のほほんゼミナール

という言葉はグサっときた。ここの「人」を「自分自身」に置き換えるとまるごと私のことになる。私は私自身の表面的なところしか見ていなかったのだ。
そして、

だって楽しいから、平気だから、好きだからの、からを使って生きていきたいもんですね。
『役に立つのか得をするのかでは無く存在そのものを愛おしむ気持ちで向き合うことが大切かも!』やらぽん⭐︎のほほんゼミナール

という言葉は新しい尺度を持つためのヒントをくれた。
私にとって、楽しいからすること、平気だからすること、好きだからすることってなんだろう。まだ思いつかないけれど、考えるだけでワクワクしてくる。

一方、マッコレイさんは、

自分を押し殺して、会社のために働いてきた人は、生きがいや やりがいがなかったら 社会に貢献できなくなったら、生きていく価値はないと思わされていませんか?
『「生きてちゃ、いかんか」 』マッコレイ

と問いかける。
ああ、これ私のことだと感じた。
私は知らないうちに自分を押し殺してきたのだろう。
そして、マッコレイさんは、

大丈夫なのです。人のために生きるのではなく、自分のために生きて良いのです。
『「生きてちゃ、いかんか」 』マッコレイ

と力強く述べる。
もっと自分のために、私が「自分勝手じゃない!?」と感じてしまうくらいに自分のために生きていいのだと、背中を押された気分だった。

私が「役に立つ」信仰を抜けて新たな尺度を持つヒントは、楽しいことや好きなことにあるのだろう、きっと。
楽しいことや好きなことを探すところから、「自分のために生きていい」と思える自分を作っていきたい。

お二人とも、ありがとうございました。

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