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働かざるもの食うべからずの本当の意味

新型なんちゃら症対策だと銘打っての自粛だとか、その前には一昨年の消費増税の打撃を受け、シャッターを降ろす店舗の勢いが止まらない。あの店も、この店も…何十年と続いていたのに。そして生き残るのは大企業、グローバル資本ばかり。

緊急なんちゃら宣言の週末、閉店している数多くの店舗の隣では、人々でごった返す大規模チェーンの飲食店があり、電車内は相変わらずラッシュアワーの人混み。まるで悲劇の中の喜劇だった。

国から休業要請が発動し、困窮した飲食店がクローズアップされがちだが、社会にはその他の様々な業種(中小零細企業)が社会の細部に存在していて彼らは可視化される事はない。
休業要請されていないから、保証もなく仕事を失っている人たちが彼方此方に点在している。

その一方で株価が上がり、実際の労働無しに自動的に富を得ている層がいる矛盾。これが金融資本主義の末路なのだ。

働かざるもの食うべからず…は働いていない者は食うなではなく、実質的な労働力ではない手段で得た富を、社会に適切に還元することなく贅沢に、必要以上に消費する層に向けられたものだ。今、人間の価値が"どれだけ稼げるか、生産性はあるのか、(その生産性とは結局のところは貨幣)"で計られてしまう。
という事はお金を稼げない者は価値がない、という事だが、本当にそうなのだろうか。人々が社会で協働していく姿勢よりも、いかに金儲け出来るかに価値を置き、それが出来ない者たちは無価値だ、邪魔だと排除されている事にとてつもない違和感を感じてしまう。

そんな事が何十年とまかり通り、更に加速する社会で人々が心豊かに他者と協働し、穏やかに暮らせるんだろうか…否暮らせるはずがない。ましてや政府が国民を守ることよりも自分たちを守ること、否企業を守ることに重きを置いている国家では尚更だ。

資本主義は社会のインフラを構築し、整備し、人々の暮らしを便利にしてきた。だがその豊かさと反比例して人々の心は窮屈になってきたのではないか。

専業主婦は労働者とみなされない事や、育事や家事は、自己利益として社会から見放され自己責任とされ、貨幣を稼がない主婦は貨幣を稼ぐ夫よりも生産性が低いと見下される。反対もまた然り。

高齢の親の介護は自己責任とされ、介護離職した"男性"たちは貨幣を稼ぐ仕事から離脱し、介護や家事をして労働していても貨幣を稼げないとして社会から見下されるし、自分たちも社会に貢献していない、属する場所がない、と肩身が狭い。

子どもたちは、学校で学ぶ事が仕事だとされ、学校の一側面での価値観の中でジャッジされ、カテゴライズされ、その違和感で不登校になると、問題児、問題のある家庭の子とされ見下されるし、自分たちはやるべき事=学習をやっていない、属する場所がないと肩身が狭い。

労働とは?人の価値とは?貨幣を稼ぐ事だけが価値のある事なのだろうか。
貨幣が貨幣を稼ぐ…そこには実態的な労働力は存在しない。あなたがもし介護が必要になった時、貨幣はあなたに何もしてくれないというか出来ない。当たり前だがそれは人ではなくただの紙だからだ。

そんなことを言うと、"貨幣は人材を確保して介護しに来てくれる"と言われるかもしれないが、それは本質ではない。
もしこのまま世界の人口が減少し、実質的な労働力が必要とされ、貨幣に価値がなくなり、カネで人が買えなくなったらどうなるのか?この世界は需要と供給のバランスが保たれる事で成り立つのではないか。地球レベルで考えると決してバランスは保たれていない。一部の富裕層と大勢の貧困層といういびつな形、それが今の人類だ。

そう考えると、いつも必死でマンション内の清掃をしてくれるシルバーさんの1日は、宇宙旅行に行くために自分の身体を鍛える為だけに1日を費やす富裕層よりも尊いし、人々にとって価値があるのではないかと思う。シルバーさんの時給は最低時給よりも少なく、富裕層のそれは宇宙旅行一回でフランスの1年分の二酸化炭素を排出するこの不条理。そしてそんな富裕層を羨望で見上げる人たち。

私たち人類は何処を目指しているのだろうか。

加速主義とは抜粋すると、資本主義を深化させ、自己破壊的な傾向を早め、最終的にはその崩壊につながるという信念。

人類はもう既に行き着く所まで行き着いていて後戻り出来ないのかもしれない…。本当に必要な仕事が報われず、対価は与えられずとも良しとされている現実…人々がこれはおかしいと思えないのは感情が劣化したからではないのか。

そんな私の頭の中を少し整理してくれたこの記事。私は希望を見出せないけれど最期まで抗いたい。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82764?imp=0

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