日記的な何か ~多様性と障害~ 2020/4/27

実際、ポリティカル・コレクトネスが牽引する「多様性」という概念は「障害」という概念と極めて相性が悪い。

発達障害・精神障害を持つ当事者なら99%が同意してくれるだろうが、障害は障害であり、個性などではない。障害者に必要なのは療養と支援であり、「それもまたひとつの個性」というような類いの戯言ではない。

しかしポリティカル・コレクトネスは「多様性」という美しい言葉で、真綿で首を締めるように、障害者を療養と支援から遠ざける。

「男の子みたいな遊びが好きなの?素晴らしいね!」

「数学がたまらなく好きなの?素晴らしいね!」

「ひとつのことに集中したら何時間もそのまま熱中してしまうの?素晴らしいね!」

個性だよ。それは個性だ。個性。個性だよ。君は個性的だ。ユニークだ。素晴らしいね!

そうして障害者は療養と支援から遠ざけられ、死ぬ。


引用記事:ポリティカル・コレクトネスが障害者から医療を遠ざける

障害と多様性の相性の悪さについて述べられたこの文を読んでハッとした。
自分は発達障害当事者でありながら多様性を推していたからだ。
作ろうとしている創作のテーマに多様性を置いた程には重要視していたのである。
しかし現実に自分は障害によって社会的に死んだも同然の状態にいる。
そしてその現状を致し方なしとし、這い出る気力も起きぬままの今を諦観を持って受け入れている。
真綿で首を絞めるように、という表現が胸に刺さる。
人としてより良くありたいと願いつつもこれ以上自分を変える意義を見出せないその理由が、まさに多様性を認めていることから来ているのではないか。


少し自分の創作の話をする。
ヒロインは発達障害者をモチーフとした少女だ。
彼女は無口で普段は大人しいく従順だが時折なんの相談もすることなく飛び出すように行動してしまう。
そんな彼女が素のままで最終的に周囲に認められる(=多様性) というのを物語の大筋として置いていた。

自分はその結末にいまいち納得できず筆が進まずにいる。
キャラや話が安直だとか言うのはまあ兎も角として、その物語を読んで自分は救われるのだろうかと、その思いが頭に引っかかってしまう。
現実に居たら嫌われそうなキャラクターが認められる様を見て、自分や自分に似た人が救われればいいと、物語を考えた時には思ったのであるが。


そう、確かに、過去の自分は多様性によって救われたのかもしれない。
何故、自分にとってあたりまえに出来るようなことが出来ない彼らが、あたりまえに出来ることを自分が出来ないのか。
それによって彼らと同じ土俵に立つ事すら難しかった自分にとっては、多様性という考え方は確かに自分の心を救ってくれた。

今私は、いい加減彼らと同じ土俵で戦って行けないと諦めの末に大学を中退し、安穏たるニート生活を送っている。
自殺願望という程強く死を願った訳では無いが、いつぞに死んだところで困ることはない、心の平穏を得る為に戦った後のいわば老後の生活のようである。
私は多様性を認めることによって、安心して余生を送る事が出来た…もちろん、余生というには早過ぎる年齢であるし、趣味に掛けるお金が欲しいとか誰かの役に立ちたいなどという一般的な欲求もある。
欲求を殺し、社会的に見れば死んでいるも同然な自分は完全に救われたと言えるのか?
必ずしも社会に帰属する必要はない、というのはまさに多様性の話なのである。
そうかもしれないね、でもそれじゃあ飯は食えないのよ。


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