風鈴少女

 ――凛……。凛……。
 風鈴が鳴っていた。ああ、鈴香(すずか)が来たんだなと思うと、僕は少しだけ憂鬱だった。
 蝉の声が聞こえる。せめてもう少しだけ寝させてほしい。できればこの声を子守唄にでもしてほしい……。
「……起きてる?」
「……グッドモーニング」
 風鈴のガラスが頬に触れられると、じんわりと冷たさを増し、寝汗を感じるのとは対照的な触感は、まるで鈴香が意図して与えた演出だと思った。同じ薄毛布の中に鈴香は潜り込んでいて、悪童がいたずらをしたように白い歯を見せるのだった。

 風鈴の音がすると、いつも鈴香がいた。この辺りではもっぱらの評判で、この時期になると近所の悪ガキたちに交じって風鈴を鳴らしながら遊んでいる。
「蛍助(けいすけ)今日も暇なんでしょ?」
 鈴香がおかっぱ頭に巻いた三角巾を揺らしながら笑っていた。
「……できれば暇なまま過ごしたいところだね……ん、美味しい」
「でしょー。おばさんに教わったお味噌汁だもん。蛍助の舌にばっちりよ」
 何を教えているんだおふくろ。
「蛍助、今日は川に行こうよ。夏休みだもん、遊ばなきゃ損だよ」
「宿題は?」
「現実逃避」
「やってないんだな」
 鈴香は胡坐をかきながら手の甲で頭を掻いた。
「まあいいけどさ。今日は何人で遊ぶんだよ」
「んー」
 鈴香は膝頭に止まった蚊を叩きながら、
「……今日は二人きり」
 笑窪のあたりを人差し指で撫でながら目線を逸らすのだった。

 物心つく頃には、鈴香が隣にいた。時が止まった田舎の四季を、鈴香と共に過ごした。母親同士が友達だったから、子供同士もくっついたような関係だったが、僕たちがそれ以上の関係になることはなかった。
 僕も鈴香も、同級生や上下級生を問わず地元の子供たちと遊んでいた。だが中には親の転勤や出稼ぎ、進路の関係で田舎を離れる子供たちが増えて、僕と鈴香は地元の数少ない子供になっていた。やがて僕たちもここを離れることになるのだろうか、と思うことはあった。けれどもそれは先の事だろう。今はただ、鈴香と遊ぶこと、夏の景色を共にすることが毎日続いたら良いと思うしかなかったし、そんな未来が来ることを信じたくないと願っていた。
「蛍助はさ、高校に行くの?」
砂利道をジャラジャラと鳴らしながら、鈴香が風鈴を鳴らして呟くのだった。
「そりゃ行くよ。鈴香はここに残るの?」
 鈴香は目を伏せた。
鈴香の繊細な指に、幾つかの微かな切り傷があった。
「実家に残る」
 鈴香が高校に行かないのは勉強ができないからではなかった。鈴香は米農家の一人娘で、いずれは婿をとって家を継がなくてはならない。
「だから、蛍助とは最後の夏じゃん……」
 鈴香の言葉に、僕は胸に杭を打たれる気持ちになった。例え自分が否定しても、鈴香の言葉が現実なのだ。
 しばらく歩いた。山奥の川は人の目につかない秘境のようなものだ。たまに川釣りの人も来るが、この場所を知っているのは地元でもごくわずかだろう。
 鈴香は僕の目も気にせずに脱いだ。僕はワッとなって背を向けたが、一瞬見えた鈴香の胸は、自分の知っている過去のものより膨らんでいて、それがかえって時が流れることの皮肉を教えていると思い、気が滅入った。
 鈴香が水着を着ると、川に飛び込む。飛沫が空に届くように跳ねた。
「蛍助も来てよ」
 僕は川面に足をつけ、それからゆっくりと鈴香に寄った。鈴香は川水をバシャバシャと投げつけ、僕もそれに応えた。これが最後の夏かもしれないのだから。
 それから一寸の間だったけど、鈴香は暴れ疲れたのか僕の方に寄って来て、ギュッと僕の胸元に潜り込んだ。
「行かないでよぅ……」
「それはできないよ」
「私、大人になんかなりたくない」
「大人って……来年はまだ十六だろ」
「馬鹿」
 鈴香の力が強くなった。
「みんなもいなくなって、蛍助までいなくなるなんて、私寂しいよ……」
「おばさんも親父さんもいるだろ? 何なら、俺のおふくろだっている」
「蛍助が良いの。蛍助がいないままお婆ちゃんになりたくない」
「鈴香」
 鈴香との抱擁は、冷たく感じた。
「今日の夜、またここに来よう。話がしたい」
 鈴香は川水に濡れた顔を腕で擦りながら、頷いた。

 ――凛……。凛……。
 風鈴が、夕空に鳴っている。喜びや楽しい思い出は、風鈴の音と一緒にあった。僕も、この音を聞けなくなるのは寂しい。
 鈴香が玄関の蛾を払いながら立っていた。
「待たせたね」
「ううん」
 鈴香の表情は戻っていたが、朝のような悪戯顔はなかった。
 夕空は闇に代わる。サンダルが砂利にこすれる音が、僕らを変な気持ちにさせるので、鈴香は僕の腕をずっと握っていた。僕はただ歩くことしかできない。
 静寂。
 僕らは何も言わない。ただあの川を目指してずっと歩いている。そのうち、鈴香が声を上げた。
「ねえ、やっぱり帰ろうよ……」
「もう少し付き合ってほしい」
「暗くなってきたし……怖いよ……本当に川に行かなきゃ話せないことなの?」
「できることならね」
「だったらお昼の内にもっと川で遊んでいればよかったのに……そうしないと……」
 鈴香の気持ちは分かった。きっと僕と一緒の時間を少しでも長く作りたかったのだ。それでも……
「夜が良い。でないと話ができない」
「馬鹿!」
 鈴香は顔を真っ赤にして泣いていた。
「鈴香の気持ちも知らないで!」
「おい!」
 鈴香は引き返した。しかし止まった。サンダルが破れて砂利が足に食い込んでいた。
「何やってんだよ!」
「……うるさぃ」
 僕は鈴香を怒鳴った。けれども、鈴香を一方的に付き合わせた独りよがりを恥じた。
「……つかまれよ」
 僕は鈴香に背を向けてしゃがんだ。鈴香の様子は見えなかったが、しばらく経ってから首元に腕をかけられるのだった。鈴香の首の風鈴が、僕の背中にピタと重なった。それからごめんと言う鈴香を背負って、僕は闇の砂利道を歩いた。
 平坦な道だった。それでも鈴香をおぶって歩くことは力が必要だった。
 鈴香は声も出さない。泣き止んでいるようではあったが、本当の表情は窺えない。
 やがて林を抜ける。光が、木々の隙間から少しずつ大きくなって、明滅を繰り返す。ここにきて、鈴香は呟いた。
「蛍火……」
 川辺一面に、無数の蛍の光が明滅を繰り返し、飛んでは止まってを繰り返した。フラフラと上りあがった蛍の光が、天然の電灯のようになって川を照らすのだった。
「これを見せたかった」
 鈴香を降ろし、足の痛みを感じさせない程度に支えた。
「これだけ?」
 鈴香の表情が涙を帯びながらも赤く火照っている。悪戯っぽい笑顔。僕の知っている鈴香だった。
「鈴香。俺は高校に行く。でも、いずれここに帰ってくる。鈴香は俺がいないままお婆ちゃんになりたくないって言ったけど……」
 蛍の明滅で窺えた鈴香の表情は子供であり、大人びいてもあった。僕はこの娘の気持ちに応えられているのだろうか。少しだけ照れ臭くなった。
「俺も鈴香のいないまま歳なんて取りたくない。帰ってきたら、一緒になろう。だから、三年間だけ我慢してほしい」
「我慢できない時は?」
「いつでも会いに来るさ」
 それから鈴香と抱擁を交わした。長い抱擁だった。昼のそれと違い、夜に交わすことは熱を帯びていたようだった。
 大人になることも悪くない。大人になるという現実が僕らの前に現れるのであれば、僕らが一緒に歳を取ることが、現実へのささやかな抵抗なのだから。
 川辺の蛍は何も知らないまま明滅を繰り返した。風鈴が、蛍の照らす空に凛……と鳴り響くのだった。

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